盾の内側で、消えた子どもが泣いていた
『ぼく、ここにいるよ』
その声は、盾の内側から聞こえた。
扉の向こうではない。
家の奥でもない。
父親の背中の後ろでもない。
盾の、内側。
俺が指を触れた丸い盾の奥から、小さな声が確かに響いた。
工房の空気が止まった。
炉に積もった灰も、壁に吊るされた古い工具も、作業台に寝かせたカイルの槍も、全部が息をひそめたように静まり返る。
俺は盾を見つめたまま、動けなかった。
さっき盾に触れた指先が、まだ痺れている。
触った瞬間、俺の意思とは無関係に【修復】の魔力を吸い上げた盾。
扉の前で爪を受け止め続ける男。
背中に隠れていた三つの小さな影。
記録では、妻と子ども二人。
でも俺が見たのは、三人だった。
そして今、その三人目が言った。
ここにいる、と。
「ルカ」
ノエルの声がした。
いつもより低い。
「今の、聞こえたのか」
俺は頷こうとして、喉が動かなかった。
代わりに、かすれた声が出た。
「……聞こえた」
「俺は、聞こえなかった」
ノエルは盾を睨んでいた。
怯えている。
けれど、目を逸らさない。
カイルの槍を抱えていたときと同じ目だった。
怖いものを前にして、逃げるのではなく、噛みつく場所を探す目。
「何て言った」
「ここにいる、って」
ノエルの喉が小さく鳴った。
「ここって、どこだよ」
俺は答えられなかった。
マレナを見る。
彼女は片目を細め、盾を見下ろしていた。
さっきまでの皮肉は消えている。
残った目の奥にあったのは、驚きではない。
もっと重いもの。
長いあいだ、見ないふりをしてきた扉が、目の前で開きかけているのを見た人間の顔だった。
「マレナさん」
俺は言った。
「この盾、何なんですか」
「ダリオの盾だと言ったろう」
「それだけじゃない」
自分の声が、思ったより強く響いた。
「子どもが三人いました。記録では二人。でも、三人いた。今、三人目の声が盾の内側から聞こえた」
俺は盾に触れようとして、指を止めた。
さっきの感覚が蘇る。
魔力を吸い取られる感覚。
俺が触れたのではなく、盾のほうが俺を掴んできた感覚。
あれは、普通の壊れ方じゃない。
カイルの槍は、兄の願いを抱えていた。
聖剣は、名前を削られた者たちの声を押し込めていた。
でもこの盾は。
この盾は、何かを中に閉じ込めている。
「教えてください」
俺はマレナを見た。
「あなたは、何か知ってますよね」
マレナはしばらく黙っていた。
煙管を拾おうともせず、足元に落としたままにしている。
それだけで、この話が彼女にとって軽くないことがわかった。
「知ってることと、言えることは違う」
「またそれですか」
言葉が荒くなった。
自分でもわかった。
けれど止まらなかった。
「カイルさんのことも、知ってる人は知ってるって言いましたよね。でも記録にはならなかった。知ってる人が黙っていたから、ノエルのお兄さんは逃亡兵になった」
ノエルが息を呑む。
マレナの片目がわずかに揺れた。
「この盾も同じですか」
俺は続けた。
「誰かが知ってる。でも言わない。だから三人目は消されたまま。盾の内側から、ここにいるって言い続けてる」
「ルカ」
ノエルが小さく言った。
止めようとしたのかもしれない。
でも俺は、止まれなかった。
「俺は、王都で見ました。傷を隠した聖剣を。美しく飾って、直ったことにされたものを」
バルザックの声が、耳の奥で蘇る。
傷など、誰も見たがっていない。
真実ではない。
完璧に輝いている象徴だ。
あの言葉が、まだ皮膚の下で焼けている。
「ここでも同じことをするんですか」
マレナの顔から、最後の柔らかさが消えた。
「小僧」
低い声だった。
「知ったような口を利くんじゃないよ」
工房の空気が、一段冷える。
ノエルが黙る。
俺も、一瞬だけ息を呑んだ。
マレナは小柄な老婆だ。
片目を失い、背は曲がり、古い煙管を持った工房番。
でもその声には、戦場を知っている人間の重さがあった。
「黙っていた人間が、楽だったと思うかい」
マレナは一歩近づいた。
床板が軋む。
「言えば救えたものばかりだと思うかい。記録を書いた連中が、全員笑って人を消したと思うかい。違う。泣きながら消した奴もいる。吐きながら署名した奴もいる。生き残るために、次の村を守るために、今日の飯を配るために、誰か一人の真実を切り捨てた奴もいる」
俺は何も言えなかった。
「王都の連中は飾る。こっちの連中は埋める。どっちも綺麗じゃない」
マレナは盾を見た。
「けどね、掘り返した土の下から出てくるものが、いつも救いだと思うな。名前を戻せば終わるものばかりじゃない。声を聞けば楽になるものばかりじゃない」
「でも」
「でも、じゃない」
マレナの声が硬くなる。
「あんたは聞こえる。だから危ないんだよ」
彼女の残った片目が、俺をまっすぐ射抜いた。
「聞こえる人間は、自分が救えると思い込む。届かなかった声を聞いて、なら届ければいいと思う。けど、違う。声ってのは刃だ。向ける相手を間違えれば、今生きてる人間まで裂く」
胸の奥が、ぐっと詰まった。
カイルの槍。
ノエルは救われた。
少なくとも、兄が逃げていなかったことを知った。
でも、商人は去り際に言った。
公式記録は逃亡兵だ。
王都の記録は一文字も動かん。
あれで終わりではない。
むしろ、始まってしまった。
ノエルを、黒冠商会と記録の前に立たせてしまった。
俺がやったことは、本当に救いだったのか。
それとも、ノエルの傷を別の形で開いただけなのか。
「ルカ」
ノエルが言った。
俺が振り向くより先に、彼は口を開いた。
「俺は、聞けてよかった」
小さな声だった。
でも、まっすぐだった。
「兄ちゃんが逃げてなかったって、知れてよかった。これから面倒になるとしても、それでも、知らないままの方がよかったとは思わない」
ノエルはカイルの槍を抱え直す。
白い布が、かすかに揺れた。
「だから、俺はルカを恨まない」
その言葉に、喉の奥が熱くなった。
マレナはノエルを見た。
少しだけ、目を細める。
「強がるね」
「強がってる」
ノエルは即答した。
「でも、本当だ」
工房に、短い沈黙が落ちた。
マレナは深く息を吐き、落ちた煙管を拾った。
火は消えている。
彼女はそれを見て、乾いた笑いを漏らした。
「まったく。厄介者が二人になった」
「三人じゃないのか」
ノエルが盾を見た。
俺も見る。
黒く焼けた丸い盾。
爪痕が三本。
内側から聞こえた、小さな声。
ぼく、ここにいるよ。
マレナはその盾の前にしゃがんだ。
さっきまでより、ずっと慎重な動きだった。
「ダリオには、子どもが二人いた」
ぽつりと、彼女は言った。
「少なくとも、村の記録ではね」
「村の記録では?」
「ああ」
マレナは盾の裏側を見る。
「妻の名はエミナ。長男テオ。長女リタ。南村の家族帳にもそう残っている。戦後に王都へ送った被害報告にも、同じように書いた」
「じゃあ、三人目は」
「いないことになってる」
マレナの声は低かった。
「最初から」
最初から。
その言葉が、やけに重く響いた。
「生まれてなかったってことですか」
「そう記録にはなる」
「でも、いた」
「盾はそう言ってる」
「マレナさんは」
俺は彼女を見る。
「その子を知ってるんですか」
マレナは答えなかった。
答えない。
それだけで、何かを知っているのがわかる。
俺は苛立ちを飲み込んだ。
無理に聞き出しても、また同じだ。
焦って開けると、壊れるものもある。
さっきマレナが言った言葉が、自分の中で引っかかる。
「この盾は、なぜ戻ってきたんですか」
俺は質問を変えた。
「持ち主の家に返したのに、工房の前に戻ってきたって」
「ダリオの家は、もうない」
マレナは言った。
「焼けた。家族は助かったが、南村には残らなかった。戦後すぐ、親戚を頼って西へ行った」
「なら、盾を返した相手は」
「村の預かり所だ。遺族がいないもの、行き先のわからないものは一度そこへ集めた。盾もそこへ送った。翌朝、工房の前に戻っていた」
「誰が戻したんですか」
「誰も見ていない」
「盾が勝手に?」
ノエルが眉をひそめる。
「怖すぎるだろ」
「だから呪いと呼ばれた」
マレナは乾いた声で言う。
「その後、三人の修復士が触った。全員、扉の夢を見た。父親が何かを庇っている夢。ただし、子どもは二人だった」
「二人……」
「誰も三人目を見なかった。だから、盾は戻ってくる理由のわからない厄介な遺物として、ここに置かれた」
「触った修復士たちは」
「一人は王都へ帰った。一人は工房を辞めた。一人は」
マレナはそこで言葉を切った。
「一人は?」
「盾に触った腕が、しばらく動かなくなった」
俺は自分の腕を見た。
まだ、折れたような痛みが残っている。
幻視の中で、ダリオの腕が折れた。
その痛みが、こちらへ流れてきた。
「この盾は、記憶を見せるだけじゃないんですね」
「そうだよ」
マレナは俺を見る。
「持ち主の痛みまで渡してくる。深く触れば、あんたの腕も持っていかれる」
ノエルが露骨に顔をしかめた。
「もう触るなよ」
「そういうわけには」
「あるだろ」
「でも」
「でもじゃない」
ノエルが俺の前に出た。
小さな体で、盾との間に立つ。
その肩は、怒りではなく、激しい恐怖で震えていた。
槍のためだけじゃない。
俺のために王都を、商会を敵に回し、泥にまみれて兄の名前を引っ張り出してくれたこの修復士が、今度は目の前で腕を折られようとしている。
その現実が、少年の意地を張り裂きそうにしているのだと、その鋭い目を見て気づいた。
「兄ちゃんの槍だって、まだ直ってない。ルカのナイフのこともある。……これ以上、変な傷を増やすんじゃねえよ」
その言い方は荒かった。
でも、怒っているというより、怖がっているようだった。
俺が倒れれば、カイルの槍も直らない。
ノエルはそう思っているのかもしれない。
それだけではない気もした。
「ノエル」
「何」
「ありがとう」
「礼を言う場面じゃない」
「たぶん、そうだけど」
「たぶんって言うな」
ノエルが睨む。
そのやり取りを見て、マレナが少しだけ息を漏らした。
笑ったのではない。
でも、空気がわずかに緩んだ。
「触るなとは言わない」
マレナが言った。
「ただし、今日は二度目はやめな」
「なぜですか」
「盾のほうが、あんたを覚えた」
俺は盾を見た。
盾は黙っている。
けれど、さっきより近く感じた。
物としての距離ではない。
声の距離だ。
壁の向こうで誰かがこちらの足音を聞いているような、そんな近さ。
「次に触れば、もっと深く引きずり込まれる」
「なら、どうすれば」
「外側から見る」
マレナは立ち上がり、棚の方へ歩いた。
古い木箱を一つ引き出す。
箱の蓋には、焦げた札が貼られていた。
南村返還物。
ダリオ家。
返還不能。
俺とノエルは顔を見合わせた。
マレナは箱を作業台に置いた。
蓋を開ける。
中には、いくつかの品が入っていた。
焼け焦げた木匙。
半分溶けた銅の髪留め。
子ども用の靴の片方。
細い紐で束ねられた布切れ。
それから、小さな木札。
「遺品ですか」
「家の跡から出たものだ」
マレナは木札をつまみ上げた。
表面には、煤で黒ずんだ文字が刻まれている。
テオ。
リタ。
そこまでは読めた。
その下に、もう一行。
文字の跡がある。
だが、削られていた。
刃物でえぐったように。
名前だった場所だけが、不自然に消されている。
「これ……」
ノエルが呟いた。
「三人目の名前?」
「だろうね」
マレナは木札を置いた。
「でも読めない。家族帳にもない。村の記録にもない。慰霊板にもない。生存者名簿にもない」
「誰かが消した」
俺は言った。
マレナは頷かなかった。
ただ、否定もしなかった。
「なぜ」
「理由はいくつも考えられる」
マレナは箱の中身を見る。
「隠し子。養子。戦災孤児を一時的に預かっていた。あるいは、記録に載せられない出自の子だった」
「記録に載せられない?」
ノエルが聞く。
「魔族との混血とか、敵側の子とか、王国に都合の悪い血筋とか」
マレナは淡々と言った。
「戦争中は、そういう子がいた。拾われても、家族として記録されない。名前を呼ばれても、紙には残らない」
喉の奥が詰まった。
灰にまみれた小さな子ども。
煙の中の男。
欠けたナイフ。
俺は、自分の道具袋に触れた。
記録に載せられない子。
その言葉が、胸の奥で嫌な音を立てた。
ノエルも、俺の手元を見た。
何かを言いかけて、やめる。
ありがたかった。
今、そこを突かれたら、たぶんうまく答えられない。
「この木札も」
俺は言った。
「壊れ物ですか」
「そう見るかい」
「名前が削られてます」
「文字を戻せると思うか」
「わかりません」
俺は正直に言った。
「でも、盾が覚えているなら、この木札も何かを覚えているかもしれない」
マレナは、しばらく俺を見ていた。
「触るなら慎重に」
「はい」
「盾よりは浅いはずだ。だが、名前を削った刃の感触が残っているかもしれない」
「刃の感触?」
「名前を消すってのは、紙や木を傷つけるだけじゃない」
マレナの声が少し低くなる。
「そこにあった人間の居場所を削るってことだ」
俺は木札へ手を伸ばした。
ノエルが何か言いかける。
俺は彼を見る。
「大丈夫」
「たぶん?」
「……できるだけ」
「それも信用できない」
「じゃあ、無理ならすぐ離す」
「絶対だぞ」
「うん」
俺は、木札の端に指を触れた。
盾の時のような濁流は来なかった。
代わりに、ざらりとした感触が指先を走る。
刃物で木を削る感触。
ぎり、ぎり、と。
乱暴ではない。
むしろ、丁寧だった。
誰かが泣きながら、慎重に名前を消している。
そんな感触。
視界に、薄い影が浮かぶ。
暗い部屋。
小さな灯り。
木札を握る女の手。
指が震えている。
『ごめんね』
女の声がした。
『ごめんね。こうしないと、あなたまで連れていかれる』
刃が木札を削る。
名前が少しずつ消えていく。
『名前を消しても、母さんは忘れない』
母さん。
その言葉に、胸が痛くなった。
だが次の瞬間、別の声が重なる。
小さな子どもの声。
『ぼく、ここにいるよ』
盾の声と同じだった。
俺は息を止めた。
木札の奥で、削られた文字がかすかに熱を持つ。
見えない。
まだ読めない。
でも、一文字目だけ。
ほんの一瞬、煤の下で光った。
ミ。
そこで、指先が弾かれた。
俺は木札から手を離した。
息が荒い。
盾ほどではない。
けれど、胸の奥を爪でひっかかれたような痛みが残っている。
「見えたかい」
マレナが聞く。
「全部は無理でした」
「一部は?」
「一文字だけ」
俺は木札を見る。
もう光は消えている。
削られた跡だけが残っていた。
「ミ」
ノエルが繰り返す。
「名前の最初?」
「たぶん」
「ミ……ミル? ミナ? ミト?」
「わからない」
俺は首を振った。
「女の人が、名前を削ってました。母さんって言ってた」
マレナの顔が変わった。
ごくわずかに。
でも、確かに。
「母親が消したのか」
ノエルが呟く。
「なんでだよ。自分の子どもの名前だろ」
「守るため」
俺は言った。
さっきの声が、まだ耳に残っている。
こうしないと、あなたまで連れていかれる。
その言葉は、嘘ではなかった。
泣いていた。
本当に、泣いていた。
「連れていかれるって、誰に」
ノエルの問いに、俺は答えられなかった。
マレナもすぐには答えない。
その沈黙が答えに近い気がした。
「王都ですか」
俺が言うと、マレナは目を伏せた。
「戦後、身元不明の子どもは王都へ送られた」
「保護ですか」
「表向きはね」
「表向き?」
ノエルが眉をひそめる。
「じゃあ裏は何だよ」
「労働力。養子。神殿の管理。貴族への引き取り。孤児院。いろいろだ」
マレナの声は乾いていた。
「もちろん、本当に助かった子もいる。だけど、戻ってこなかった子も多い」
俺の手が、無意識に震えた。
俺は王都の下請け職人に拾われた。
灰の中にいた子どもだから、グレイ。
誰が拾ったのか。
どこの焼け跡だったのか。
俺は知らない。
知らないまま、王都で灰を掃いていた。
身元不明の子ども。
王都へ送られた子ども。
記録に載らない子ども。
頭の中で、ばらばらだった欠片が、嫌な音を立てて近づく。
「ルカ」
ノエルが俺の袖を引いた。
「顔、真っ青」
「大丈夫」
「嘘だ」
「……嘘かも」
「座れ」
ノエルに押されて、俺は作業台のそばに腰を下ろした。
情けない。
でも、膝が少し震えていた。
マレナは何も言わず、古い椅子をこちらへ足で押した。
「水」
彼女は棚の上の革袋を指した。
ノエルがすぐに取って、俺に渡す。
水はぬるかった。
でも、喉を通ると少しだけ現実に戻れた。
「続きは明日だ」
マレナが言った。
「今日はもう触るな」
「でも」
「でもじゃない」
今度はノエルとマレナの声が重なった。
俺は黙るしかなかった。
マレナは木札を箱に戻し、蓋を閉める。
盾にはまた黒い布をかけた。
その動きは丁寧だった。
さっきまで試すように扱っていた老婆とは違う。
彼女も、この盾を怖がっている。
いや、違う。
敬っているのかもしれない。
触れれば痛むものだと知っているから、雑に扱わない。
「寝る場所は奥だ」
マレナが言った。
「埃だらけだけど、床よりはましな寝台が二つある」
「マレナさんは」
「炉の横で寝る。昔からそうだ」
「俺たちは、ここにいていいんですか」
聞くと、マレナは片目で俺を見た。
「王都からの命令書は?」
俺は懐から追放状を取り出した。
もう何度も触ったせいで、端が少し曲がっている。
マレナはそれを受け取り、さっと目を通した。
「異動命令、ね」
鼻で笑う。
「綺麗な言葉だ」
「俺もそう思います」
「なら、今日からここがあんたの持ち場だ。嫌でもいてもらう」
「はい」
「ただし」
マレナは追放状を俺に返す。
「この工房では、王宮の肩書きは役に立たない。三等だろうが一等だろうが関係ない。壊れ物を雑に扱う奴は追い出す」
「わかりました」
「聞こえた声を、簡単に救いだと思う奴も追い出す」
俺は少し黙ってから、頷いた。
「……わかりました」
「本当にわかってる顔じゃないね」
「御者にも言われました」
「だろうね」
マレナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「まあいい。最初からわかってる奴なんていない」
その言葉だけは、少し優しかった。
ノエルが工房の奥を覗く。
「俺もいていいのか」
「槍を置いていくなら、あんたも置いていきな」
「俺は荷物じゃない」
「似たようなもんだ」
「違う」
「飯は自分でどうにかしな。ここは孤児院じゃない」
「わかってる」
ノエルはむっとした顔で答えた。
けれど、どこかほっとしているようにも見えた。
行く場所があるわけではないのだろう。
兄の槍を追ってここまで来た。
その先のことまでは、きっと考えていなかった。
俺も同じだ。
追放されて、ここに来た。
この工房がどういう場所なのか、何をすればいいのか、まだ何もわかっていない。
でも、持ち場と言われた。
壊れ物を雑に扱うなと言われた。
それだけで、少しだけ足元に床ができた気がした。
夜になった。
工房の窓板の隙間から、冷たい風が入ってくる。
マレナは炉に小さな火を入れた。
火と言っても、王宮工房のような明るい炎ではない。
灰の下で赤く息をする、静かな火だ。
俺はカイルの槍を作業台の上ではなく、壁際の横木に立てかけた。
マレナが「そこならいい」と言ったからだ。
白い布は、ノエルが自分の手で軽く結び直した。
不器用だった。
でも、丁寧だった。
「兄ちゃん、寒くないかな」
ノエルが呟いた。
「槍に寒いとかあるのかい」
マレナが言う。
「あるかもしれないだろ」
「まあ、ここにあるものは大体寒がりだ」
「じゃあ火の近くに」
「火に近すぎると乾く」
「面倒くさいな」
「壊れ物ってのは、だいたい面倒くさい」
ノエルは黙って、槍の位置を少しだけ調整した。
俺はその様子を見ていた。
兄の槍を直す。
カイルの記録を直す。
ダリオの盾の三人目を探す。
欠けたナイフの声を聞く。
やることが、いきなり増えすぎている。
でも、不思議と嫌ではなかった。
怖い。
もちろん怖い。
壊れ物の声を聞くたび、自分の中のどこかも削られる。
それでも、王宮工房で灰を掃いていたころより、息がしやすい気がした。
ここは暗い。
寒い。
壊れている。
でも、ここでは壊れていることを隠さなくていい。
俺は炉のそばに座り、工具箱を開いた。
王宮から持ってきた安物の道具が並んでいる。
研磨石。
針金。
革切り。
古い布。
どれも使い込まれ、綺麗ではない。
でも、俺の手に馴染んでいる。
マレナが横から覗いた。
「貧相な道具だね」
「すみません」
「謝ることじゃない。道具は立派すぎると、手より先に道具が仕事をしたがる」
「どういう意味ですか」
「そのうちわかる」
またそれだ。
俺は思わず苦い顔をした。
マレナはそれを見て、煙管をくわえ直す。
「顔に出やすいね」
「よく言われます」
「誰に」
「最近、いろんな人に」
「だろうね」
ノエルが横で、今度はほんの少しだけ息を漏らした。
笑ったというより、呆れたのに近い。
でも、さっきより表情は柔らかかった。
それで十分だった。
夜が深くなる。
マレナに案内された奥の部屋には、確かに寝台が二つあった。
一つは脚が少し傾いている。
もう一つは薄い毛布が破れている。
ノエルは迷わず破れた毛布の方を選んだ。
「俺、こっちでいい」
「脚が傾いてる方、怖くないか」
「槍の近くの方がいい」
破れた毛布の寝台は、壁一枚を挟んで工房側に近かった。
カイルの槍の近くだ。
俺は頷いた。
「わかった」
寝台に横になると、体が一気に重くなった。
四日分の移動。
宿場での騒ぎ。
カイルの槍。
グリム砦。
マレナ。
欠けたナイフ。
ダリオの盾。
記録にない三人目。
頭の中が騒がしい。
眠れる気がしなかった。
でも、目を閉じると、すぐに暗闇が深くなる。
その暗闇の中で、声がした。
『ぼく、ここにいるよ』
俺は目を開けた。
天井の板が見える。
隙間から冷たい風が落ちてくる。
隣の寝台では、ノエルが眠っていない気配がした。
「ルカ」
小さな声。
「起きてる?」
「起きてる」
「盾の声、また聞こえた?」
「……少し」
ノエルは毛布の中で動いた。
「三人目の子、まだいるのかな」
「わからない」
「盾の中に?」
「わからない」
「助けられる?」
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
助ける。
簡単に言えない。
声を聞くことと、助けることは違う。
マレナに言われたばかりだ。
声は刃だ。
向ける相手を間違えれば、今生きている人間まで裂く。
「助けられるかは、わからない」
俺は言った。
「でも、探す」
「何を」
「その子の名前」
暗闇の中で、ノエルが息を吸う音が聞こえた。
「名前か」
「うん」
「名前がわかれば、助かるのか」
「わからない」
「わからないばっかりだな」
「ごめん」
「責めてない」
ノエルは少し黙った。
それから、小さく言った。
「兄ちゃんの名前、戻したい」
「カイルさんの?」
「うん。逃亡兵じゃなくて、ちゃんと」
「うん」
「でも、盾の子の名前も、戻した方がいい」
俺はノエルの方を見た。
暗くて顔はよく見えない。
でも、声はまっすぐだった。
「誰かの名前が消されてるの、嫌だ」
その一言は、単純だった。
だからこそ、胸に残った。
「俺も、嫌だ」
俺は言った。
ノエルはそれ以上何も言わなかった。
やがて、彼の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
眠ったのかもしれない。
俺はしばらく天井を見ていた。
腰の道具袋に手を伸ばす。
欠けたナイフに触れようとして、やめた。
――王都へ送られ、戻らなかった身元不明の子どもたち。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
冷たい風が天井の隙間から落ちてくる。
闇のなか、腰の道具袋にある欠けたナイフが、かつてないほど重く、冷たく皮膚を刺してくる気がした。
喉の奥が、恐怖と、狂おしいほどの執念で熱くなる。
欠けたナイフに触れたい。
今すぐ、無理やりにでも開きたい。
けれど、マレナの声が頭に残っていた。
今日は、もう触るな。
焦って開けると、壊れるものもある。
直す手が、壊すこともある。
俺は手を戻した。
代わりに、自分の胸に触れた。
追放状はもう外套の内側にしまっていない。
工房の机の上に置いた。
それだけなのに、胸が少し軽い。
ここが俺の持ち場。
そう言われたからだろうか。
まだ信じきれない。
でも、王宮工房の床で眠っていたときより、少しだけ自分の体が自分のものに戻った気がした。
目を閉じる。
今度は、盾の声ではなく、看板の文字が浮かんだ。
折れた刃にも、帰る場所を。
壊れたものにも。
消された名前にも。
帰る場所は、あるのだろうか。
わからない。
でも、探す。
そう思った瞬間、遠くで何かが鳴った。
こん、と。
工房の方から、小さな音。
俺は目を開けた。
ノエルも起きたらしい。
「今の」
「聞こえた」
二人で起き上がる。
奥の部屋の扉を開けると、工房は暗かった。
炉の火だけが、灰の下で赤く光っている。
マレナは眠ってなどいなかった。
黒い布を被せられたまま震える盾の前に、彼女は古い杖を床へ突き立て、険しい顔で立っていた。
残された片目が、暗がりのなかで鋭く光っている。
「来たね、厄介者ども」
マレナは近づこうとする俺を、杖の先で制した。
「それ以上近づくんじゃないよ。盾が、扉を叩いてる」
背筋が冷えた。
工房の中央。
黒い布をかぶせたダリオの盾が、小さく震えていた。
こん。
また音がする。
盾の内側からだ。
誰かが、内側から叩いている。
こん。
こん。
ノエルが息を呑む。
俺はゆっくり近づいた。
マレナの杖が、俺の胸の前で止まる。
触るなと言われた。
今日はもう触るなと言われた。
でも、音は止まらない。
こん。
こん。
助けを呼ぶ音ではない。
居場所を知らせる音だ。
ここにいる。
まだいる。
忘れないで。
そう言っている。
俺は盾の前で膝をついた。
触れない。
マレナの鋭い視線が刺さるなか、触れずに、ただ耳を澄ませる。
盾の内側から、かすかな声が漏れた。
『ミオ』
俺は息を止めた。
ノエルが小さく呟く。
「名前……?」
俺の指先が震える。
木札に残っていた一文字。
ミ。
そして今、盾の内側から聞こえた声。
ミオ。
ドクン、と心臓が引き裂かれるような衝撃が走った。
ミオ。
その名が、俺の耳の奥にこびりついている「あの男の声」と、最悪の噛み合わせで衝突する。
眩暈がした。
足元が崩れ落ちていく。
逃げたかった。
だが、ここで目を背ければ、俺は一生、闇の中だ。
恐怖でひっくり返りそうな胃袋を、自らのどす黒い執念だけで無理やり捩じ伏せた。
他人のためじゃない。
俺のために、この子の真実を暴く。
記録にない三人目。
削られた名前。
盾の内側で、まだここにいると告げる子ども。
その名が、暗い工房の中に小さく落ちた。
俺は、盾に触れないまま言った。
「聞こえた」
声は震えていた。
でも、確かに言った。
「君の名前、聞こえたよ」
盾の震えが、ほんの少しだけ止まった。
その瞬間、炉の下で眠っていた灰が一際大きく爆ぜた。
黄金色の火花が、工房の闇を一瞬だけ照らし出す。
その光の中で、作業台の上の箱が見えた。
刃物でえぐり取られていた小さな木札。
一文字目の「ミ」の横で、焦げた木肌が、不自然にわずかに盛り上がっていた。
光が消え、また闇が戻る。
手は触れていない。
けれど俺の指先には、消されていた二文字目の輪郭が、確かに現実へ引っ張り出されようとしている【修復】の微かな熱が伝わっていた。
「……本当に、掘り返しちまったね」
マレナが炉の横で、絞り出すように呟いた。
その残された片目には、俺への恐れを通り越し、十年前に自分が埋めたものと真正面から向き合う覚悟を決めた老職人の、冷たい光が宿っていた。
「いいかい、ルカ。私たちは、もう地獄の蓋を開けたんだ。……お互いに、後戻りはできないよ」
その夜。
グリム旧工房で、最初に戻ったのは。
盾の傷でも、焼けた木肌でもなく。
記録から消された、小さな名前だった。




