9.私、お友達になります!
約束した、二週間の最終日。
今日の体温計も青色。ここ五日間連続だった。
エレオノーラ様も、リリアーヌ様も、どちらもだ。
つまるところ――。
「――私の勝ちね!約束は守って貰うわよ、ヴァ……グレン!」
報告書をテーブルにばさっと置いて、ふふん、と腰に手を当てる。
そんな私に、グレンは盛大にため息を吐いた。端正な顔をこれでもかと、顰めっ面にして。
「いつ勝負になったんだ」
「勝負でしょう?あなたが持ち出したの、忘れたの?」
「俺は君の考えを受け入れてもいいと言ったんだ」
「負け惜しみ、負け惜しみ!だって私の勝ち、私の勝ち!グレンの負けで、私が勝った!」
「変な歌を作るな」
「私の美声に向かって失礼ね。作詞作曲の才能もありそうなのに」
「……本当にこの報告書をまとめた人間と同一人物なのか、君は」
「当然よ」
二週間の経過を元に、事実のみを記載した報告書。
ただし、今回は最後に私の推測も添えた。
『温香器は、香油そのものが体調不良の原因ではない。あくまでも本人の不快感を助長し、食欲を低下させていたのではないか。まめに洗浄や乾燥させなかった汚れが主原因と私は推測している。
また、熱があるからと入浴が減って、負担がないようにと配慮した結果、衣服やリネン類の交換も、明らかに汚れが目立つ時となっていた。
この上で換気も少ないとなると、汚れた温香器から発する蒸気と、衣服やリネンの埃が混ざってしまったまま空気中に溜まってしまう。その汚れた空気を吸うことで、肺や気管、喉に負担をかけていたのではないか。実際、温香器を片付けて換気をするようになったことで、エレオノーラ様の症状は劇的に改善している。
また、この仮説が正しいとするなら、リリアーヌ様の方が症状が軽かった理由にも説明がつく。
リリアーヌ様は乳母が主に世話をしており、乳母の部屋で過ごす時間も多かった。そもそも夜泣きで同じ部屋にいることも少なかった。赤ん坊は汗をかくから、まめな着替えと、毎日の沐浴をされていた。結果的に、それがリリアーヌ様の負担を減らしていたのではないか。』
そんな考察を書いた報告書と、目の前の私。
グレンは信じられないものを見るように、なんなら親の仇かってくらい交互に睨みつけていた。
けれど、観念したみたいに肩を落とす。
「……確かに、君の考察が全くの妄想とは思わない。リリィはあれから順調に体重も増え、姉さんも食事をほぼ完食できるようになった」
「ええ、エレオノーラ様の咳ももうほとんどなくなったわ」
「屋敷の中も自由に歩けるようになって、クラウゼン子爵も泣いて喜んでる」
「そうよ、鼻水を垂れ流しながら、エレオノーラ様の膝の上で喜び勇んでた。小躍りもしてたわよ」
「……その情報はいるのか?」
「いるわよ、家族からの好感度は大事だしね。それより、私に言うことはないの?」
えへんと胸を張る。
そう、胸を張るだけの理由はあった。
だってあの無茶な要求を叶えたのだから。原因も特定できない、基本的な感染対策グッズも薬もない。こんな分が悪い賭けに真面目に取り組んだ私は褒められるべきだ。
すると、グレンはさっき以上に嫌そうな顔をして、咳払いをした。
「その一言がなければ、俺だって感謝の一つくらい述べる気になったんだがな。君には慎ましさがないのか?」
「あら、慎ましいわよ?殿方の名前を呼び捨てにするなんて、すっごく抵抗があるもの!」
「どの口が言うんだ」
「そーれーよーりー!早く条件を詰めましょう?もちろん、言い逃れできないように書面でね!」
そうやって軽口を叩き合っていた矢先だった。控え目なノックが響く。
グレンがどうぞと告げると、侍女がおずおずと頭を下げる。そして、スッと入ってきたのは一人の女性。
グレンにも、エレオノーラ様にも似ている。二人を足して二で割って歳を取ったらこうなるのかな、みたいな雰囲気だった。正確には、もっと怖そう。気配としてはマルガ産婆長を思い出す。
「……母さん」
「そんな情けない声を出すのはやめない。今はあなたが当主なのですよ」
つい私もびくりとして、ゴムボールみたいに体が跳ねた。慌てて取り繕い頭を下げる。
「り、リネット・ミミックと申します」
「はじめまして。わたくしは、セレーネ・ヴァルハルトですわ。まあ見ての通り、この子の母親です」
セレーネ夫人はさっきとは別人のように、柔らかい笑顔で挨拶してくれた。厳しそうな印象が霧散する。
あ、もしかしてそんなに怖い人じゃないのかな……?
ほっと一息吐いた。そのタイミングだった。
「もちろん、あなたのことは聞いていますわ。あなたね、うちに入って好き勝手してくれたお嬢さんは」
「……えっ」
一気に頭が真っ白になった。クラウゼン子爵のような明確な敵意はなく、なんなら本当に笑顔で、優しい声で、ボディブローを食らわせられた。そんな感覚で、咄嗟に声が出ない。
それを見かねたように、グレンが慌てて立ち上がる。
「母さん、そんな言い方はよしてくれ。彼女はこれでも姉さんの体を……」
「ええ、それには感謝しています。ですが、わたくしはそもそもあの子がうちに戻ること自体許していません。当主のあなたが決めたことですから、口にこそ出しませんでしたが」
――これでもって何よ。
普段の私ならそれくらい口にした。間違いなく。
ただ、今はそんなことを言える空気ではなかった。
微笑みをまったく絶やさないセレーネ夫人に、私はすっかり気圧されていたからだ。これ以上の反論を許さないと言わんばかりの、笑顔の圧に。
グレンもうっと声を詰まらせかけて、それでも絞り出すように口を開く。
「……病気だったんだから、仕方ないだろう。それに、クラウゼン子爵も快く了承した」
「そうね、あの方はあの子にとても甘くて……甘やかし過ぎですわ。一度嫁入りした娘が戻るなんて、周りからどんな目で見られるか」
「それは……」
「次こそ男の子をと期待されて、その程度の言葉で逃げてくるなんて。これで音を上げていては、貴族の妻など務まりません」
エレオノーラ様と初めて会った時のことを思い出す。我慢して、我慢することしか知らないように耐えていた。香油の匂いが嫌だとすら言えない。
どんなにクラウゼン子爵が彼女を愛していても、周りの人も等しく愛してくれるとは限らない。どんな風に言われたのか。ましてや、それを実の母親から「その程度」呼ばわりされるなんて。
嫌な感覚に、胸が締め付けられ、胃の中がムカムカする。
「エレオノーラはクラウゼン子爵の元へ戻るよう、あなたが手配なさい。一日でも早く」
くっきり、はっきり。有無を言わせない口調だった。グレンが当主だからと口を出す気はないと言ったばかりなのに、矛盾している。
それに、気掛かりは他にもあった。
「……あ、あの。せめて、もうしばらく経過を見るべきではないでしょうか?エレオノーラ様の容体が安定するまで、もう少し……」
「もう五日も熱がないのでしょう。食欲も戻った。それは扉の外まで聞こえていましたよ」
「で、でも、屋敷に戻してまた悪くなったら……」
「なら、あなたがこの家で指示したことを、紙にでもまとめてクラウゼン邸でも守らせなさい。エレオノーラに甘いあの方なら、使用人にいくらでも言い聞かせるでしょう」
私はグレンの鶴の一声で、セレーネ夫人の言う通りそれこそ好き勝手できていただけだ。クラウゼン邸では訳が違う。しかも直接指導ができない。そうなると、間違った伝聞になる可能性もある。
私の懸念を見透かすように、セレーネ夫人は目を細める。
「あなたは報告書をまとめるのがお上手なようですしね」
ぴくぴくと頬が引き攣った。
嫌味か、嫌味なんだろうな。
さっきとはうって変わって険悪な空気。息子のあなたが責任取りなさいと私がそっぽを向けば、グレンは捨てられた犬みたいな顔をしていた。
重苦しさを破壊したのは、これまたこの空気を作り出した張本人。
セレーネ夫人は呆れたように口を開く。
「ここまで言ってもわかりませんか。エレオノーラに構ってないで、あなたはあなたのなすべき事をしなさい、と言っているのです」
「……はい?」
「あなたの本来の目的は、医療院の改革でしょう。ここでエレオノーラやグレン相手にいつまでも油を売っている場合ではありません」
私はぱちぱちと目を瞬かせた。
予想外の言葉だった。さっきの口ぶりからして、私の改革など相手にされないと思っていた。若い当主であるグレンを無視して、約束を反故にされる最悪のシナリオすら想定していた。
「まさか、私に賛成してくださるんですか?」
「医療院のことは私も気になっていました。ここ三年でずいぶん死者が増えたと聞いています。あなたの行動に価値はあると、今回のエレオノーラの一件でもよくわかりましたし」
「……セレーネ夫人!」
「勘違いしないで、あなたの味方ではありません」
嬉しさのあまり、さっきの怒りを忘れた。なんなら自分の親のように抱きついてキスするところだった。
しかし、現実は触れるどころか、一歩も距離を詰めることもできない。ぴしゃりと跳ね除けられてしまった。
グレンはなぜかちょっと嬉しそうな顔をした。前といい、今回といい、私が困ったり誰かに冷たくされたりするとなんで喜ぶのよ。悪趣味にも程があるでしょう。あとで覚えてなさい。
そんな私の心を見透かすように、セレーネ夫人は盛大に息を吐いた。
「まったく、話に聞いていた通りですわね。そんな態度では人から信頼は得られませんよ、リネット・ミミック」
「信頼はしないけど腕は買うってことでしょう?なら十分、信頼は結果が出れば勝手についてくるわ」
「……ずいぶんと自信家なのね」
「事実だから!」
セレーネ夫人はこれ以上は私の言うことを咎めはしなかった。私はそれ見たことかと鼻を鳴らす。
だって、今回だってそうだった。グレンやセレーネ夫人の態度を見たらわかる。
ううん、今回だけじゃない。前世でも同じ。いつまでも仕事ができない新人看護師のうちは、何を言っても粗探しされる。他の人が目こぼしされるような些細な間違いですら、重箱の隅を突くように指摘された。
でも、仕事を覚え、夜勤に入り、一年二年と積み重ねれば、私の悪口を言っていたお局もすっかり態度も軟化した。私の性格は何一つ変わっていないのに。みんながそうだった。
だから――。
私はわざとらしくドレスの裾を摘むと、恭しく頭を下げる。
「承知しました。今度はヴァルハルト家の正式な依頼として、医療院の改革を進めて参ります」
くるりと振り向くと、嫌そうな顔をしたグレンの机にドンと手を置いた。
「ほら、はやく。条件を詰めるわよ?最初に言った通り、書面でね!」
*
さて、エレオノーラ様とリリアーヌ様は翌日には王都に戻ることが決まった。
早朝、グレンと、私と、リザと、屋敷の使用人でお見送り。
私はおかげさまで慌てて準備をして、すっかり徹夜。つい、大きなあくびが出る。
「リネット様、はしたないですよ」
「だってえ、わかりやすく纏めるのって大変でえ…」
「まあ、頑張った甲斐はありましたね。クラウゼン子爵も必ず守らせると言ってくださいましたし」
「そうね、クラウゼン子爵に渡した方が使用人は守るもの」
クラウゼン子爵は私を敵視していたのが嘘みたいだった。すっかり私を「妻の命の恩人」と扱い、私お手製のパンフレットを家宝のように預かってくれた。
クラウゼン子爵はあったかそうなおくるみに包まれたリリアーヌ様を抱いて、先に馬車に乗り込む。
そのあとに、エレオノーラ様がゆっくり歩いてくる。リリアーヌ様のおくるみと同じ色のふわふわのケープを羽織り、使用人に支えられながら。
二週間では、体力は完全に戻せなかった。
それでも、初めて会った時よりすっかり顔色は良く、こけていた頬もふっくらしていた。
エレオノーラ様は私に駆け寄ると、美しく微笑んだ。
「本当にありがとう。あなたに会えなくなるの、寂しくなるわ」
「いえ、こちらこそ……本当に戻って平気なんですか?」
「……正直言うと、まだちょっとね。もう少しだけ、甘えていたかったかも」
エレオノーラ様の表情が曇る。
でも、それは一瞬。花のように綻ぶと、そっと耳元で囁いた。
「それでも、大丈夫な気がする。あなたを見ていたら、少しだけ頑張ってみようかなって、やっと覚悟が決まったの」
「……エレオノーラ様」
「本当に感謝してる。あなたがいなかったらどうなっていたことか……」
そう言って涙ぐむエレオノーラ様を見て、ふと思いつく。
「どうして、私に世話をすることをお許しになったんですか?グレンにいくら頼まれたとはいえ、藁にもすがる思いだったとはいえ、なんで私のような悪評高い令嬢の世話なんか……」
そう、いくら弟であるグレンの紹介とはいえ、私の評判に変わりはない。初めて会ったクラウゼン子爵の反応の方がよっぽど普通だ。
ただし、その場合は私の人生が終了していたので、エレオノーラ様の懐の広さに感謝しかないのだけれど。
私の疑問に、エレオノーラ様は私にそっと耳打ちする。内緒話のトーンで。
「私ね、歳の近い女の子とお話ししたかったの」
「……へ?」
私はポカンと口を開ける。一つも予想してなかったから。
そんな私を見て、エレオノーラ様は首を横に振る。
「そんな理由。そんな理由しかなかった」
「……私が歳の近い女の子だから?」
「ええ、それが私には救いだったのよ」
……私にエレオノーラ様の苦しみはわからない。
嫁入りして、あっという間に妊娠して、出産して。リリアーヌ様が女児だからと言われて、その後もずっと具合が悪くて。
私にはそんな経験はない。今世でも、前世でも。
絶対にわからない。わかったなんて口にはしたくない。
けれど、この笑顔を見られたのなら、どんな理屈よりも腑に落ちた。腑に落ちたというか、この理由で納得したかったのだ。
「……じゃあ、今度は普通におしゃべりしましょう。たらふくお茶を飲んで、ケーキ食べながら、飽きるくらい」
約束、と言って手を差し出すと、エレオノーラ様は私の手を取った。
「もちろん!王都に来たら連絡してね、リネット」
「戻れるかなあ、エレオノーラの家の前で追い払われないかしら」
「なら、私が迎えに行くわ」
そんな軽口を最後に交わしてから、エレオノーラは手を振った。私は馬車が見えなくなるまで見送った。
「……よかったのかしら」
完全に馬車が見えなくなった後に、そっと呟いた。
そんな私の独り言に反応したのは、グレンだった。
「何がだ?」
「夫人よ、最後まで見送りに来なかったじゃない」
「ああ、それか」
そう、セレーネ夫人は来なかった。グレン曰く「あの子が家に戻ることに私は賛成していませんので」とのことだった。
私は腕を組むと、口を尖らせる。
「嫁入りした娘なんて、王都に行く用事でもなきゃなかなか会えないのに。心配してるくるせに、そうじゃなきゃ私に感謝なんかしないでしょうに、素直じゃないわ」
「態度はともかく、母さんは母さんで姉さんの心配をしてる」
「ほんとぉ?」
「リリィのおくるみと、姉さんのケープ。あれは母さんのお手製だ。昨日、帰る前に俺から渡すように言われたんだ」
「……ツンデレ?もう流行らないわよ、今時」
「なんだ、その言葉は」
この世界では流石に通用しなかったらしい。グレンだけではなくリザも首を傾げている。
おっと、やってしまった。
私は口を押さえると、うーんと考え込む。そして、こう言った。
「そうね――あなたみたいな人のことよ」
グレンはますます混乱したように顎に手を置く。リザは眉間に皺を寄せた。
少なくとも良い意味じゃないとは、察したのかもしれない。
私はそんな二人を見て、それこそ「はしたない」と怒られるまで、げらげらと腹を抱えて笑った。




