二五 縫いこみ①
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夏も盛りを過ぎた。塀越しにとどく陽射しも、わずかながら角がとれたとみえる。
人ならざる者の住まいするために、もとは土豪一家の持ち物であった屋敷のなかはつねにひんやりとして、独特の、一枚薄布でもかけたような静寂で満ちていた。
窓からまばゆい光が差しこむ一室で、亜鋼と鍼欄はむき合って座していた。その佇まいは、すっかりこの屋敷の主といった風だ。
「布帛は手酷くやられたな······いかに半不死身といえども、あれではしばらく使い物にならぬ。碧陽由来の影鬼も徒に浪費するわけにもいかんしな。──で、次はいかようにするつもりだ?」
「······仕込んでおいたあれを使おうと思うよ」
鍼欄はチラと、窓から射し込む日の眩しさに目を眇めながらいった。
忌々しいほどにしろく眩い光。
瞼を伏せてしまいたい筈なのに。それでも目を逸らせないのは、太古に憧れたままの温かみを感ずるがゆえか。それとも、省みたおのが成れ果ての醜悪ゆえか。
「以前に捕らまえたアレ、か」
亜鋼が厳しい面を微動だにさせずにいう。鍼欄は視線を合わさぬままうなずいた。
「悪くないな······任せよう。これ以上関西軍が居座ったでは都合も悪い。潼関はかならずや曹操軍に穫らせねば」
□
盈秋のもとへ留まることを許された影鬼は、じつによく働いた。生き生きと──というのも語弊があるが、まこと水を得た魚のようであった。
むろん盈秋に任される用事のうちで、人目につかずやれる事は限られてはいたが。
『あ、勝手に片しておきましたが、よろしかったでしょうか』
「え、そんなこと······いいんですよ。いざという時に力を貸してもらえればそれで」
『いえ、私も何かしていないと身の置所がなくて。
それに貴女にしろ峨居殿にしろ、いわば李鷹様の巫子ですから。元神官の私としては尽くすのは当然です。なんでも仰って下さい。掃除だろうが運搬だろうが、配膳だろうが』
「······配膳はちょっと。遠慮するかな」
こんな調子だ。
とにかく男にしては細い身体で、連夜番をしようがどれだけ重いものを持とうが疲れることを知らず、また飢えや渇きを覚えることもなかった。すべては時が止まっているから、というのが原因らしい。
もはや仙人に等しいといってもいい。
彼を傍に置くにあたって、誰かに見られれば騒ぎになるのでは、と怖れた盈秋に、彼はいったものだ。
『私、お邪魔にはならないと思います』
事も無げにいうと、天幕の隅のほう、荷が積んであるひと際影の濃いほうへいく。そのままズブズブッと、影に潜るようにして地面へと沈み込んでみせたではないか。
『こうして影のなかへ潜むことが出来ますから。もっとも生命あるものの影には無理ですが』
盈秋は目前でみせられた妖術に、ポカンと口を開けて見入った。
消えるのか。影に同化できる? 道理で李鷹が血眼になって捜しても見つからなかった訳だ。
「······そう。まだ名前をきいてなかったね。貴方のことを何と呼べばいい?」
『······我々、すでに名を憶えていない者がほとんどです。それで勝手に名付けあっているのでして。私は仲間内で泯と呼ばれています』
「そうなの······では泯さん、これからよろしく」
とにかく影鬼・泯は、ほとんど生前と変わらないようにみえた。
彼だけが特別なのか。それとも、いまも知らせを待っているという仲間の影鬼たちも、皆こんななのだろうか。
だが意思の疎通がかなうのなら、きっとわかり合える。この件ではずいぶん李鷹を怒らせてしまったようだが、そうして良かったと盈秋は信じていた。
それにしても。
あらためて思う。
なぜ李鷹はあそこまで影鬼や鍼欄──もっといえば碧陽を嫌悪するのだろう。
あの城郭は彼にとっても故郷のはずで、だからここまで反発を見せるというのは、すこし異常ではなかろうか。
げんに私だって、そろそろ頴川を離れて半年がたつ。
さらにいえば、匈奴の地からも離れて数年。懐かしくないかと問われれば、懐かしく思うことはある。
おもえばこんな風に家を空けることになるなんて、ちょっと想像していなかった。
母への最後の文······そう、桃霞姐様がまだ一緒にいて泣きつかれた時だから、さらにすこし前になる。さぞや怒ったり、気を揉んだりしていることだろう。
ただ······自分がそう思うのは、そこに思い出なり、いまも帰りを待ってくれる人がいるからかも知れない。
はるか数千年の時を眠り過ごして、いまはそこにいない人を懐かしく思ったとて、それが何になろう······。
李鷹はそんな風に考えているのかも知れない。
まして、そこに眠らせてある記憶が苦いものであったなら······その蓋は二度と開けてみようとも思わないのだろうか。
もしかすると、碧陽が滅びゆく様を、李鷹はいまも抱えているのかな······
ならば、やはり自分ごときが立ち入れる領分ではない。そっとしておくしかないのだろう。
◇
潼関内、馬超の室。
いまだ去りゆかぬ夏は、外と内との明度の差で、室内の所々を、よりはっきりとした光と影の線引きによって区切っていた。開放された柱の間を風が抜け、心ばかりにも暑気を払ってくれる。
先刻よりむかいあった馬超と馬岱は、今後の展開についてあれこれと談義していた。なにしろ相手はあの曹操。事前にどれほど考えておいても足りるということはない。
周瑜を喪って静まりかえる呉や、これと結んで曹軍をしりぞけ、勢いの強まった感のある劉備など、天下南方の動勢もふくめて、考慮には熱がはいった。
それでも、ただずっとあれやこれやと考えているのは疲れるものだ。また馬超にしても馬岱にしても、本来は行動の人であり、身体を動かしている方がずっと性にはあっている。
休息がてら、話はいつしか西涼での思い出話へと流れていき、そのなかで馬超はふと、常々気にかけていたことを口にした。
「ところで岱よ······峻はまだ帰ってはおらぬのか」
その名がでた途端、馬岱は表情を暗くした。
「······いえ」
「そうか······やはり帰陣してはいないか」
馬超の声にも憂いが滲んだ。
任務をいい渡してからしばし経つ。なにか不慮の事態があったにせよ、配下の一卒なりと戻ってきて、必ずなにか報せをもたらすものだと信じていた。が、これ程に音沙汰がない所をみるとやはり──最悪な流れを考えるしかないのか。
馬岱は心痛に顔をゆがめる。特別に想うところがあった。
あふれた悔しさに、掌を拳でうった。
「私が迂闊でした。そろそろ経験を積ませておかねば、と······」
馬峻、とは、彼らとおなじく馬一族の者だ。
まだ歳若く、身分としても馬岱とおなじ、馬超の武曲の一衆にすぎない。だが、両者にとってはのこされた数少ない弟分ともいえる存在であり、これからの一族をささえる者のひとりとして、なにかと目をかけてきた。
それを今回やっと将として認め、本人の志願に応えて任務を与えることにした。
あたえた任務とは、黄河北岸に出没するという謎の軍勢の偵察──
そう。布帛が影鬼をもちいて秘密裏に潼関の北岸を脅かし、これを阻止せんとした桃霞の奮戦によって討たれ、さらに李鷹によって事実をだいぶ歪曲されて伝えられたあの一件である。
馬超は目を瞑ってじっと想いをこらえていたが、己を責める従兄弟を、つとめて労うように語りかける。
「──そう己を責めるな、岱よ。まだ死んだと決まったものでもない」
これを落ち度として悔いて欲しくはない。もしみずから将を選抜していたとしても、同じように計らっただろう。
そもそも、この戦は一族の存亡を賭けたものであるのだから、たとえ誰が欠けようとも覚悟の上でなければならぬ。それでなくては始めてはならぬ戦なのだ。
「ただ······願わくば。もう一族を失いたくはないものだな」
「······はい」
だが、そうして語りあった、この日の午後のこと。
ふたりの案じる想いが天に届いたか。
事態が急に動きをみせた。
潼関の門前に、一騎の騎馬が現れたのだ。
これを御するのは、具足すら失い、あちこち汚れたみすぼらしい恰好をしたひとり若将で、ボサボサと乱れた髪を温風に翻して、いかにも敗残の将といった風であった。
「何者だ! 帰れ帰れ! 寄らば射る!!」
壁上にたった兵が叫ぶが、その若い将はまったく臆さず大音声に返した。
「ご開門願う! 馬峻、ただいま帰陣いたした!」
「なに?」
名乗りを受けて、番兵が額に手をかざして若将の顔をようく見る。たしかに似てはいるようだが······そもそも遠目からわかる程に見知った仲でもない。
だが、たまたま番をした兵のなかに見知りの者がいたことが幸いした。この兵が賢明なる同輩の肩をつよく掴んで制した。
「いや待て、間違いない! おい、あれは馬策戒(峻)様だよ!」
この報はただちに馬岱へと届けられた。
報せをきいて彼も驚いた。ちょうど彼の身を孟起兄貴と案じたばかりだ。こんな事もあるものなのか。
降って湧いた好運を怪しみながらも、一縷の望みをもって東門へと駆けつけた。
門壁にのってみやると、たしかに馬峻のようである。
「おお、策戒······っ!」
馬岱は一瞬喜びで大声をあげそうになったが、ハッと我が身を制しておし留まる。
「いやまて! まだ入れてはならぬ」
これを聴いた馬峻は、憤慨した。
「何故でござる! まさか······私が裏切ったとでもお思いですか、将軍ッ!」
「待て。まずはいちど主将にお伺いをたててからだ!」
「なに峻が?」
馬岱よりの報せに、馬超もおなじく喜びを声に滲ませた。
「はい。しかし······少々日が経ち過ぎているように思いまして。如何いたしましょう」
「······ふむ」
馬岱の慎重さはもっともだと、馬超もしばらく考えてからいった。
「だがよもや、我らの一族が曹操に通じるはずもあるまい。よい、入れてやれ。そしてひとつ、俺とお前で問い質してみようではないか」
馬岱もどこか安堵したようにうなずいた。
潼関の分厚い門扉が、遅れもどった味方を容れるために、ゆっくりと開く。
敗残の者ながら、それでも卑屈になることなくその陰をくぐる馬峻の姿は、将として一応の態度を備えていた。
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この様子を上空から見つめる者があった。
李鷹だ。
(見慣れぬ者がきたと見に来てみたが──どうやら杞憂だったようだ。寝起きで少々惚けたか)
やれやれ、と首を掻く。
僅かの間、微睡んでいた。
器物の化身とて時には眠りもする。おかげであんな厄介なものを思い出してしまうこともある。
まったく。ずいぶん昔の夢をみてしまった。それもこれも、すべてはあの意図せぬ闖入者のせいだ。
「護り神は地に堕ち、人の偽形となりて仮初めの夢をみる、か······」
李鷹は自嘲に口許を歪めて宙を蹴った。
本当に。ありがたいことだ。
馬峻は、字の策戒もふくめてもちろん書き手の妄想キャラであります。
名前の由来は、ちょうどCMで捜査線が躍っているのをみたから···
自分の名付けなんてそんなもんだ。
視点変更の印を追加しました。




