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婚約破棄から始まるオムニバス  作者: m


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33/33

㉜ルーファスの場合

動向の気になっていたお兄様、ご登場です。


「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」



 眩い光に満ちた大広間の中、ざわめく観衆をものともせず、自身の求婚者へ微笑むエレオノーラは艶やかだった。

 翻るドレスの裾が、まるでほころび始めた薔薇のように美しい。


 皮肉にも、他の男を袖にするその姿に。

 自分が欲しかったのは彼女なのだと、改めて、思い知ったのだった。




 幼子の泣き声が、秋晴れの陽で明るい、暖かな居間に響いている。

 髪に白い物が混じり始めた母が、その手に幼い子を抱いているのは、不思議な光景だった。 

 ずっと昔、この屋敷に来たばかりの頃、同じように抱かれていたのは、その頃生まれたばかりの妹だった。


 その妹は今、老いた母の横で楽しそうに笑っている。

 赤子のしわくちゃな顔で泣いていた妹も、今はもう婚姻して他家に嫁ぎ、つい先日、一児の母となったばかりだった。

 けれどその相貌は、社交界で名を知られた、美しい令嬢の頃のままだった。

 

「お兄様、お帰りなさいませ。お邪魔していますわ」


 ルーファスに気付いたミュリエルが、こちらを振り返って笑んで見せる。

 まだまだ幼いと思っていた妹の顔が、知らぬ間に、どこか落ち着いた母親の顔になっていた。

 

「お帰りなさい、ルーファス。ほぉらルーファス叔父様ですよ。ねぇルーファス、見て頂戴この子の顔、どこか旦那様に似ていると思わなくて?」


 あの仏頂面の父に似ている……と言うのは褒め言葉なのだろうかと、内心苦笑しながら、抱えられている子の顔を覗き込む。

 まだ柔らかく、薄い頭髪は、確かに父の栗色の髪によく似ているようだった。

 泣き声が止んでもなお、ぐずるようにしかめられた眉間の皺は……確かに父に似ていなくもないような気がする。

 

 どちらかと言えば、いつも真面目な顔をしている、妹の婿である青年の顔立ちに、よく似ているような気がするのだが。

 この華やかな妹が、並いる求婚者の中から、どこか父に似た彼を選んだ時には、家族もルーファスも驚いたものだった。


「ふふ、お父様、まもなくお帰りになるんですって。今日は久方ぶりの出仕だったそうなのに。私が生まれた時にだって、そんなこと無かったのでしょう?お母様」


「ええ、出産の日も洗礼式の日も、いつも通りに変わらず、出仕されていらっしゃったわ。懐かしいわね」


 そう答える母の顔には、それを嘆いている様子はない。

 以前には無かったはずの目尻の皺に、今更ながら母にも、自分と同じだけの時間が流れているのだと思い至る。


 子爵家当主としてだけでなく、官吏としての職務もあった父に、心細くなったことも、恨みに思ったこともあっただろう。

 それでもこうして今、その手に孫を抱く母の姿は、満ち足りた貴族夫人の姿そのものだった。


「王子殿下に……今は王太子殿下ね、ご挨拶をされてから帰宅されるそうよ。先日のこの子の洗礼式に薔薇を頂戴したお礼をと」


 先頃宮廷で顔を合わせたばかりの次代の王と、最近彼の名で呼ばれることも多い白薔薇を思い出し、ルーファスはなんとも言えない心地になった。

 それが顔に出ていたのだろう、ミュリエルが可笑しそうに吹き出した。


「まぁお兄様、素直だこと。そんなことで子爵家の御当主が務まっていらっしゃるの?」


 今や若き子爵家当主として名の知れた自分を、こんなふうに笑えるのは家族だけだろう。

 つられたように微笑んでから、確かに最近……以前よりもずっと、家族の前では取り繕わずに笑っている自分を、ルーファスも感じている。


 それもこれもきっと。

 家族と、彼女のおかげだろうと思う。


 ガチャ。


 開いた扉から現れた姿に、振り返ったミュリエルが微笑んだ。


「お姉様、お元気そうだわ。どうぞこちらにお座りになって」


「ミュリエルも元気そうで嬉しいわ」


 豊かな黒髪を片側に流して、暗い紅色の柔らかなドレスを纏ったエレオノーラが、妹の言葉に笑んで答える。

 最近好んで着ている、落ち着いた色のドレスは、その黒髪と肌の色に馴染み、かえってエレオノーラの美貌を際立たせている。


 付き従う侍女からその手を取って、柔らかな体に腕を回すと、ミュリエルの、可笑しそうな声がした。


「まぁ、過保護だことお兄様。これではお姉様も息が詰まるのではなくて?」


 その言葉に、思わずエレオノーラの顔を覗き見ると、そんな自分が可笑しかったのだろう、


「ええ、心配性のお義兄様のままなのよ。ミュリエルからも言って差し上げて、妊婦にも多少の自由が必要だって」  


 柔らかな紅色のスカートに包まれた、膨らんだ腹に手を添えながら、エレオノーラが笑っている。

 その言葉に、なんとも言えず、気恥ずかしい思いが口をつく。


「ノーラ」


「ええルーファス、分かっているわ。……心配性なお父様で、この子も、きっと幸せね」


 そう言って柔らかく腹を撫でるエレオノーラは、すでに母の顔だった。

 どこかずっと、家族の前で張り詰めていた少女の面差しが……こうして目の前で柔らかくほころんでいることに、胸の奥がぎゅっとする。


(ずっと……こんな風景を夢見ていた気がする)

 

 エレオノーラの肩をそっと抱くと、可笑しそうに笑いながら、それでも腕の中に収まってくれる。

 そんな自分達を見つめる母とミュリエルの顔も、明るい陽の中で、どこまでも幸福な一場面のようだった。

 

 エレオノーラの腹から生まれてくる子は、自分と、そして間違いなくこのガドリエの血を継いでいる。

 ようやくこれで自分も、引き取られた義理の息子としての責任を果たすことが出来るだろう。


 けれど、それとは関係なく、目の前のノーラと子を守る幸福をこそ。

 自分はきっと、ずっと望んでいたのだ。


 遠くでドアベルの音がする。


「まぁ、きっと旦那様ね。お祖父様がもうすぐ帰ってきますよー」


 母の、幼子をあやす声が、なんとも懐かしい。

 それを見守る、色の違う姉妹が、顔を見合わせて嬉しげに微笑み合っている。

 ノーラとミュリエル、髪色も雰囲気もまるで違っていても、仲睦まじい幸福な姉妹の姿だった。

 それを見ているルーファスも、きっと自分は今、優しい笑みを浮かべているだろうと思う。

 

 廊下の絨毯に吸い込まれて靴音は聞こえないが、屋敷中が前子爵の帰宅に、騒めいている気配がする。

 父が執事と、何事かを囁き合う低い声が、だんだんと近づいてくる。

 

(この子が生まれたら)


 こちらを見上げたノーラが、ルーファスの視線に気付いて、柔らかく微笑んだ。

 そのしなやかな黒髪に、そっと頬を擦り付けて肩を寄せると、暖かな温もりが腕に溶けていく。 


 あの義父を心から、父と呼べる日もきっと……




 ガチャ。


 硬質な音の振動が、頬から直に伝わってきたのを感じて、ルーファスは目を瞬いた。

 

 目の前に広がる灰色の壁は、あの暖かな日差しが溢れる居間とは似ても似つかない。

 

(……どこだ……此処は)


 身を起こすと、寝ていたのは硬い寝台だった。

 ざらりとした敷布と、今まで味わったことのない硬いマットレスからは、わずかに黴臭い匂いがする。


 ふと、先ほどの音の方に目をやると、殺風景な狭い部屋の入り口に人影があった。

 その入り口と、ルーファスのいるベッドの間には、無骨な太い格子が空間を割っている。


 その格子の向こうに佇んでいる人影は、ミュリエルだった。


 嗚呼……とそこで、若き子爵家の嫡男ルーファスは。

 全てを理解した。



 ルーファスの変化に、ミュリエルも気づいたのだろう、似つかわぬ格子の前で、静かに口を開いた。


「少しは、頭が冷えまして?お兄様」


 部屋には窓があるが、こちらにも太い木製の格子が打ち付けてあった。

 その向こうには、何か、張り巡らされてでもいるのだろうか、黒い何かが窓を覆っていて、わずかな隙間から、外の光が漏れ落ちてきているだけだった。


 薄暗い室内に溶けるように、灰色のドレスを纏ったミュリエルの瞳は、その声音と同じように凪いでいる。


「……珍しい色だな、そのような色のドレスは、見たことがなかった」


「お兄様のせいですわね」


 肩をすくめて見せることもなく、淡々と答えるミュリエルに、その灰色は、思いの外似合っていた。


「ドレスが汚れでもしたら、お母様や侍女達がうるさいでしょうから」


 母の趣味もあり、いつもは明るく可愛らしい色ばかり着ている妹にも、こんな一面があったのかと、今更のようにルーファスは思い至る。

 無邪気さを引っ込めて、凪いだ冬の湖面のように佇むミュリエルは、知らない少女のようだった。

 灰色の少女は、「それに」と続ける。

 

「ガドリエを継ぐのですもの。あのような可愛らしい色ばかり、これからはきっと着ていられないわ、お兄様」


 その表情には……声にも、ルーファスを責める響きも、詰るような響きもなかった。


「……そうか」


 自分の声音にも、なんの感慨も落胆もないことが、我ながら可笑しくもある。

 

 自分がいたはずの、王都の外れの廃屋から、どうして今ここに自分がいるのかも。

 その時共にいたはずの、雇った者達の行く末も。

 どうやら……国の騎士団の牢などではないらしいこの場所も。


 全てもう、済んだことなのだと解るくらいには、ルーファスは己が馬鹿ではないのだと知っている。

 子爵家にも認められたその賢しさが……自分を幸福にはしなかったのだということも。


「お父様は爵位をお譲りになって領地に戻られますわ。今更ですわね……けれどね、お兄様。そんなどうしようもないお父様でも、私にとっては大切な家族ですのよ。ねぇ情けないお兄様」


 妹を妖精のようだと称した貴族の者達全員を嘲笑うように、ミュリエルは静かに笑んでいる。

 

(俺は……何を見ていたのだろう)


「だからねお兄様。あの傲慢なお姉様にだって、私は幸福でいて欲しいのですわ」


 だからこうして、ルーファスは此処にいるのだと、ミュリエルが言外に告げている。

 自分が見誤っていたのは、あの義妹のことだけではなかったのだと。



 もう手に入らない彼女のことを思うと、こんな時でもまだ、胸の奥に掻き毟られるような焦燥が渦巻いている。

 赤い唇が、ドレスが、黒髪の美しさが、まるで楔のように、胸の奥に刺さったまま。


「ねぇお兄様、馬鹿なことをする前で、良かったとはお思いにならない?あのような者達の手を借りて、本当にお姉様を、その身になんの瑕疵もなく取り返せたと、今でもお思いかしら?」


 そんな兄を見つめるミュリエルの表情に、わずかに、いつもの彼女らしさが滲んだ。


「お姉様は生きているわ。どこかで、幸福にね。……それでは駄目かしら?自分のものにならなければ、意味がないと思われる?」


 焦がれた花が他者の手に落ちるのを、喜ぶ男はいないだろう。

 だから計画を練ったのだ。

 どこかで幸福に生きる彼女の隣に、別の男がいることが耐えられなかった。


「……母上はどうされている?」


「悲しんでいてよ。遠くない将来、お父様が共に領地に連れていかれるでしょうね」


 初めてエレオノーラに出会ったのは、ミュリエルが生まれた頃だった。


 義父が母と再婚し、そして妹が生まれる頃まで、エレオノーラは一人、先妻が亡くなったという別邸で育てられていた。

 おそらくガドリエに戻しても、再婚や爵位継承で、どのみち放っておくことになるという判断もあったのだろう。

 もしかしたらそれは、あの義父なりの配慮だったのかも知れない。


 けれど、幼いエレオノーラにとって、ようやく呼び寄せられ、初めて足を踏み入れる本邸には、もうすでに新しい夫人と、自分と、そして幼い妹までがいたのである。

 それが幼い少女にとって、どんな衝撃だったのか……一度も聞く機会はないままだった。

 その頃にはすでに、後継として目されていたルーファスは、家庭教師との勉強や、貴族子息達との交流で、忙しくなっていた頃だったからだ。

 

 けれどあの日、エレオノーラと初めて会った日は、ルーファスが生まれたばかりのもう一人の妹に、初めて対面を許された日でもあった。

 だからいつもは忙しないスケジュールにも空きがあって、ルーファスは出会ったばかりの義妹と一緒に、普段は立ち入ることが禁止されている、妹の部屋を訪れたのだった。

 

 出会ったばかりの、まだ硬く強張ったままの、言葉少なな義妹の手を引いて、ルーファスは幼子の泣き声が響く廊下を歩いた。

 その時の、汗が滲んだ、子供らしい手の熱さを覚えている。

 

(あの温もりが…… この世界のどこかにある)


 この世界の、どこか知らない場所で。

 もう二度と自分には掴むことのできない、あの手のひらの熱が。



「……父上は、……いや、いい。愚問だな」


「失望なさっていてよ。当然ですわね」


 整理し切れない胸の裡から、取り繕うように口をついただけで、さして聞きたいと思っていたわけではなかった。

 あのどこまでも貴族らしい父にとっては、自分のことも、この妹達のことも、さして変わりないことはよくわかっている。


「けれどねお兄様、この別邸にお兄様をと、そう決めたお父様の気持ちを……無碍になさらないで」


 今……、ミュリエルはなんと言っただろう。

 その言葉で思い当たる場所は一つだけだった。


「ここの管理は私が任されましたわ。お兄様が無駄に優秀なせいで、主寝室の改修が間に合っていませんの。もう暫くこちらの使用人部屋で我慢なさってね」


「……此処は」


「ええそうよ、お兄様」


 領地の外れにある別邸は、父の前妻であったエレオノーラの母が儚くなった屋敷だった。

 それまでは狩猟小屋として時折誰かが借り受けることもあったこの屋敷を、当主となってからの父は、誰にも立ち入らせようとはしなかった。

 親族達も、前子爵夫妻も、母も、そしてかつてここで暮らしていたエレオノーラまでも。


 何を守っているのだろうかと、思ったこともあった。

 まるでこの世界から覆い隠すように、誰にも立ち入らせることの無い、義父だけの、何かがここにあるのだと。


 何か……言い知れぬ感情が、唇の端を震わせているのを感じる。

 音にならない言葉が、口の中で、渦巻いていて、ともすれば、別のものになってしまいそうだった。


 ルーファスは妹の前でも家族の前でも、泣いたことはない。

 あの義父だって、恐らくそうだったのだろう。


 血の繋がらない自分たちは、それでも、立場も生き方も、誰よりもきっと似てしまっているのだ。

 


 ……ミュリエルの婿には、穏やかな気質の、子爵家あたりの嫡男がいいだろうと思っていた。

 貴族らしさや爵位よりも、誰よりもミュリエルを慈しんでくれる、そんな青年がいいだろうと。

 領地もできれば近いほうが良いだろう。

 ミュリエルが子を連れて帰ってきやすいくらいに。


 それを出迎える父はようやく、貴族としての重責を下ろしていることだろう。 

 改めて、気が合わないわけではない母と二人、共に新しい人生を歩んでいくのかもしれない。

 仕事ばかりの父に、終ぞ文句を言わなかった母だってきっと、そういう未来を楽しみにしていただろうから。


 エレオノーラはきっと、以前よりも落ち着いた色の、けれどずっと彼女自身に似合う色を纏って、笑っているだろう。

 華やかで自信に満ちた、美しい淑女として、社交界でもきっと話題を攫っているに違いない。


 その手をとる自分は、父を安心させられるように、きっと子爵家のために研鑽を積んでいるだろう。

 聡明なエレオノーラと共に、若き当主夫妻として、このガドリエを盛り立てていくために。


 あの夢のような未来が。


 あったかもしれなかったのに。



「あの日……」


 一人ごちる自分の声に、ミュリエルが訝しげな顔をする。


「お前に初めて会った日……、お前は周囲がうるさくて煩わしいのか、ずっと泣いていた」


 明るい秋の日差しが差し込む、暖かな部屋だった。

 初めて聞く幼子の鳴き声は、耳に痛いほどで。

 繋いだエレオノーラの手も、緊張で固くなっていた。

 そうして二人、恐る恐る、覗き込んだ藤編みの小さな揺籠の中に、その小さな生き物はいた。


「二人で覗き込んだら、お前が……急に泣き止んだんだ。……それで隣のノーラがな」


 小さな妹を見たエレオノーラの黒い瞳が、ふわりとほころんだのを、ルーファスは見たのだ。

 嬉しそうに。

 それは幼いエレオノーラが初めて見せた、年相応の、可愛らしい笑顔だった。

 

 その時確かに、自分は思ったのだ。


 この、まだ言葉も知らぬ小さな命を見守っていこうと。

 隣で笑う、色の違う少女を、きっと大事にしようと。


 この妹達を守るのは、自分の役目なのだと。



 格子の向こうに立つミュリエルの立ち姿は、もう庇護を待つだけの、無邪気な貴族令嬢などではない。

 自分達兄姉よりも場を読み、人を使うのが上手く、優秀であることを、ずっと知っていたはずの可愛い妹。

 

 きっと彼女が選ぶ伴侶は、彼女が継ぐものに見合った、相応の者になるのだろう。

 ガドリエの親族達が色めき立つ様子が、すでに見えるようだった。 

 男であるルーファスと違い、きっと悠長に待ってはもらえないだろうことも。


 謝罪の言葉が口を突きかけて……すんでのところでそれを噛み砕く。

 これから彼女が背負っていくものの中に、不甲斐ない兄への罪悪感まで背負わせるわけにはいかなかった。


「あの蔓薔薇を……少し、部屋に持ってきてくれないか」


 視線をめぐらした先の、窓の外の覆いは、よく見れば、赤い花のついた蔓薔薇のようだった。

 あまりにも密集して茂っているものだから、それが花だとも気づいていなかった。


「ええ、用意させますわ。では、……ごきげんよう、お兄様」




 そうして差し入れられた花が、申し訳程度の花瓶に挿さっている。 

 やることもないので、その赤い小さな花弁を見るともなしに見つめてしまう。


(いつまで……もってくれるだろうか)


 ふと、花は、誰かのために咲くのではないということが、今唐突に、ルーファスの胸に落ちた。


 この蔓薔薇だって、ただ、思うがままに咲いていただけの、自由な花だったはずだ。 

 こうして摘まれてしまったら……この赤い花弁はきっと、あと僅かな間で、萎んでしまうことだろう。 


 自分がしようとしたことはきっと、そういうことだったのだ。

 あの美しく花開いたエレオノーラを。

 燻っていた身勝手な想いを、諦められずにいた。


 今はまだ、この身の裡に……暴れ回るような感情が渦巻いているのが分かる。


 でも、それでも。

 あの日、あの幼い自分が、妹達に感じた想いだって、確かに己の内にあったのだ。


 この小さな赤い花のように。

 ぱっと咲いた、ルーファスだけの花のような想いが。

 


 硬い寝台に寝転がって、目を瞑る。

 背中と首の痛みも、早晩、身体が順応してくれるのを待つしかないだろう。


 今は、ただ。

 あの手の温かさが、この世から永遠に失われなかったことを。


(妹たちに……感謝しなければな) 

 

 自分があの花を、摘み取ってしまわなかったこの幸運を。

 一人、噛み締めていようと思う。



 赤い蔓薔薇に囲まれたこの屋敷に抱かれて。


 花の美しさも、自らの幸福も忘れて。



 ただ、眠りに落ちるのだ。



またの名を、お疲れ様ミュリエル編、でした。

お兄様を、どれくらい気持ち悪く書くかが裏テーマ。

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