㉛リーリアの場合
長らくお待たせしました。婚約破棄からの復縁編、壊れてしまったもの。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
あの日、自分はきっと死んだのだ。
あの瞬間、なんてことはない一つの、幼い恋が終わり、子供時代が終わりを告げた。
そうして残ったのは。
貴族らしい笑みを貼り付けた、どこにでもいる貴族令嬢だった。
結局あの婚約破棄は、国から待ったがかかり、破談になることは叶わなかった。
国と両家を繋ぐ、利権まみれの政略だったからだ。
その時すでにリーリアの耳には、自分に婚約破棄を告げたディクトルに、他に好いた女性がいる事が聞こえてきていた。
けれど、両家の必至の取りなしによって、婚約者は心を入れ替え、リーリアの前に膝を折り、全てを詳らかにした上で、真摯に謝罪したのだった。
「リーリア嬢、本当に済まなかった。彼女とのことは事実だが、すでに別れを告げている。これからは二度と、君を裏切るようなことはしない。その誓約を、婚姻契約書にも新たに追加しよう。だからどうか、私を許して欲しい」
それは確かに、心からの謝罪の言葉だった。
鳶色の髪が美しい婚約者は、その長身を折るようにして、リーリアに真摯に、悔い改めることを誓ってくれたのだった。
「ディクトル様、どなたにでも間違いはございますわ」
だからリーリアはそう言って微笑んだ。
以前は、触れるだけで舞い上がっていた婚約者の手が、自分の手に触れている感触が、どこか遠くに感じられるのは不思議だったけれど。
国が絡んだ婚約なのだ。
両家が必死に取りなしたのは、ディクトル側だけではないのだった。
……婚約破棄を告げた相手と、婚姻なさるなんて……
……別のお相手がいたこと、お聞きになっていて?……
……まぁお可哀想なリーリア様。私、きっと耐えられませんわ……
……流石は、“理想の淑女”と呼ばれるリーリア様ですわね……
自分達の婚姻の、その披露目を兼ねた夜会とはいえ、噂好きの雀達はどこにでもいるものだ。
「なぜ私達の祝いの場に、ああいった者が混ざっているのだ。失礼ではないか」
傍で、共に挨拶回りをしているディクトルが、苦々しさを隠しもせずに言う。
彼の鳶色の髪は、今日は美しく撫で付けられていて、白い額があらわになっている。
リーリアの瞳の色の宝石を胸元に飾ったディクトルは、いつにも増して華やかだった。
そんな彼の腕にそっと手を添えながら、リーリアは柔らかく微笑んだ。
あの程度、そよ風にもならない噂話だった。
婚約を一度破棄された令嬢、というのは紛うことなき事実であるし、その元凶が憤っているのは……何故なのだろう。
(ディクトル様が始めた物語でしょうに)
自分達はそろそろ、招待客に暇を告げ、一足先に新居へと下がる予定だった。
この日のために誂えた、贅を尽くしたドレスは、豪奢で美しく、限りなく肩が凝る。
同じく新調した銀糸で飾られた靴も、華奢で窮屈なものだった。
リーリアは近寄ってきた招待客へ微笑みかけながら、数刻後、温かな湯の中で、ゆったりと手足を伸ばす時間を、密やかに夢想していた。
馬車留めでディクトルに、この後の為の準備があると告げ、別の馬車に乗り込んだ。
「美しい花嫁と離れがたいが……すぐの再会だな。では、新居で」
頬が赤いのは、酒が入っているからだけではないだろう。
ディクトルの白い頬に登った血の色が、ランプの日に照らされていて艶かしい。
もう夜も遅く、あちらの馬車には厚い緞帳を降ろさせていたので、後列の馬車が、途中で道を分かれたのには、気付かれることもないだろう。
商店の多い中心部を過ぎて、屋敷が集まる区画に差し掛かると、街灯もまばらになる。
薄暗い闇に目を凝らしても、分厚いガラスに、自分の顔が映り込むだけだった。
些か疲れた顔の、金色の淡い巻き毛の令嬢に、リーリアはそっと微笑みかける。
閨は共にしないし、住まいも分ける。
それが、婚約を継続するにあたり、リーリア側が出した条件だった。
そう、この結婚は、あの婚約を遵守するために過ぎないのだ。
あくまで紙の上での婚姻が成立していればいいのである。
住む場所が違おうと、夫婦生活が無かろうと、全く問題にはならない。
我が国では一夫多妻は許されていないので、他に伴侶は持てないが、愛人を囲うなら好きすればいい。
子供だって自由に作ってくれて構わない。
その子供は正妻であるリーリアの子ではないので、相続権を持つこともない。
子ができない以上、後継は、あちらの親族のいずれかから選ぶことになるだろう。
先日、あちらの義母が懐妊したらしいので、その弟であれば、文句も出ないのではないかと思う。
リーリアは、あの時から今日まで、「許す」とは、一言も言っていない。
ただ、許す許さないなど、もはや瑣末なことだった。
あの婚約破棄について、恨んでいるわけでも傷ついているわけでもない。
ただもう、あの時に全てが、粉々に砕け散ってしまったのだった。
割れた鏡は二度と元には戻らない。
似たような意匠の鏡に挿げ替えたところで、それはもう別のものなのだ。
(たった一度のことで、と言う人もいるでしょうね)
リーリア自身、そう思うこともある。
けれど自分の中の、優しさや慈悲の心は、あの時、共に砕け散ってしまったのだと思う。
そんな自分を、家族は心配してくれてはいるが、そこは貴族である。
リーリアまでが、「この婚約が嫌だ」等と言い出すようなことは、誰も望んでいないのだ。
(多分私は……幼な過ぎたのだわ)
婚約者であった美しい彼のことを、憧れ、信頼し、心を預けて、夢を見ていた。
だから砕け散った破片の前で、リーリアは成す術なく、どうしたらいいのか分からなくなってしまったのだ。
そして残ったのは、歪になった義務だけだった。
幸いリーリアにとって、心の内を隠して微笑む術は、生まれながらに身に付いている。
人前で感情を制御する術も、手の内を見せない社交も、あちらの家からの賠償代わりの便宜も、生家からの援助も、全て自分の手の中にある。
いずれ遠い将来、事業上の利権が失われたら、離縁することになるだろう。
その際の賠償や、身の振り方についても、すでに両家で同意済みだった。
その日まで、あくまでも貴族夫人らしく、生きていくことにしよう。
(とりあえず、温かい湯に浸かりましょう)
今頃彼は、あちらの家が用意した屋敷で、花嫁を待ち侘びているだろう。
向こうの使用人達には、こちらの住所は伝えていないから、問い詰めても無駄なだけである。
虚しいとは思わない。
だってこれも一つの、立派な貴族の務めなのだから。
復縁マター、バッドエンド編でした。
一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らない、そんな話が続く……かもしれません。




