㉖アーシェの場合
婚約破棄された令嬢は、変な壺を手に入れた!
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
人生には思いもかけないことが起こる。
子爵令嬢アーシェは、そのことを、目の前の婚約者の言葉で痛感していた。
十八年間ずっと平凡な自分の人生にも、こんな風にさざ波が立つこともあるのだと。
そう、人生には何だって起こり得る。
だから、婚約破棄された帰り道、見知らぬ商人から、得体の知れない壺を買ってしまうことだって、十分に有り得ることなのだ。
どっしりとしたマホガニーのティーテーブルの上に鎮座する、ぼんやりとした薄い緑青色の壺の来歴について、アーシェがようやく説明し終えた所だった。
部屋には、何とも言えない生温い空気が漂っていた。
「……っぶはっ」
その沈黙を破ったのは、扉の横に控えている痩身の青年の、堪えきれないといった笑いだった。
(……この人笑ってるわ……!分かってる、分かってるけど……!)
アーシェにも、彼の気持ちはよく分かる。
自分だって他人事だったら、笑うしかないところだったろう。
それ以上は声を出すこともなく堪えている黒髪の青年の、その肩がぷるぷると震えているのを、居た堪れない気持ちで見つめる。
アーシェの目の前に座る彼の主人だって、客前だから笑いこそはしていないものの、何とも形容し難い表情をしていた。
「……従業員が失礼致しました。それでこちらが、その購入契約を結んでしまったという“壺”と、契約書でございますね、アーシェ様」
「はい、そうです……」
自分の消え入りそうな声音に、いっそ消えてしまいたいと切に願う。
ことの起こりは、数日前のことだった。
アーシェ・リルハイン子爵令嬢は、どこにでもいる平凡な令嬢である。
アーシェという名前だって、学院の中に何人いるか分からない。
同学年だけでも三人はいることを知っている。
それというのも、この国では有名な、花の女神アーシェリエにちなんで名付けられた名だからだ。
(まんま“アーシェリエ”ではなくて、よかったわ)
鏡に映る自分の容姿を見ながら、アーシェは常々そう思っている。
同級生達は皆、アルシェリエ、アーシェリア、アーシェリーナ……エトセトラエトセトラ。
“アーシェ”はどちらかといえば平民に好まれる名で、そんなところも、平凡な自分らしい気がしている。
勉強は特に好きと言うわけではないし、本は話題作を友人と貸し合って読むくらい。
成績は決して悪くはないが、特段何かに秀でているというわけではない。
髪色も目も、貴族にも平民にも多い焦げ茶色で、せめて母の青い目を受け継げたら良かったのに、とは、時折思ってしまう。
王宮の下級官吏として勤める父と、そこそこの大きさの派閥で穏やかに社交をこなす母の仲もいたって普通である。
二人は政略結婚ではあったが、特に金持ちではないものの、使用人の給金に困るというわけでもない子爵家を、いたって穏やかに切り回している。
そんな自分の婚約が、特別なものであるはずもなく。
十五の時に決まった婚約は、この国の貴族としてはやや遅いものではあったが、十分に許容範囲であった。
相手は父の上司から紹介された、同じ子爵位の嫡男だった。
兄のいるアーシェの嫁ぎ先として、これ以上望むべくもない、平凡だが、ぴったりの婚約相手である。
婚約者である彼とは、初めての顔合わせの場では、互いに緊張し合って、ほとんど言葉を交わすことは出来なかった。
それだって貴族の婚約ではよくある話で。
ただ、自分の向かいに座る、彼の少し色素の薄い茶色の髪は、日に透けると金にも見えて、自分の濃い焦茶の髪よりも羨ましいと、そんな風に感じたことをアーシェは覚えている。
彼も特に、成績も才覚も、何に優れているというわけではなかったが、そんなところも、平凡な自分には、似合いであると勝手に思っていた。
そんな婚約者が、初めて見るような思い詰めた真剣な表情で、あの日自分に婚約の破棄を告げた時、アーシェは、まさか自分にこんなことが起こるとは夢にも思っていなかった。
あと数ヶ月もすれば二人で学院を卒業し、父や義父と同じ下級官吏になる彼と、リルハイン家のように、穏やかな家庭を築いていくのだと思っていたのだ。
それは人生で初めてこの身に起きた、この間友人に借りたばかりの小説の一場面のようだった。
けれど決定的に小説と違うのは、ヒロイン役のアーシェが、どこまでも“平凡”だということだった。
アーシェには、こんな時、「親戚の令息が婚約者を探しているの」と、さらりと縁を繋いでくれるような、顔の広い高位貴族の友人はいない。
振られた自分を慰めて、「実は前から……」と切り出してくれるような、長年の幼馴染の令息だっていない。
同時期に学院に在籍している我が国の王子殿下は、ちゃんとご自身の婚約者と仲睦まじい。
先日も、学院の一角にある高位貴族専用のテラスで、婚約者である令嬢と二人、にこやかに笑い合っていた。
兄の友人達は皆結婚していて、隣国に留学している優秀な友人などいないことも知っている。
庭師は長年勤めてくれている気の良い老爺で、彼の孫は容姿は美しいが、可愛らしい少女である。
家と学院を馬車で往復する学生生活に、出会いの影などないのは普通であるし、何よりアーシェ自身、見知らぬ誰かに見初めてもらうほどの成績も容姿も、自分が持ち合わせてはいないことを知っているのだった。
(お父様の伝手で、どこかしらの家と、また婚約するのかしらね)
アーシェは、“元”婚約者と別れた帰り道、ぼんやりと馬車に揺られながら、そんな風に思っていた。
涙は出なかった。
この三年の月日は決して短くはなかったが、当たり障りのない季節の手紙や茶会でのやり取りは、ただただ平凡な、いたって穏やかなもので、自分たちの関係は、多分まだ、ほとんど始まっていないようなものだったのだろう。
それよりもただ、これからしばらく落ち着かなくなるだろう自分の行く末に、思いを巡らすのに忙しかった。
けれど、平凡な人生に起こった突然の出来事は、確かにアーシェを動揺させていたらしい。
道端に寄せた馬車の横で困っているようだった身なりのいい老人に目を留めて、言葉をかけたら。
気付けば手元には、謎の壺と契約書が収まっていたのだった。
「……お困りの、ようだったんです。遠方の街から商売に来たけれど、道中で荷が駄目になったと嘆いてらして」
「ほう」
「それで、まだ無事な商品があると言うので、せめて帰りの路銀になればと、手持ちの銀貨を手付けとして渡して」
「なるほど」
「残りは後日支払うという証に、契約書にサインを」
「なるほど、なるほど」
けれどそうして家に帰って書面をよくよく読んでみれば、実に法外な値段が記されていたのだった。
「両親にも話せず、相談できる伝手もなくて。それで、失礼とは思ったのですが……こちらに参りました」
買った相手がどこの誰かも分からないので届け出ることも出来ず、友人に商売に詳しいものはいないしで、一人青くなって頭を抱えていたアーシェを叱咤してくれたのは、側付きの侍女であるモリーだった。
リルハイン家に出入りしている父の馴染みの商人に面談を申し入れることを進言し、今日もこっそりと、ここまでの辻馬車を手配してくれたのだった。
「こちらの壺は、ざっと見た限りでは来歴も分かりませんし……釉薬の色からは、どうやら南の方の出物のようですが。底面に記された工房の名も聞いたことがない。額面の価値があるかは不明といったところですな」
アーシェの二の腕から先くらいの背がある壺を手に取って、慣れた手つきでぐるりと回しながら、壮年の店主が首を傾げている。
リルハイン家でも何度か見かけたことのあるその店主は、父よりも少し年齢は上だろうか。
蓄えた髭が立派で、そのせいか、つるりとした顔のアーシェの父よりも、随分と貫禄のある面構えをしている。
いち令嬢でしかないアーシェに、おそらく店でもそこそこの部屋に通し、店主自ら現れて対応してくれるのは、ひとえに、アーシェが貴族家の娘であるからだろう。
どこまでも平凡な自分が、それでも曲がりなりにも貴族であるということを、こんな時、ふと思い出すのだった。
(私は、恵まれているわ)
「けれどもアーシェ様、こちらの契約書にサインをされたのは悪手でしたな」
ゴトリと、それなりに重量のある壺をテーブルの上に置き、店主は掛けていた眼鏡を外した。
その声音には、壺と同じように重い響きがあった。
「それは、あの」
あの時、手持ちがないと言って詫びるアーシェに、預かり証替わりだと言って、羽ペンを握らせた老爺の柔和な顔を思い出し、口の中に苦い味が広がっていく。
「こちらの契約書は正当な書式で書かれていますから、契約は有効ですな」
「そんな……」
そこに記された金額は、決して払えない額ではない。
けれどその金を、ただの子爵令嬢でしかないアーシェが工面するのは至難の業だった。
手持ちのドレスや、デビュタントの時に贈られた宝石、そして今度の卒業式典で着る予定のドレスを売っても、ギリギリ足りるかどうか、というところだろう。
店主が、可哀想に、という顔でこちらを見つめて言う。
「何よりも、流しの商人というのが困りものですな。実のところ、ギルド外でのトラブルには、我々が出来ることはあまりないのですよ」
「……そんな……」
膝の上に重ねていた両手が微かに震え始めるのを、思わずドレスごと、ぎゅっと握りしめる。
貧乏ではないが、過分に裕福とは言えない子爵家で、それでもアーシェのためにドレスを誂えてくれた両親を思うと、胸が潰れそうだった。
(お父様、お母様、ごめんなさい……)
自分は平凡なのではない、ただ、愚かなのだと。
それが喉元に、鋭く突きつけられたようだった。
「アンタ!いい加減にしな!」
黒髪の青年が控えている壁の扉が、突然左右に大きく開かれて、威勢のいい声が部屋に響き渡った。
その言葉の勢いのまま、ツカツカと部屋に入って来たのは、品のいいドレスを纏った、大柄な女性だった。
鮮やかな紫色の髪は染めているのだろうか、豊かな髪が頭上で美しく結い上げられている。
「茶の交換に来てみれば、こんな若いお嬢さんを捕まえて……何様のつもりだい!外道もいいところだよ!」
ソファーセットに座る店主のそばまで歩み寄ると、そのまま頭上から、言葉を浴びせかける。
「いや、お前、これはだな、私はただ、お嬢様の人生勉強のためにだな」
先ほどまでとは別人のように、しどろもどろに弁解する店主に、
「黙んな!そんなのただの老人の説教だよ、悪趣味ったらありゃしない!」
どうやら店主の夫人であるらしいが、容赦なく大の男をぶった斬る迫力は、なかなかのものであった。
思わず、ポカンと成り行きを見つめていたアーシェと、振り返った女性の目が合う。
その意思の強い瞳に見つめられた瞬間、何故か、何か言わなければ、という衝動が生まれた。
「あの、あの、私が悪いんです」
思わず口を突いて出たのは、そんな一言だった。
何となく、幼少の頃の、マナー講師の夫人を前にした時を思い出していた。
「うちのが大変失礼いたしました、リルハインのお嬢様。失礼ですが、ご婚約が駄目になられたのでしょう?」
店主に対するのとは打って変わって、落ち着いた声で夫人にそう問いかけられる。
眉を僅かに寄せて、こちらに問う声は、温かないたわりに満ちていた。
「はい、そうなんです」
もうこうして、街にも話が伝わっているのだなとぼんやりと思った。
商人たちは情報に強いから、特別、速いのかもしれないが。
「アーシェ様、貴女は悪くなんてありませんよ。それだけ、ご婚約の解消に、傷付いておられたのではありませんか?自分を否定されるっていうのは、何も想っていない相手からだって辛いもんですよ。そうじゃありませんか?」
あの日、告げられた婚約破棄の理由は、別の令嬢と婚約を結び直したいということだった。
だから、アーシェのことが嫌になったということではないのだと、最後に彼は、申し訳のように言い添えてくれていた。
でも、そうか、
(私……、傷付いていたのね)
目の前の夫人の横の店主と、離れた場所で、僅かに息を呑む気配がした。
熱い雫が、静かに、頬を伝わり落ちていく。
自分は、あの婚約破棄に、傷付いていたのかと。
夫人に言われて、初めてそのことがすとんと腹に落ちた。
(嫌になったわけじゃない、なんて)
例えアーシェに瑕疵は無かったとしても、それでも、自分が選ばれなかったことに変わりはないではないか。
彼の人生から、不要だと弾かれたことが。
それはやっぱり、悲しいことだった。
決して恋ではなかったけれど。
アーシェなりに、大事に思っていたのだ。
(動揺して、変な壺を買ってしまうくらい、なんて)
そう自覚したら、なんだかどうしようもなく、涙が止まらなくなってしまった。
「大変、失礼いたしました」
初めて訪れた商会の応接間で泣き顔を晒すという大醜態を演じて、今すぐにでも消え去りたいが、ひとまずは、涙はおさまったようだった。
「とんでもございませんわ!こちらの不徳の致すところですわ」
夫人の配慮で簡単に化粧直しを済ませ、ソファに掛け直したところだった。
淹れ直してくれたのだろう、良い芳香に誘われて、アーシェは湯気の立つ白いカップを手に取った。
にこやかに応じる夫人の隣に座る店主は、先ほどよりも一回りほど小さくなったような気がする。
「少しばかりアドバイスをいたすつもりが、大変申し訳なく……、ええとですな、辻売りのような商売は御法度ですので、すぐにこちらから各所へ通報しておきます。この契約書も当然無効です。逆にこれが、悪事の動かぬ証拠となるでしょう」
後日聞いた話だが、アーシェの使いだと言って宿を訪ね、出てきたところを無事に捕えることが出来たらしい。
その時以外は極力、アーシェの関与を伏せてもらったこともあって、お陰で両親には要らぬ心配をかけずに済んだのだった。
ほっとした気分で口にした茶は、爽やかな芳香が、様々なモヤモヤを洗い流してくれるような、とても美味しいお茶だった。
(美味しい……どこの茶葉かしら)
アーシェがしみじみと茶を味わっていると、目の前の夫人が何だか楽しそうに、
「お気に召したようで何よりですわ。先ほどのレン……黒髪の青年ですが、あの者がお嬢様へのお詫びにと、選んでお淹れいたしましたの」
「お詫び、ですか?」
「ええ、大変失礼な態度をとってしまったと、反省しております。お気に入られたのでしたら、是非お持ちくださいませ。男達の非礼のお詫びですわ」
隣で髭の先から白く、灰になってしまいそうな店主とは対称的に、そう言って夫人は、何ともにこやかに微笑んだのだった。
商会の馬車で送るという申し出を断って、代わりに辻馬車を呼んでもらうことになった。
茶葉を用意してくると言って夫妻が退出した応接間で、アーシェは一人、馬車の到着を待っている。
「失礼いたします、馬車が到着いたしました」
ノックの音の後、そう言って扉を開けたのは、黒髪の青年だった。
「あの、お茶とても美味しかったです。どうもありがとう」
そう言って声をかけたアーシェに、青年は、何とも罰の悪そうな顔をした。
「お気に召していただき幸いです。……笑ったりして、申し訳ありませんでした」
アーシェの泣いている姿が、余程堪えたのだろうか。
思いの外神妙な彼の様子に、何だか、おかしさが込み上げてくる。
「いいえ、私だって他人事なら、きっと笑っていたと思います」
婚約破棄されたショックで壺を掴まされる令嬢など、国中を探したって、きっと自分だけだろう。
「私の人生は、ずっと平凡だと思っていたんです。平凡な私には、きっと小説みたいなことは起こらないんだって。だから自分が、婚約破棄されるだなんて思ってもみなかった……言い訳にもなりませんが」
こうして一人で商会に駆け込んだことですら、今となっては何だかおかしい。
けれど、自分の動揺を、こうしてようやく受け止められたのかもしれない。
今はただ、馬鹿なことをしたと反省している。
アーシェの言葉に、目の前の青年の眉が僅かにしかめられる。
間近で見る彼の瞳は、平民には珍しい、晴れた日の空のような青色だった。
「動揺して当然ですよ」
「え?」
「女将さんの言う通り、例え恋じゃなくたって、一つの関係が断ち切られたんだ。大きなことでしょう?」
「……はい」
彼は、笑ってしまった自分が言えることではないがと、若干苦く笑って、
「さっき、自分の人生は平凡だって言ってましたけど、そんなの誰にも分からないでしょう」
人生には誰にだって、思いもかけないことが起きるものですよ。
そう言って青年は、不敵に笑ったのだった。
そうしてしばらくして、アーシェの元に一件の縁談が舞い込んだ。
何の縁故もない、ある男爵家からの打診に、両親もアーシェも、皆で首を傾げたものだった。
そうして顔合わせの日、アーシェの目の前に現れたのは、あの日の黒髪の青年だった。
男爵家の末息子だという彼は、名をレイノルド・ノートンと名乗った。
「な?何が起こるかなんて、分からないだろう?」
貴族よりも平民に近い語調は、商会で働いている内に馴染んでしまったものらしかった。
そうしてレイノルドは、かつて自分も婚約を失い、あの商会で働くことになったのだと語ってくれたのだ。
自分と結婚したら、平民になるけどいいか?と、そんなことを今更のように確認してくれる。
「でも多分、平凡な人生になんて、ならないと思うぞ?」
そう言って笑うレイノルドの笑顔は、あの日と同じ、不敵なそれだった。
平凡なアーシェの人生は。
確かに、思いもよらぬものになっていくのかもしれない。
色んなご都合主義を取っ払った先にある、ハッピーエンドを目指してみました。




