㉕ニーナの場合
舞台は再び近世へ。
「貴女との婚約は無かったことにしていただけるかしら」
そう、冷たく告げるサウザー子爵夫人の言葉を、ニーナは、氷の刃を飲むような気持ちで聞いた。
「……そんな、あの、考え直してください……!お願いいたします!」
それでもなお、その痛みに血を流す身体から咄嗟に出たのは、縋るような言葉だった。
だってこのままだと、
「主人も息子も承知済みのことです。ブルック家に正式に通達する前に、こうして貴女にお知らせしたのは、せめてもの温情だと心得て頂戴」
そう続ける夫人の目には、もうニーナは映っていない。
いつも通りの優雅な所作で、我が家よりも質の良いソファから立ち上がり、応接間を出て行こうとする。
「どうか、どうか、至らない点は直します!気に入っていただけるよう精進いたします、だから……!」
(このままだと、アダムに会えなくなってしまう……!)
言い縋るニーナを見る夫人の眼差しは、この三年で何ら変わることはなかった。
未来の義娘に向けるには、冷たく、なんの興味も感じていないような視線。
(それでも、でも……!ようやく私の声に、アダムが応えてくれるようになったのに……!)
ニーナを一瞥しただけで、無情にも、夫人の姿は扉の向こうに消えていく。
サウザー子爵家の中でもおそらく、一番格式の低い応接間に、息子の“元”婚約者を一人残して。
(二度と、二度とアダムに会えないなんて……そんな、そんなのって……)
ニーナは途方にくれて、頬を伝う涙にも気付かないでいた。
「うっ、ひっく、ううう……」
ブルック子爵家の庭の隅に誂えられたいつもの席で、ニーナは帰ってから泣き通しだった。
同じ子爵家とはいえサウザー家の庭に比べれば、庭と呼ぶのも憚られるようなこぢんまりとしたブルック家の庭は、それでもニーナの気に入りの場所だった。
今は特に、クチナシの花が満開で、その甘い香りが自室に流れ込んでくるほどだった。
「……ゔう……ひっく」
涙が、後から後から溢れ出て止まらない。
帰りの馬車の中ではかろうじて必死に耐えていたのだが、家の門を潜ったらもう駄目だった。
「ニナ、あんまり泣くと、明日後悔するんじゃない?」
そう言って目の前に座る幼馴染が、呆れたような顔をしているが、正直それどころではなかった。
「ゔるさい、っく……ぼうって、おいてっ」
あの後、二度と敷居を跨ぐことのないだろうサウザー家で、けれど最後に、アダムに一目会うことも叶わなかったのだ。
(こんなのって、こんなのってないわ……)
最近ようやく、仲良くなれたと思っていたのだ。
それなのに、これでもう、永遠のお別れだなんて。
(アダム)
三年前、事業上の政略で結ばれた婚約は、初めからサウザー家側に、ニーナを歓迎しないムードが漂っていた。
聞けば、幼馴染であった近隣の男爵家の令嬢と、家族ぐるみの付き合いだったらしい。
特に義母となる子爵夫人は、その令嬢のことを殊更、娘のように可愛がっていたのだという。
だから突然湧いて出た、ニーナが気に入られないのは当然のことだった。
最初の顔合わせの席で、緊張し、慣れない淑女の笑みを浮かべるニーナに、婚約者である彼も、夫人も、一瞬だって温かな視線を向けてくれることはなかった。
そんな冷めた空気は、自然とサウザー家全体にも広がっていて。
だから月に一度の義務であった婚家での茶会も、使用人達にすら、どこか冷えた視線で迎えられ、ニーナにとってはただひたすらに苦行の刻だった。
(……それでも、アダムがいたから、頑張れたのだわ)
そんなサウザー家で、ニーナは決して一人ではなかった。
少ないながらも、そんなニーナを気遣ってくれる下級の使用人や、そして何よりアダムがいてくれたのだ。
そのことに、美しく雄壮な、けれどニーナ一人が凍えるあの屋敷の中で、どんなにか慰められたことだろう。
(なのにもう二度と、その名を呼べないだなんて……!)
「……アダム……」
人前で名を呼び、淑女らしからぬ様相で泣き続けるニーナに、目の前の青年、アッシュはこれ見よがしな溜息を一つ吐いて、
「そんなにその“アダム”との別れが悲しいなら、貰ってくれば良かったのに。“猫”一匹くらい、譲ってくれたんじゃないの」
「ぞんなこと、っく、できるわけ、ないじゃない……!」
ニーナと、サウザー家で飼われている“猫”のアダムを引き合わせてくれたのは、一人の下級メイドの少女だった。
いつも応接間で一人、時間を潰して帰るだけのニーナを、不憫に思ってくれていたようだった。
婚約者であるサウザー家の嫡男は、余程この婚約に不服だったのだろう、顔合わせの日以降、ニーナの前に姿を現すことはなかった。
それでも一応の体裁として、サウザー子爵夫人が出迎えてくれるのだが、それも最初の出迎えだけで、後はただ、冷めたお茶を飲みながら、一人で時間を潰すのが常態となっていた。
初めは、手を触れることすら叶わなかったのだ。
一人で窓から見える庭を、ぼんやりと眺めていたニーナの元に、こっそりと庭の影から少女がアダムを抱いて現れて、床に下ろした瞬間、脱兎のごとく部屋の隅に逃げていってしまったのが出会いだった。
食料品の卸事業を担っているサウザー子爵家で、蔵にある見本用の商品を守るため、鼠取り用の猫を飼育しているのだと少女は教えてくれた。
自分は今、新入りの仔猫であるアダムの世話を任されているのだと。
そうして訪ねるごとに、こっそりと、その灰色の仔猫の成長を見守るのが、いつしかニーナの楽しみになっていた。
(初めはずっと、アダムにも……無視されていたのよね)
こちらが名前を呼んでも知らんぷりで、撫でることなんて夢のまた夢だった。
それが少しずつ、ニーナを見て逃げようとすることがなくなって……目の前で毛繕いをしてくれるようになって、尻尾で返事をしてくれるようになって。
ある日初めて、ソファの隣に乗ってきてくれた時の、あの瞬間の、心が震えるような感動を、ニーナは昨日のことのように思い出せる。
「……夫人や、誰にも知られずに、ひっく、こっそり、連れてきてくれてたんだもの……あのメイドが、罰せられてしまうわ」
最近になってようやく、アダムはお腹を向けて、ニーナの隣で寝てくれるようになっていた。
そんな時はさりげなく、その柔らかい灰色の毛並みを、撫でることだって許してくれていたのだ。
(アダムだけはずっと、ずっと暖かかった)
あの屋敷で、アダムだけがニーナの目を見て、その身体を寄せて、名を呼ぶ声に応えてくれていた。
例えそれが、ニーナがこっそり持参していたおやつ目当てでも構わなかった。
「でもニナ、あんな奴らの中で、結婚しても上手くやれたと思ってる?親父さん達だって、今度の件はニナにすまなかったって詫びてただろうに」
サウザー家からの婚約破棄の正式な知らせは、ニーナの外出中にすでに届いていたようだった。
出迎えてくれた両親は、赤い目をして帰ってきたニーナに、ただ一言、「すまなかった」と、詫びてくれたのだった。
今日までのサウザー家での仕打ちを、ニーナが両親に直接告げたことはなかったが、供をしてくれている侍女のリタや、護衛のヨニアスらから、その都度報告は上がっていたのだろう。
そして何故か、目の前のこの幼馴染にも、その辺りは筒抜けなのだった。
親同士が学院で同窓だったこともあって、小さい頃からブルック家に出入りしているアッシュは、ニーナの両親とも、使用人とも仲が良い。
今日も案内もつけずに勝手にこの中庭まで上がり込んで、ニーナの目の前で当たり前のように茶を啜っている。
アッシュの言うことは最もだった。
多分、婚姻したところで、この状況が好転することはなかっただろう。
初めはニーナも、ある程度時間が経てば上手くいくのではないかと思っていた。
あの義母にしても、婚約者にしても、毎月少しずつ言葉を交わせば、少しは心を通わせることができるのではないかと。
けれどそのために顔を合わす機会すら、ニーナは得ることができなかったのだ。
(でも、アダムがいてくれた)
政略の為に嫁ぐ貴族令嬢は少なくない。
だからきっと、優しいブルックの両親と使用人達のために、飲み込んでみせるつもりだった。
一年後に嫁入りした時、このまま、あの屋敷の冷たさが変わらなくても。
夫となる彼とも、義母とも、心を通わせることができないままでも。
せめて子が出来るまでの間、ニーナの声に、応えてくれる存在が一つでもあれば。
「……きっと、頑張れるだろうって、思っでたの……」
収まった嗚咽の代わりに、ハラハラと、涙だけが溢れ落ちていく。
今までと違い、静かに泣き出したニーナの様子に悟ってくれたのか、何かを言いかけたアッシュが黙った。
両親宛の正式な文書には、事業上の契約はこのまま変わりないこと、違約金は支払われること、そして別の婚約を結ぶことが書かれてあった。
だからこうして、泣いているのはきっとニーナだけなのだ。
理由はどうあれ、この婚約破棄に傷付いているのは、ただ一人自分だけなのだ。
そうして、アッシュが茶を飲む音と、ニーナが鼻を啜る音だけが、クチナシの甘い香りが漂う庭に、しばらく響いていたのだった。
「ねぇニナ、自分の猫を飼いなよ。決して離れ離れにならない、今度はちゃんと最初から、ニナだけの猫をさ」
夕方の爽やかな風がそよいで、一際甘い香りが漂って来る。
帰ってきた頃にはまだ曇っていた空は、今は雲が薄く残っているだけで、端から淡く桃色に色づき始めた青空が広がっている。
「……ぐすっ、うちが動物厳禁なの、アッシュだって知ってるじゃない」
食品の加工事業を持つブルック家では、父が加工場に顔を出すことも多く、動物の飼育など厳禁だった。
人口の多い王都での鼠対策は、勿論どこの業者でも頭の痛い問題だが、それと同じくらい、毛や異物の混入も避けなければならないのだ。
ニーナは今でも覚えている。
幼い頃、まだクチナシの木がもっと低かったころ、その下に迷い込んでいた猫の親子を、泣く泣くアッシュの友人に引き渡したことがあった。
ニーナは勿論ずっと泣いていたし、元々可愛いものが好きな母も、まだ幼かった兄も、普段は厳格なあの父だって、ひどく残念がっていたものだった。
そういえばアダムは、あの時の黒斑の母猫が連れていた仔猫の一匹に、よく似ていた気がする。
「だからこの家を出て、結婚してから飼えばいい。君がいるなら、猫がいるのも悪く無いよ。多分ね」
さらりとそう告げたアッシュに、ニーナは、一瞬何を言われたのか分からなかった。
(……何て?)
泣き疲れてぼんやりとする頭に、急に水をかけられたようだった。
目の前の青年は確か……然程、猫が好きという訳ではなかったはずだ。
(と言うかむしろ、苦手だったでしょうが)
あの猫の親子にも、最後まで指一本だって触れていなかった記憶がある。
いや、そんなことよりも。
よく見れば、目の前の幼馴染は、いつになく緊張しているような気がする。
さっきまでこちらを見ていたはずの、オレンジがかった茶色の瞳が、今は庭の向こうをどこをともなく見つめている。
ニーナは、もう十何年見慣れたはずの、栗色の髪をした青年の姿を、ふとまじまじと見た。
その髪の毛が、昔は仔猫の毛のように柔らかな手触りだったことも知っている、彼を。
「……官吏用の家族寮って、ペット、駄目でしょ」
目の前の幼馴染は、昔から思いの外優秀で、継ぐ家を持たない次男でもある彼は、夏が終わったら、王宮の下級官吏になることが決まっている。
だから家を出て、城の外門の内側にある寮で暮らすことになるのだと聞いていた。
その中には単身者用ではない、妻帯者用の寮も勿論あるが、基本的には、子供が出来たら外に家を借りる者が多いようだった。
子供でさえそうなのだから、動物の飼育などはもってのほかだろう。
けれどその為には当然、先立つものだって必要になってくる。
「……頑張って出世する。でも多分……ニナがいてくれる方が、早く出世できると思うよ」
そう言いながら、赤く染まっていく幼馴染の顔、なんていう珍しいものを見て。
ニーナは、さっきまでの引き攣れたような悲しさが、どこか柔らかく霧散していくのを感じていた。
昔から何だかんだ、ニーナよりも要領のいいアッシュにも、こんな一面があったのかと。
「……アダムに会えなくて寂しいから、なるべく早くね」
「頑張るよ」
そう言って笑うアッシュの顔は、多分、初めて見るような嬉しげな顔をしていた。
そうして暮らし始めた寮の中庭に。
ある日、迷い込んだ一匹の野良猫がいて。
その猫を引き取って、二人、庭にクチナシの花が咲く小さな家で暮らし始めるのは。
まだ、少し先のお話。
アッシュと猫の張り合う日々の幕開け。
アッシュとアダム、似た名前なのは趣味ですが、他の候補がどれもしっくり来ず。
もっとしっくりくる名前が思いついたら、ある日そっと変わっているかもしれません。




