◆6 集会所の窓
琴は真っ暗な田舎道を先導し、藪沢と美作を下田の集会所まで送り届けた。
「本当はうぢで泊めでもえがったのだけれど…」
外にあるブレーカーのスイッチを入れながら、琴は呟いた。
「流石にそれは申し訳なく思い、お断りしました。
私は野宿で良かったのですが…」
「息子の先生にそったなこどさせられねぁー」
琴は慌てて首を振った。
「…集会所だがらな、風呂無えのは…申し訳無えが我慢してくなんしぇ。
若え娘には辛えがもしれねぁーけれど…」
「…わたし?大丈夫よ〜。
一週間くらい入らなくても全然平気だから!」
琴が藪沢に目を向けると、藪沢は溜息をつきながら黙って首を振った。
琴は、玄関入ってすぐ横にあるスイッチに手を伸ばす。
天井の蛍光灯が数回点滅した後、建物全体を白く照らした。
同時に、エアコンが静かに動き出す。
「じゃぁまだ、明日。ゆっくり休んでくなんしぇ。
あさまごはん届げるなはん」
琴は懐中電灯を手に取り、建物の外に出た。
「何から何まで…大変申し訳無い」
「琴ちゃん、ありがと〜!」
藪沢が頭を下げる隣で、美作は琴に抱き着いていた。
「いいずーごどだ。
未卯ぢゃんがいっぱい食ってけるの、嬉しいがら」
琴はガハハと豪快に笑いながら敷地を出て行き、夜の闇の中に消えていった。
◆
「琴ちゃん、いい人〜。お腹いっぱい〜」
美作は用意されていた布団に飛び乗り、ゴロゴロと転がりだす。
それを横目に藪沢はパソコンを取り出し、今日の取材内容の編集を始めた。
業務用のエアコンが湿度調整まで管理しているので、寝るには丁度良い環境。
窓は閉め切っているので、外の水音や虫の音は全く聞こえない。
藪沢のキーを叩く音だけが、夜の集会所内に響いていた。
「ねぇ、先生〜…先生ってばー!」
美作の声を無視してキーボードを叩き続ける藪沢。
「お義父様〜質問があるのですけれど〜」
彼女は布団に横たわったまま、ダラダラと手を挙げた。
「…お義父様言うな」
藪沢は、彼女に視線を向けずに応じた。
「河童子は居ると思いますかぁ?」
美作の質問に、藪沢はキーを叩く手を止めた。
彼はしばし考え込んだ後、静かに口を開いた。
「…どうだろうな」
「ん〜…先生は村の人達の話を信じてない?」
「いや…信じている。嘘は言ってないのだろう。
彼等は…正確には年寄り連中だけは、本気で河童子を信じている…それだけの事だ。
ただ…信じているから『居る』事実と言うわけではない。」
それだけ言うと、藪沢は再びキーボードを叩き始めた。
「そっか〜…」
美作未卯はそれだけ呟くと、静かに寝息を立て始めた。
エアコンのファンの音と、キーボードを叩く音だけが室内に残り続けた。
外では、虫の合唱に合わせる間の手の如く、時折跳ねる水音が、山野に小さく響いていた。
◆
パソコンに突っ伏し、座ったまま眠っている藪沢を、美作が慌てて揺り起こした。
「先生…起きて下さい…!」
まだ朝日が山間から顔を出し切っておらず、二人が寝泊まりしている部屋に、ようやく薄い光が差し込み始めた頃合いのことだった。
「む…ああ、いかん寝てしまった。…ん?暗いな?」
半分寝ぼけたまま時計を確認する藪沢。
時計の針は5時を指していた。
「まだ五時じゃないか…。君はやけに早起きだな…」
農村ならば十分に朝ではあるが、此処、鏡谷擂は盆地の真中。
山が太陽を遮るので、朝は遅くて夜は早い。
まだ朝日は地面にまで落ち切らず、山の峰からの反射光で薄く明るい程度。
ここが街ならば、まだ新聞配達人しか動き回っていない位の明るさ。
そんな中、酷い寝癖を直しもせずに藪沢を揺する美作だった。
「それどころじゃありません!先生!
窓、あの窓を見て下さい!」
美作は、必死にある方向の窓を指差した。
丁度そこは、美作が大の字で大イビキをかきながら眠っていた布団の真上辺り。
藪沢が背を向けていた方向だった。
太陽の光が薄く差し込んでいる窓の真ん中辺り。
幾つかの黒い点が、差し込む朝日を遮っていた。
藪沢は眼鏡を手に取り、近づいて観察してみる。
「…これは…?」
紅葉の葉のような小さな跡が六つ。
一見汚れにしか見えない黒い跡。
藪沢は更に窓ガラスに近付き、小さな跡に目を凝らした。
それは小さな子供の手の跡だった。
泥の付いた手を、窓に押し付けて出来た様な跡。
それが低い場所や高い場所に、右手と左手三対ずつ、計六つ。
「ふむ…面白い」
藪沢は頭を掻きながら立ち上がり、腰を抜かしている美作を横目に、集会所の玄関へと向かって歩き出した。
襖を開けて玄関に出、備え付けの突っ掛けに足を通すと、そのまま外に出る。
建物をぐるりと回り込み、龍神川の川縁を背にして集会所の窓を見た。
丁度そこは、手形の付いている窓ガラスの前。
まず藪沢は、建物周囲の地面を確認してみた。
だが窓の下は泥だらけで、ハッキリと足跡と判る様な痕跡は見当たらなかった。
次に藪沢は、窓の手形に目を近づけてじっくりと観察した。
大きさの違う三種類の手形。
小さな手形は窓の下、大きな手形は上の方。
一番高い所でも地面から120センチ位の高さ。
丁度、小学校高学年くらいの子供が、胸の前に手を伸ばすと当たる位置。
掌の大きさは左右とも揃っており、三人の子供が横並びで覗き込んでいた様に見える立ち位置。
手痕は、各人の掌全体を強く押し付けたかの様に、くっきりと残っていた。
その掌痕の下部からは、縦に垂れた幾つもの黒い筋。
黒い筋の所々は、日に当たるとほんのり赤く見える。
藪沢は、指でその筋をなぞってみた。
まだ乾燥しきってない部分が彼の指に付着する。
指を擦り合わせてみると、付着したそれは、彼の指紋の隙間に沿って赤く拡がった。
「ふむ…これは血だな…。まだ、乾燥しきってない」
藪沢がポツリと呟くと、二つ隣の窓から顔を出して様子を伺っていた美作が、顔を青褪めさせた。
「ま…まさか、河童子の手の跡ですか?
人を殺した後に、窓から私を覗いていた!?」
彼女は息を呑んで小さく震えている。
「…イタズラだな」
「…へ?」
藪沢は、窓に付着した血の跡を指でなぞりながら呟いた。
「この手形には掌紋が見当たらない。
シワはあるが手相とは違う。歪み過ぎている」
彼は爪で小さな手の跡を引っ掻いてみる。
黒く固まった血が、ポロポロと剥がれ落ちた。
「…恐らくは粘土で作った子供の手形に、鶏か豚の血をつけて窓ガラスに押しつけたのだろうな」
藪沢は固まった血の匂いを嗅ぎながら解説した。
美作は、息を吐きながらへたり込んだ。
「動物の血で本物っぽさを演出したかったようだが、それが徒となったな。
血液ではなく泥で掌痕を残しておけば、掌紋が無くても不自然ではなかったろうに…」
藪沢は、手形を全てこそぎ落とし綺麗にした。
「しかし、これはこれで中々に面白い…」
藪沢はフフ…と含み笑いをしながら、龍神川の静かなせせらぎを眺めていた。