◆7 下田と上田の境界
「おはよがんす。昨夜はよぐ眠れだが?」
朝7時を過ぎた頃、玄関の外から大きな声が聞こえてきた。
今朝の件でどっと疲れて、半分寝不足気味な目を擦りながら鍵を開ける美作。
外に立っていたのは高下屋敷家の琴だった。
彼女の手には小さな包。
「これ、おらの朝飯のついでに作ったもん。
持ってぎだよ」
藪沢達の朝食として、握り飯を持って来てくれたらしい。
彼女は、朝の農作業を終えてからすぐに来た様で、足首に巻いた脚絆の上で固まった泥を、玄関前で叩き落としていた。
「おはよ~琴ちゃん…」
「未卯ちゃん…なんか疲れだような顔してらげど大丈夫だが?
やっぱし、こったな所だど寝づらがっただが?」
琴は首を傾げ、やはり高下屋敷の家の方に来るか…?と、尋ねた。
「あはは、違うのよ。
…私、枕が変わると寝付きが悪くてね」
美作は手をパタパタさせながら言葉を濁す。
「ん?まさが河童子ら見だか?
…それとも、…上田の連中さ何がされだが?」
琴は、周囲に聴こえない様に声を潜めながら尋ねた。
「おはよう御座います。琴さん。
…昨晩も治郎右衛門さんが仰ってましたが、上田の方々が私達に対して何かなさるのですか?」
琴の声を聞き、奥の間から顔を出した藪沢は、今朝の件は言わずに尋ねる。
「う〜ん…何かする…かもだけんど。可能性が高えど思ってら。
……彼奴等は余所者が嫌いだがらな」
彼女は唸りながら答えた。
「くそっ!上田の連中の仕業か!
よくも私の貴重な睡眠時間を!!」
突然、美作が怒り出す。
「…やっぱし何があったのが?」
彼女の様子を見て目を丸くする琴。
藪沢は溜息をつきながら、今朝あった出来事を彼女に説明した。
◆
藪沢の説明を聴いて、琴は腕組みしたまま俯いた。
「…あさま頃かぁ…
そう言えば、農作業さえぐ前の事だったな…」
琴は少し迷った様だったが、意を決したように口を開いた。
藪沢はボイスレコーダーを起動させる。
「あさまの…たぶん三時頃がな?
おら、薪小屋さ薪取りに行ったの。えの裏の。
畑えぐ前さ、あさまごはん準備しねぁーどいげねぁーがらね。
ほいだら、上田の方がら誰が降りで来るのが見えだん。
そいづが寄り合いの方へ行ぐ道さ歩いでってな…」
「…それは誰でした?」
藪沢は機械を構えて彼女に詰め寄った。
「いくら夜目が利ぐどは言っても、まだ真っ暗だ。
相手は明がりも付げずに歩いでらったがらな。
流石のおらんだども、それが誰がまでは分がらながったよ。」
「残念…琴ちゃんが見てればなぁ…」
美作がポツリと漏らした。
「男か女か、背丈はどの程度かも分かりませんでした?」
藪沢は、顔が見えなくても判ることはあるだろうと、琴に詰め寄った。
「…んだなはん。…背は…低がった様さ見えだね。」
彼女は視線を上げ、昨晩の情景を思い出しながら、ひとつずつ丁寧に答えていった。
「ただ、そいづの腰下が草むらだったがらね。
腰屈めで歩ぐ大人さ見えなぐもながったよ。」
「男か女かは…?」
藪沢は畳み掛ける。
彼の迫力に圧され、琴は一歩下がった。
「先生…結構グイグイぐなはん。
…そうだなぁ。多分、男だど思いますども…」
「その根拠は何ですか?」
琴は、う〜んと唸った。
「…歩ぎ方だがね。女は肩が揺れねぁーのよ。
んだども、昨夜見だ人は肩が揺れでらったがら…」
「男歩きだったと?」
「多分だげどね」
藪沢は自作の地図を彼女に見せながら、どの辺りでそれを見たのか教えてもらった。
そこは上田と下田を隔てる防風林のある丘の上。
両地域の境界なのだそうだ。
◆
琴の持ってきてくれた朝食を片付け、藪沢達は彼女に教えてもらった場所に向けて出発した。
藪沢が防風林の傍に立って道脇を見下ろすと、藪の合間から高下屋敷家の屋根が見えた。
しかし、見えるとは言ってもかなり遠い。
更に、腰下まで茂った草が二人の視界の邪魔をした。
藪沢が道脇の草を掻き分けて藪中に入ると、直ぐそこは崖になっていた。
乗り出して下を覗き見ると、下田の田畑が広がる景色が目に入る。
「ふむ…真っ暗な中この距離で、人の歩き方まで見えたのか…」
田畑を見ながら、彼は独り言を呟いた。
美作も藪沢のすぐ隣に来てしゃがみ込み、崖下を覗き込んだ。
「田舎の人って、やっぱり凄いですねぇ…」
彼女が溜息をつきながら眺めていると、背後に在る道の砂利を蹴る様な音がした。
「何者だが、おめんらは!知んねぁー奴だな。
まさが貴様らが犯人だが!?」
突然大きなダミ声をかけられた。
その声に驚いて振り返ると、子供の様な小さな人影が藪沢達を睨みつけていた。
「ひぃ、出た!河童子!」
美作は思わず立ち上がった。
すぐ隣に居た藪沢にぶつかり、その反動で前のめりになる。
更に、草の間に隠れる様に倒れていた像に躓き、その人物の前に転び出た。
それは河童子でも、子供でもなかった。
背丈の低い、腰の曲がった老人。
その顔に刻まれた彼のシワは、この村で遭った誰よりも深かった。
「誰が河童子様だ!
しがも、道祖神様を蹴飛ばしおって!
こんの罰当だりな女めっ!」
老人は美作を打ち据えようとして、持っていた杖を振りかざした。
動きはゆっくりだが見た目以上に力がありそうで、身体の芯がぶれていない。
硬そうな杖で叩かれたら、軽傷では済まないかもしれない。
「お待ち下さい!」
そこに藪沢が割り込んだ。
老人は杖をピタリと止めたまま、彼の方へ振り返った。
眼光鋭く睨みつける老人。
「貴方の仰る犯人とは、なんの事でしょうか?」
藪沢は落ち着かせる様に、冷静に老人に問い掛けた。
彼は老人の瞳の奥を覗き込む様に、静かに見つめた。
しばし無言で居たせいで老人も落ち着いたのか、振り上げていた杖を静かに下ろした。
「…何者だ。おめ達?」
老人は先程よりも声を落として再び尋ねた。
「私は大学文学部の教授をしている藪沢壬午と申します。
仕事で、各地の歴史伝承を蒐集しております」
「わ…私は、義娘の未卯…」
美作はへたり込んだまま、その老人を見上げた。
「ああ…おめが噂の大学のせんせ…か…」
しばらく二人を睨みつけていた老人は、ひとつ息を吐いた。
「だら、おめは犯人でゃーねぁーのだな…」
老人の、先程までの激しい怒気は既に治まっていた。
だが代わりに、嫌いな虫を見るような侮蔑の視線で二人を見据えている。
老人の態度は、犯罪者に対するモノから余所者に対するモノへと変わっていた。




