一万人への救助
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第2基地が本格的な稼働を開始してから、数日という月日が穏やかに流れていっていた──。
かつては死の静寂と耐えがたい冷気だけに支配されていた薄暗い地下空間は、今やまるで別世界へと生まれ変わったかのような活気に満ちあふれている。
広大な食堂エリアからは、大釜で炊き上げられたばかりのツヤツヤとした白米から立ち上る甘やかな湯気と、強力な魔石コンロの火力で香ばしくジューシーに焼き上げられた肉料理の芳醇な匂いが絶え間なく漂い、人々の賑やかな笑い声がどこまでも続く通路の隅々にまで朗らかに響き渡っていた。
長引く飢餓によって痛々しく頬のこけていた大人たちの顔立ちには生き生きとした血色がしっかりと戻り、かつては怯えることしか知らなかった子供たちは、広い運動スペースを元気いっぱいに駆け回って楽しそうな歓声を上げている。
この場所に集う誰もが、「明日も無事に生きられる」という、かつての崩壊した世界では望むことすら許されなかった当たり前の希望を、胸の奥でしっかりと噛み締め取り戻しつつあった。
そして、絶望の淵から自分たちを引き上げ、この信じられないような奇跡の世界を生み出してくれた存在に対する深甚なる感謝と敬意の念は、静かな波紋のように基地全体へと確実に広がりを見せていたのだった。
◇
第2基地の中枢に位置する中央指令室では、最新式の大型ホログラムモニターが幻想的な青白い光を静かに放つ中、旧日本政府の首脳陣がぴんと背筋を伸ばして整然と席についていた。
最前列で真剣な面持ちを浮かべる神宮寺総理をはじめ、厳しい表情の自衛隊幹部、エリート官僚、そして優秀な科学者や研究者たち──。
そこにいる誰もが、部屋の中央という最も日当たりの良い特等席に誂えられた特注のふかふかとした高級ソファへと、吸い寄せられるように自然と視線を向けている。
そこには、可憐な脚を優雅に組み、磁器のカップに注がれた香り高い紅茶を、うっとりとするような所作でゆっくりと口元へ運ぶ一人の少女の姿があった。
絶対神・月詠霞。
この膨大な規模を誇る地下基地で生きる五千人もの人々にとって、彼女はもはや遠い神話の存在などではなく、自分たちの命を文字通り救い出してくれた、目の前に確固として存在する「現実の救済者」そのものだった。
室内に満ちていた心地よい静寂をそっと破るように、神宮寺が一歩前へ踏み出してきた。
「霞様。地下の通信設備の復旧作業が順調に進みましたことで、日本各地の詳細な状況が徐々にではございますが判明してまいりました」
神宮寺の言葉に呼応するように、巨大なホログラムモニターの上に、立体的な日本列島の全図が色鮮やかに映し出される。
その北から南に至る各地の地図上には、今にも消え入りそうに頼りなく点滅を繰り返す、いくつもの赤い光の粒子線が存在していた。
その光の一つひとつが、過酷な地上や地下の深淵で今なお必死に命を繋ぎ止めている生存者たちの、残された最後の希望の灯火を示していたのである。
「かつての地下シェルター、防衛のための自衛隊基地、あるいは都市部に張り巡らされた大規模地下施設……。日本全国の各所に、救援を待つ生存者拠点が確かに確認されております。しかしながら、そのほぼ全てが深刻な食料不足、燃料の枯渇、そして医薬品の完全な底付きによって、明日をも知れぬ限界寸前の状況に陥っております」
ホログラムの映像が、より鮮明な現場の記録データへと滑らかに切り替わっていく。
骨が浮き出るほどに痩せ細り、ただじっとうずくまる人々。
照明の大半が失われ、冷たく薄暗い闇に沈んだシェルター内部。
お腹を空かせ、泣き疲れたまま冷たい床の上で身を寄せて眠る幼い子供たち。
そして、残りわずかとなった乾パンや非常食の袋を震える手で数え直しながら、重い溜息とともに深く肩を落とす隊員たちの姿。
映し出される悲惨な現実の数々に、指令室全体がまるで息を詰まらせるかのような重苦しい雰囲気に包まれていった。
しかし、そのような張り詰めた空気の中にあって、霞だけは変わることのない優雅で可憐な微笑みをその唇に浮かべたままであった。
「ふぅん……」
手にしていた美しい茶器を静かにソーサーへと戻すと、彼女は細い肩をほんの少しだけ可愛らしくすくめてみせたのだった。
「まあ、当然の結果でしょうね」
「この私の神徳と庇護が行き届いていない場所なんて、最初からその程度の悲惨な状態にしかなりえないもの」
一見すれば余りに傲慢で、他者を突き放すようにも聞こえるその言葉。
しかしながら、この第2基地という限られた空間の中で起こされた数々の圧倒的な奇跡を目の当たりにしてきた者の中に、彼女の言葉を否定し反論できる者などただの一人も存在しなかった。
誰もが解決不可能だと諦めかけていた絶惨な食料不足。
基地全体を脅かしていた深刻極まるエネルギー危機。
そして、多くの傷病者を救えずにおいた医療の崩壊。
その全ての問題を、彼女はわずか数日という短い時間の中で、いとも易々と覆し去ってしまったのだから。
霞は手にした繊細な扇子をパッと優雅に開いて胸元に添えると、深々と頭を下げる神宮寺へとまっすぐな視線を向けた。
「それで?」
「元・内閣総理大臣殿は、この私に対して一体何を望もうというのかしら?」
神宮寺は意を決したように、着慣れたスーツの姿勢を正すと、深々と自らの頭を垂れたのだった。
「恐れながら、心よりお願い申し上げます」
「霞様のあまりに圧倒的なご神力、そしてこの第2基地で完全復活を遂げた巨大な生産能力をもってすれば、衰退の極みにある日本中の生存者たちを確実に救い出すことが可能でございます」
「どうか……日本全国で孤立している各拠点への大々的な救援活動を、正式にご許可いただきたいのです」
神宮寺の切実な訴えに、司令室内を流れる空気がピンと張り詰めていく。
誰もが固唾をのんで絶対神の口から発せられる言葉を待つ中──。
「却下よ」
たったその一言が、静まり返った室内へと冷ややかに響き渡り、その場のすべての時間をピタリと停止させたのだった。
誰一人として一言も発することができず、その場に棒立ちとなる。
頼みの綱であった神宮寺の表情からも、一瞬にしてすっと血の気が引き去っていった。
しかし、次の瞬間──。
霞は、その愛らしい桜色の唇をくすりと歪めると、心の底から楽しそうに鈴を転がすような声で笑ってみせたのである。
「変な勘違いをしないで頂戴な」
「私はね、ただ機械的に物資だけを送り届けて、『ああ助かりました』『ありがとうございます』なんていう一言だけで終わってしまうような、そんな底浅くて退屈な真似は一切しないと言っているのよ」
彼女はソファからしなやかに立ち上がると、カツン、コトンと可憐なヒールの音を静かな指令室の床に心地よく響かせたのだった。
ゆっくりとした足取りで、ホログラムで青く光る日本地図の真前へと歩みを進める。
「海斗」
「圭」
「はっ!」
霞の呼びかけに応じ、背後に控えていた二人の青年が間髪入れずに一歩前へ進み出ると、寸分の乱れもない美しい動作で力強く敬礼を捧げた。
霞はホログラムの日本列島の上に怪しく点滅している赤く小さな光の一つを、手にしていた扇子の先でピシッと指し示してみせたのだった。
「我が精鋭部隊を速やかに編成しなさい」
「まずは、この第2基地から最も近くに位置している生存拠点へと向かうわよ」
そして、どこか悪戯っぽくも誇らしげな笑みを、その可憐な顔に浮かべたのだった。
「現地へ携えていくのは、大釜で炊き上げたばかりの山のような温かいお米」
「魔石の光を浴びて瑞々しく育った採れたての野菜」
「香ばしい匂いを漂わせる焼き立ての極上のお肉」
「そして──」
霞は手にしていた扇子を、パサリと勢いよく全開に広げてみせた。
「この私、月詠霞という絶対神の圧倒的なるご威光よ」
その可憐な瞳の奥には、見る者を平伏させるような神秘的で神々しい白銀の光が宿っていた。
「絶望の底で凍えている哀れな人間たちへ、その身体と心にしっかりと刻み込んで教えてあげなさい」
『この世界の唯一無二の絶対神・月詠霞様を心より敬い奉れば、どれほど恐ろしい地獄からであっても必ずや救い出される』とね」
『そして毎日、温かくて最高に美味しいご飯を、心ゆくまでお腹いっぱいに食べることができるのだ』と」
「「ハッ!!」」
海斗と圭は胸を堂々と張り、気迫に満ちた声で敬礼を返すと、迷いのない足取りで即座に指令室を後にしていった。
救出のための精鋭部隊の迅速な編成。
地上を走破するための頑丈な大型輸送車両の点検と準備。
そして、膨大な量におよぶ食料と生活物資の積み込み作業。
第2基地という巨大な街全体が、これから始まる最大規模の救援作戦に向けて、一斉に熱気を帯びて動き始める。
嵐のように走り去っていく彼らの頼もしい背中を見送りながら、神宮寺は深い感動に胸を打たれ、目の前の神へと幾重にも頭を深く垂れたのだった。
「真にありがとうございます……霞様」
「あなた様こそが、この滅びの淵に瀕していた我が国をあまねく照らし出す、唯一無二の真の救世主にございます」
「ふふ」
霞は少しだけ気恥ずかしそうにすっと視線を横へと逸らすと、小さくフンと鼻を鳴らして笑ってみせたのだった。
「まったく、相変わらず大袈裟な言い草ね」
「私はただ、私という神を敬い、笑いながら豊かに暮らす臣民が増えた方が、世界がより賑やかで楽しくなると思っているだけに過ぎないわ」
そうやって言葉では素っ気なく口にしてみせながらも──。
基地内に満ちあふれる人々からの絶え間ない感謝と深い信仰の念は、目には見えない眩い黄金色の神気となって、今この瞬間も絶え間なく彼女の身体へと集まり続けていたのだった。
五千人という膨大な数の人々。
その一人ひとりが胸の中に抱く切実な祈りと、偽りのない心からの感謝。
ただそれだけの純粋な感情を受けることによって、霞の持つ神格は、日を追うごとにどこまでも高く、尊きものへと昇華を果たし続けているのだった。
やがて遠からぬうちに、その強大な力は日本全土を優しく覆い尽くすほどの輝かしい光へと成長していくことだろう。
霞はゆっくりとした動作で目の前に広がる日本地図の全域を見渡すと、尊らしくも不敵な笑みをその唇に浮かべた。
「さあ──出発の時よ」
「冷たい暗闇の深淵で、希望を失いかけている哀れな人間たちのもとへ」
「温かな救いの光と」
「生きるための温もりと」
「そして何よりも、この世界で一番美味しい最高のご飯を届けてあげるためにね」
こうして、絶対神・月詠霞の威光を掲げる第2基地は、単なる一つの避難場所という枠組みを大きく飛び越え、崩壊した日本を再び蘇らせるための復興の中心地として、力強い第一歩を踏み出し始めたのだった。
彼女たちが刻んでいく新たな救出の足跡は、やがて日本全土の至る所に希望の灯火を掲げ、暗闇に沈んでいた人々の途絶えかけた運命を、どこまでも大きく変えていくことになるのだった。
◇
救援活動の準備が着々と進められる中、中央指令室の大型ホログラムモニターに、突然甲高いアラート音とともに一際大きく明滅する警告表示が躍り出たのだった。
「霞様、神宮寺総理! 通信班より緊急入電です!」
オペレーターが息を呑み、交信ログのデータをメインモニターの画面中央へと大きく表示させた。
「ここから約三十キロメートル離れた旧湾岸臨海エリアに位置する、国内最大級の地下防災拠点『東京湾岸ビッグシェルター』より、緊急のSOS信号を受信いたしました! ノイズが酷いものの、音声データの解析が完了しております!」
スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの途切れ途切れな、しかし悲痛極まりない男性の叫び声だった。
『──こちら湾岸ビッグシェルター……! 収容人数、一万人以上……! 大型魔獣の群れによって地上出入口および換気シャフトが完全に包囲され、防衛線が崩壊寸前だ……! 食糧も医療品も完全に底を突き、もはや一日も保たない……! 誰か……誰か頼む、救ってくれ……っ!』
ザザーッ……という激しい砂嵐の音とともに通信が途絶えると、指令室内には重く張り詰めた緊張感が走ったのだった。
「一万人……! 我が国の地下避難拠点のなかでも最大規模の施設です……! そこまでの人数が追い詰められているとは……!」
神宮寺総理が握りしめた拳を震わせ、顔を蒼白にさせる。一万人もの命が、今まさに暗闇の中で潰えようとしているのだ。
しかし、その悲痛なSOSを聞いた霞の表情には、焦りも恐れも一切浮かんでいなかった。
彼女は手にしていた扇子をパサリと優雅に閉じると、静かな、けれど圧倒的な威厳に満ちた声で室内へと語りかけたのだった。
「一万人の命が消えかけているのね。……ちょうどいいじゃない」
ゆっくりと立ち上がった霞の身体から、圧倒的な白銀の神気が溢れ出し、指令室全体をあたたかく爽やかな光で満たしていく。
「一万人の人間が一度にこの私の神徳に触れ、心からの感謝と敬意を捧げる……。想像するだけで、どれほど素晴らしい信仰の光が湧き上がるか、今から楽しみでならないわ」
霞は優雅な足取りで、出撃準備を終えて待機していた海斗と圭、そして精鋭部隊の面々へと視線を向けた。
「海斗、圭。行くわよ。大型輸送車に山ほどの温かいお米とご馳走を積み込みなさい。一万人分の胃袋を満たし、その絶望をすべて吹き飛ばしてあげるためにね」
「「ははっ!! 直ちに出撃いたします!!」」
「神宮寺、あなた方は第2基地の受け入れ態勢を整えておきなさい。……さあ、群がる魔物ごと、哀れな一万人の人々を神の光で包み込んで差し上げましょう」
威厳と慈愛を兼ね備えた絶対神・月詠霞の号令とともに、重厚な防衛扉がゆっくりと開放され、一万人もの命を救い出すための大規模救援部隊が、暗闇の広がる地上へと力強く駆け出していくのだった。
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