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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
吸血人の日常

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10 封筒の中身

 

 笹川文代さんの死亡診断書を書くとき、いつも少しだけ手が遅くなる。


 死亡時刻。死因。

 文字にすると整う。整うほど、病室で見た“人”が紙からこぼれる。


 俺は署名欄に自分の名前を書いて、ペンを置いた。

 ナースステーションの時計は、まだ深夜の顔をしている。


 病棟の手順は続く。


 師長へ連絡。事務へ連絡。必要な書類。

 家族がいない患者さんだと、ここから先が少し違う。電話一本で済まない。連絡網がないぶん、病院側が“最後の段取り”を抱える。


「先生、ありがとうございます」


 師長が短く言った。眠気を消す声じゃない。ちゃんと現場の声だ。


「いえ。…笹川さん、苦しくなくてよかった」


「それが一番」


 師長はそう言って、病室の方を見た。


 病室のカーテンは閉まっている。

 中では看護師が、いつもの速度ではない速度で動いているはずだ。

 静かに、丁寧に、終わりの手順を整える。


 俺はその時間に入らない。入らない方がいい時間がある。医者には。


 ◇


 夜が明けるまでの間、病棟は何度か深呼吸をした。


 救急からの呼び出しはなく、廊下も静かだった。

 静かすぎると、逆にいろんな音が聞こえる。点滴の滴下音、カーテンの擦れる音、遠くの自動ドア。


 夜勤の終わりが近づいて、窓の外が青くなる。


 その青さの中で、一ノ瀬さんが俺のところへ来た。

 足音が小さい。いつも以上に小さい。


「先生」


「はい」


 一ノ瀬さんは、胸のポケットに手を当てた。

 そこに、昨日見えた封筒が入っているはずだった。


「少しだけ、時間いただけますか」


「…いいですよ」


 俺は当直室ではなく、誰も使っていない小さな面談室を選んだ。

 机と椅子が二脚。壁に掲示物が一枚。

 病院の“話すための部屋”は、だいたい余計な装飾がない。


 一ノ瀬さんは椅子に座らず、しばらく立ったままだった。

 座ると何かが崩れるのを知っているみたいに。


「先生」


「はい」


「笹川さんから、これです」


 一ノ瀬さんが封筒を出した。小さくて、少し古い。

 封はされていない。中身が重い封筒の形をしている。


 表に、丁寧な字で書いてある。


『紗夜ちゃんへ』


 俺はそれを見て、視線を落とした。


「…見てないです」


 一ノ瀬さんが短く頷いた。


「見せないでって言われました。先生には、って」


「じゃあ、先生には見せないでおきましょう」


 俺が言うと、一ノ瀬さんの眉がほんの少しだけ動いた。

 見せてしまったことを後悔している顔じゃない。許可されたみたいな顔だった。


「でも、先生に…言わないといけないことがある気がして」


「言わないといけないこと、って?」


 一ノ瀬さんは封筒を指先で軽く叩いてから、言った。


「笹川さん、昨夜、私に頼みました。『形見は紗夜ちゃんに。だけど、先生にだけは、ちゃんとお礼を言って』って」


 お礼。


 それは医者が一番扱いづらい言葉だ。

 やったことは“仕事”だと言いたくなる。仕事だからやった、と言ってしまえば楽になる。


 でも、仕事でもお礼を言われることはある。

 そのお礼を雑に受け取ると、患者の人生を雑に扱うことになる。


「…わかりました」


 俺がそう言うと、一ノ瀬さんは少しだけ息を吐いた。


「先生、笹川さんに…何か言われました?」


 きっと、笹川さんが俺に言ったことを知りたくて聞いてる。

 でも、それ以上に“笹川さんがどうだったか”を確認したい声だった。


 俺は答えを短くした。


「笹川さんは、最後まで自分で決めてました。苦しくない方を選んで、外に出て、眠って。…きれいな終わり方だったと思います」


 一ノ瀬さんのまぶたが一度だけ深く閉じた。

 まるで、その言葉を胸の中にしまうみたいに。


「…そうですか」


 それから、少しだけ声が変わった。病棟の声じゃない。


「先生、ありがとうございます」


「俺だけじゃないです。病棟みんなでやった」


「それでも、先生が“考えましょう”って言ってくれたのが…助かりました」


 助かった。

 患者ではなく看護師から言われる助かったは、別の重さがある。


 俺は一ノ瀬さんの封筒に目をやって、言った。


「…中、見ますか」


 一ノ瀬さんは一拍置いて、椅子に座った。

 座った瞬間、肩の力がほんの少し落ちる。


「見ます」


 封筒から出てきたのは、便箋が二枚。

 それと、鍵が一本。


 古い鍵。

 金属が少し擦れている。人の手に馴染んだ鍵だ。


 一ノ瀬さんの指が、その鍵をそっと撫でた。

 撫で方が、仕事の手じゃない。


 便箋の一番上を、一ノ瀬さんが読む。声には出さない。

 目だけが動く。行を追うたびに、目元が少しだけ揺れる。


 俺は黙って待った。

 この沈黙は、面倒を減らすためじゃない。ちゃんと待つための沈黙だ。


 しばらくして、一ノ瀬さんが紙を置いた。


「…鍵、だって」


「鍵」


「昔、私が住んでた部屋の。合鍵。…返そうと思ってたのに、返さないまま引っ越したからって」


 一ノ瀬さんが自嘲みたいに息を吐く。


「六年越しで返されました」


 返された、という言い方が少し可笑しいのに、可笑しくない。


「手紙、なんて書いてありました」


 俺は聞いてから、少しだけ後悔した。

 覗きたいわけじゃない。ただ、彼女が一人で抱えすぎないようにしたかった。


 一ノ瀬さんは少し迷ってから、短く言った。


「『紗夜ちゃんは全然変わらないけど、顔が変わった』って」


 顔が変わった。


「『信頼できる人ができた顔だ』って」


 一ノ瀬さんの声が少しだけ詰まる。

 彼女はそれを誤魔化すみたいに、続けた。


「…それから、『人として生きるなら、誰かと生きることまで諦めちゃだめ』って」


 昨日、笹川さんが病室で言った言葉と同じだ。

 言い方まで同じ。あの人は言い残すとき、同じ言葉を選ぶタイプなんだろう。


 俺は頷いた。


「笹川さんらしい」


 一ノ瀬さんが、鍵を握ったまま言った。


「私、長い時間を見てきたつもりでいました」


「…うん」


「でも、笹川さんの六年は、私の六年と違いました」


 その言い方が、いちばん吸血人っぽかった。

 長い命の人が、人間の時間の速さにぶつかるときの言い方。


「笹川さん、最後に会えてよかったですね」


 俺がそう言うと、一ノ瀬さんは一度だけ首を振った。


「よかった、だけじゃ足りないです」


 そして、少し困った顔をして笑った。


「先生、こういうの…どうしたらいいですか」


 俺は答えを持っていない。

 でも答えがないときに、医者は変に賢そうなことを言ってしまう。今日はそれをしたくなかった。


「…まず、泣きたかったら泣いていいです」


 一ノ瀬さんは、少しだけ目を見開いてから、すぐ視線を落とした。


「泣くの、苦手です」


「苦手なら、黙っててもいい」


 一ノ瀬さんは便箋を指で整えて、封筒に戻した。

 その動きが丁寧すぎて、逆に危うい。


「先生」


「はい」


「今日、口止め料じゃなくて…お礼をさせてください」


 俺は小さく息を吐いた。


「お礼って、何を」


「食事に行きたいです」


 一ノ瀬さんは言い切ったあと、少しだけ目を伏せた。


「…病棟じゃなくて、外で。笹川さんのこと、少し話したい。先生にも聞いてほしい」


 病棟の外で。

 外の空気で話すべきことがある、という顔だった。


 俺は頷いた。


「わかりました。行きましょう」


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ息を吐く。

 息を吐けたこと自体が、今日の成果に見えた。


 鍵は、一ノ瀬さんの手の中に残った。

 小さな金属の重さが、形見の重さになる。


 そして、その重さを抱えたままでも、人は歩ける。

 歩けるようにするのが、たぶん“続けていく形”なんだろう。


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