3.斉藤翔
【登場人物】
白波留夏 主人公
斉藤翔 神社で会った大学生。同じ高校のOBらしい。
慌てて私はバッグを漁る。
「あ、あたしは白波留夏……って、学生証ないや」
「学生証なんていらんけど」
不審そうに眉をひそめる斉藤翔に、私は適当に思い浮かんだ人物の名を告げる。
「あ、じゃあベン先知ってます?ウチの高校の先生」
「知ってっけど……てことは……」
「そう、後輩!よろしくお願いします、翔先輩!」
ペコッと勢いよくお辞儀すれば、斉藤翔はたじろいで後ろに数歩下がる。
「え、でも俺……きみのこと知らないけど」
マジで不審者にされそうで、私は必死に説明した。
「高校の美術室に翔先輩が描いた絵があって。描きましたよね!」
斉藤翔は目を見開いた。神社を見て、それから私の絵を見て、また神社に目をやる。
ようやく私の顔に視線を合わせると、斉藤翔は頭を抱えてその場にしゃがみこむ。
「マジか、俺の黒歴史。残しとくんじゃなかった……」
「え、いい絵でしたよ。ひと目でこの神社だってわかったし。私も先輩に倣って、ここで描こうと思って」
「それでかぁ」
しゃがんだまま脱力したようにへちょりと眉を下げ、私を見上げる斉藤翔は、年上だろうけど妙にかわいい。
「ふふっ、見られたくないなら置きっぱなしは良くないですよ」
「置きっぱなしじゃなくて……棄てたつもりだった」
「廃棄もダメです。持って帰らないと」
斉藤翔はため息をつくと、恥ずかしそうに両手で顔を覆ってしまう。
「わかった。反省するから許して」
あ……ヤバい。年上の男性の情けない姿にときめくとか、ちょっと私の感覚もおかしくなってるのは、暑さのせいかも。
めったに来ない神社の境内。絵を描いた本人、生身の人物が目の前にいる。それだけで非日常度がぐんと上がる。
思いがけず熱くなった自分の顔を手で仰ぎ、取りだしたボトルからアイスティーをゴクゴクと飲む。
ふぅ、と息をついてボトルから口を放せば、私を見上げる斉藤翔と目が合う。
「飲みます?」
「いいの?」
なんとなく、断られたらそのまま帰ろうと思ってた。
けれど斉藤翔は気にせずボトルを受け取り、おいしそうにゴクゴクと飲んで目を輝かせる。
「すっげーうまそうに飲むから気になって。ただのお茶じゃないんだな」
「アイスティーは自分で茶葉を選んで作るんです」
ベリーが入った優しい味。母の作った麦茶じゃないことに感謝する。
「ふうん、俺飲んでもよかったのかな。ありがとう」
神社の境内を風が吹き抜け、うるさいぐらいに蝉が鳴く。くしゃりと笑顔になった彼と、ちょっとだけ距離が近くなったような気がした。
「今も描いているんですか?」
「何を?」
「絵ですよ。あるなら見たいです」
翔の表情が少しだけ曇る。
「今は……描いてない」
お互い一歩も動いていないのに、二人の間の距離はふたたびぐんと離れた。私は終わりにしたくなくて、会話を続ける。
「あれだけ描けるなら美術系に進んだのかなって。それとも立体造形とか、そっち始めちゃった?」
「俺程度のはゴロゴロいるよ」
「あ、じゃあちょっとは考えたんですね」
翔はキュッと口を引き結び、私の顔をじろりと見る。
「きみ、グイグイくるね」
「留夏」
「え?」
私は真顔で彼に念を押す。
「留夏ですよ、白波留夏。不本意ながら夏っぽい名前で忘れにくいんです。翔先輩も覚えて下さい」
「今日会っただけなのに?」
「私は会ったこともないのに『斉藤翔』って覚えましたもん」
翔は顔をしかめて自分の首に手をやってぼやく。
「……帰省してすぐ、知らない女の子に名前呼ばれて、俺マジでびびった」
「帰省……ふだんはどこに?」
「気になるの?」
「気になりますよ。あの絵を描いた当人が、絵を置いたままどこに行ったのか、すっごく気になります!」
翔は困ったように視線をついとそらした。
「別に……ただ進学で東京に行っただけ。それより、本当に俺のこと知らないんだな」
「そうですね」
斉藤さんちの男の子。東京の大学に進学した子。回覧板ついでに近所のおばちゃんに聞けば、すぐわかるかもしれない。
けれどそれはそれで、なぜ関心があるのか問い詰められそうで怖い。おばちゃんレーダーはバカにできないのだ。
私は『斉藤翔』について何も知らない。
でもあの絵には惹きつけられている。憧れのようなライバルのような、ひと夏の野望をここで昇華させると決めた動機になった一枚の絵。
「まだ完成までかかるんで。また見に来てもらえますか?」
「俺が?」
私はこくりとうなずく。
「アドバイスほしいです」
翔は探るように私の顔を見た。
「きみは美大に進んでプロになりたいの?」
「できれば。でもまだ親には言ってなくて。だから納得のいく物が描きたくて」
「美大、それじゃ無理だろ。画材だって……」
「お金、ないですし」
現実問題、美大は課題も多くて、授業料だけでなく製作費にもかなりお金がかかる。
夏の野望を実現できたら、親にも打ち明けよう、そんなふうに考えていた。
翔はもう一度、私のスケッチブックへ目を落とす。
「アドバイスなんて、俺にはできないよ」
「でも、さっきは……」
「さっきは俺も描いているつもりになってた。俺の絵筆がそのまんま君の手を通して、紙の上を走っていたんだ。だけど、君が描きたいのは、君自身の……白波留夏が描いた絵だろう?」
だからダメだと翔は言う。
「色が……」
「色?」
「迷わなかったの。私はこの目でちゃんと見ていても迷うのに、翔先輩は色選びにちっとも迷わず、ポンポンと色を決めて置いてくんだもの。絵の具が紙に馴染むと同時に、画面に世界ができていくんだもの!」
「えっと……」
私の勢いに戸惑ったようで翔はまばたきをした。
「もったいないよ。やめちゃったの?もう全然描いてないの?」
「ああ。描いてない」
それだけ答えると、翔は照れたようにまたくしゃりと笑う。
「まいったな。俺、すげー天才みたいだ。また会ったら絵を見るぐらいはしてやるよ」
そう言うと翔は階段を降りていく。
「約束だからね!」
私が叫ぶと、翔は振り向きもせず片手を挙げた。
なのに翌日から三日間も、私たちの町には雨が降り続いた。




