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眼を覚ましたイザングランは薄暗い視界の中、見慣れぬ天井を見上げていた。
ぼんやりと霞がかる頭で、自分はいったい何をしていたのかと思い出そうとする。今が夜だということくらいしか、その時のイザングランには分からなかった。
なにかが身動きする気配と、衣擦れの音にゆるりと視界を巡らせた。なぜだかそれだけの動作もひどく気だるく感じる。
巡らせた視界の先にアレクがいた。
アレクだ。生きている。
毛布をかぶり、器用に椅子にすわりながら寝ている。
アレクの安定して聞こえる呼吸に、上下する肩に、イザングランは心の底から安堵した。
不安も焦燥もない、満ち足りた安らかな気持ちでイザングランは眼を閉じ、再び意識を手放した。
***
次にイザングランが目覚めると明るい光がベッドに引かれたカーテン越しに差し込んでいた。
ゆっくりと起き上がり、それから全身の痛みに耐える。ひどい筋肉痛と、体のあちこちに感じる皮膚の引きつれは魔力回路が焼けた後遺症だろうか。
わずかでも体を動かすたびに襲ってくる痛みに耐えながら、カーテンを開けようと手を伸ばせば、指が触れる前に開いた。
開いたカーテンの向こうにいたのはアレクだった。ほのかな逆光で、アレクが光り輝いて見えて、イザングランはぱちり、と瞬いた。眩い。
表情の抜け落ちた、お面か人形のような顔をしていたのは一瞬で、アレクはイザングランを認めるとすぐさま破顔し、いっぱいにカーテンを開ける。
「起きたんだな、イジー。ちょっと待ってろ、すぐ先生を呼んでくる」
言葉を発する間を与えずにアレクはイザングランの視界から消えていった。
すぐに保険医がやってきて診察を受ける。ついでに今までの経緯をおおまかにだが聞くことができた。
イザングランはフユゾラダケに夢中で気付いていなかったが、アレクは魔物の気配を感じてすぐに信号筒を打って助けを呼んでいたそうで、イザングランが気を失った後に救助人が駆けつけ、アレクとイザングランを救護所へ運んでくれたという。アレクは持っていた傷薬で応急処置もしてくれていたらしい。
イザングランは治療を受けておおよそ丸一日眠っていたが、アレクは救助人が駆けつけたときにはもう意識が戻っていたと聞いて、もっと鍛錬を増やそう、とこっそり誓う。
希少素材の採取ばかりをしていて課題の魔物素材を採取していなかったイザングランは初めての補習か、と肩をわずかに落としたが、どうやらアレクが魔物の素材をイザングランの分も採取してくれていたようで、怪我をするような状況に身を置いてしまったことに対してのお説教だけで済むようだった。
「はい、後遺症は魔力を暴走させかけて回路がちょっと焦げた以外はないわね。塗り薬はお風呂に入ったあと毎日塗ること。飲み薬は毎食後に忘れずにね」
「ありがとうございました」
ひどい筋肉痛と皮膚の引き連れはあれど、回復魔術を受けた身はとりあえず動き、日常生活にはたいした支障がないので、自室療養を言い渡された。
皮膚の引きつれがなくなるまでは激しく体を動かす授業は参加しないように、と注意を受け、神妙に頷き、ちらと鍛錬を増やそうと思ったそばからこれか、と内心でため息を吐きながらイザングランはアレクと共に保健室をあとにした。
「よかったよ、イジーの眼が覚めて」
並んで歩きながらアレクが言う。
それはこちらのセリフだったが、心底安堵したようなアレクに、イザングランは忠告を聞き入れなかった自己を大いに反省した。
アレクは魔物の気配に勘付いて自分に忠告をしてくれたというのに、邪険に扱ってしまった。そのうえ、課題の魔物素材まで知らないうちに融通してもらっていたのだから、頭が上がらない。何かお礼をすべきだろう。購買か販売所で買うか、それとも手作りのものを贈ろうか。
「すまなかった、アレク。言うことを聞かずに勝手をして。そのうえ課題まで任せきりになってしまった……」
「そんなに気にするなよ。ま、次からは山での行動は慎重にな?」
ぽんぽん、と頭を軽くはたかれる。
「まったく、アレクの言う通りだ。薬は薬屋、と言うものな。
それにしても、いつの間に魔物素材を採取していたんだ?」
「ああ、ほら、イジーが仕留めたでかい鹿みあたいなやつ。
あいつの角とー、魔石とー、あと皮の無事だったところとー」
「…………は?」
喉から今まで出たことのない、地を這うような声が出た。
指折り数えていたアレクの動きがひたと止まり、取り繕った笑顔をイザングランに向ける。
アレクの笑った顔をいっとう好きだと思っていたイザングランは例外もあるのだと、その時に初めて知った。
「おまえ、あの魔物にふっ飛ばされて、木に体を打ちつけていたよな?」
「えっと、うん。でもちょっと息がつまったくらいで、意識はあったし、しばらくしたら動けるようになったから。
せっかく取れる素材が目の前に転がってるなら取っとかないともったいないだろ?」
早口で弁解するアレクに一理あった。一理あったが、イザングランは同意する気にはならなかった。
それを許せば今後も同じことを――目的のために自分自身を軽んじるのではないか――そんな不安と焦燥とがイザングランの胸中に渦巻いていた。
「だが怪我をしていたことには変わらないだろう。信号筒を使っていたなら、救助人が到着するまで安静にしているべきだった。動けたとしても、悪化することだってある」
「いやー、ちゃんと傷薬は飲んだぜ。それにちょっと骨にヒビが入ってただけだし、回復魔術もすぐに受けられて、骨も元通りだからさ、そんな心配することないって。俺もイジーも無事だったんだしさ。
回復魔術って便利だよな!」
明るい声だった。明るい笑顔だった。イザングランがいっとう好きなはずのものだった。
――それが、今、こんなにも。
「ふざけるな」
「……イジー?」
イザングランに心配をかけまいと、わざと明るく、なんでもないように振る舞っているのだと、そう思う。けれど。
「お前は僕の身勝手のせいで怪我をしたんだぞ? 打ち所が悪かったら死んでいたかもしれないんだぞ?」
声が震えた。目の奥が熱い。喉がひどく痛む。
「骨が折れてちょっとで済ませるな。傷薬を飲んだから? 回復魔術があったから? じゃあ傷薬がなかったら? 回復魔術を使える人間がいなかったら?」
激情にかられたまま、八つ当たりの、助かった今となっては揚げ足取りの言葉を投げつけるべきではないと理解しているはずなのに、イザングランの口は止まらない。
ママテ山での、理解し難い怒りに似た何かが腹で渦を巻き、制御できずにイザングランの口から溢れ出ている。
「お前が怪我をするくらいなら助けてほしくなんてなかった!」
言ってしまってから、イザングランは弾かれたように走り出した。
背中にアレクが自分の名を呼ぶ声が聞こえたが、応えられるはずも、振り返ることもできず、体の痛みと引きつれを無視して走り続けた。
その日、イザングランは初めて寮の自室に戻らなかった。




