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第89話 基地の一日 ~side Kaito~

地球統合軍沿岸補給基地。


その名前から想像していたよりも、そこは広かった。


ルクス・ヴァルキュリアは、基地沖合の指定海域上空に浮かんでいる。

巨大な艦影は、海の向こうに黒い島のように見えた。


基地側には仮設連絡橋と輸送用シャトルの発着区画が設けられ、補給物資や医療機材が次々と運び込まれている。


空には監視ドローン。

遠くの防衛塔には、まだ砲口がこちらを向いている。


休暇。


そう呼ぶには、少し物々しすぎる光景だった。

それでも、艦内の閉じた空気とは違う。

監視付きであっても、ここには空と海があった。


「……これ、休暇って言っていいのかな」


カイトは思わず呟いた。


首には識別タグ。

少し離れた場所には、地球軍の監視員。

行動範囲は基地内の管理区域のみ。


それでも、ルクスの中とは違う。


潮の匂いがする。

風がある。

空が高い。


地球に降りたのだと、ようやく実感できた。


隣では、ユイが無言で空を見上げている。


「どうした?」

「……風が違います」

「宇宙艦の空調とは違うからね」

「はい」


ユイはしばらく目を細めていた。


その表情は、少しだけ懐かしそうにも見えた。


「竜奈としていた頃も、こういう場所に来たことある?」

「あります。玲奈と、何度か」

「そっか」

「ただ、軍の補給基地ではありませんでした」

「それはそうだと思う」


カイトがそう言うと、ユイは少しだけ首を傾げる。


「普通の海でした」

「普通の海」

「はい。何もしないで、ただ歩く場所です」

「それが普通だよ」

「……そうですか」


ユイはもう一度、海の方を見た。


その横顔を見て、カイトは少しだけ黙った。


今のユイにとって、普通という言葉は、きっとまだ遠い。

でも、その遠いものにもう一度触れようとしている。


それだけでも、今日は意味がある気がした。


基地内の管理区域には、休憩施設が用意されていた。


兵士用の食堂。

売店。

仮設の医療チェックルーム。

小さな展望デッキ。

訓練室。

そして、娯楽スペース。


本来は、長期任務中の兵士達が休むための場所らしい。


ただし今日は、少し空気が違った。


ルクスから来た者達。

地球側の兵士達。

監視員。

医療関係者。


皆が互いを見ている。


敵ではない。

だが、完全な味方とも言い切れない。


そんな距離感だった。


「見られていますね」


ユイが言った。


「うん」

「敵意は少ないです」

「分かるの?」

「視線の強さが違います」

「そういうの分かるんだ」

「はい。ですが、警戒はあります」


それはカイトにも分かった。


地球側の兵士達は、露骨に敵意を向けているわけではない。

だが、ユイやセラ、リン、ナユ達を見る目は、明らかに普通の民間人を見るものとは違う。


兵器。

元敵。

危険な存在。


そんな言葉が、視線の奥にある。


カイトは少しだけ息を吐いた。


「嫌なら、戻る?」

「いいえ」

「無理しなくていいよ」

「無理ではありません」


ユイは短く答えた。


「見られることにも、慣れる必要があります」

「……そう」

「それに」


ユイは少し間を置いた。


「今日は休暇です」

「それ、結構気にしてる?」

「命令ですから」

「そこは相変わらずだな」


カイトは苦笑した。


少し離れた場所では、ナユとアイナが売店の前に立っていた。


ナユは商品棚を真剣に見つめている。

その目は、敵機を分析している時とほとんど同じだった。


「これは、補給物資ですか」

「うーん、近いけど違うかな」


アイナが困ったように笑う。


「お菓子とか飲み物とか、必要じゃないけどあると嬉しいもの」

「必要ではない」

「うん」

「しかし、購入されている」

「そう」

「必要ではないが、取得される物資」

「言い方が硬いね」


ナユは棚から小さなチョコレート菓子を一つ手に取る。


「これは、戦闘行動に必要ですか」

「必要ないよ」

「では、なぜありますか」

「甘いものを食べると、少し元気になるから」

「栄養補給ですか」

「それもあるけど、気分の問題かな」


ナユはしばらく考えた。


「気分を補給する物資」

「うん。そんな感じ」


アイナが頷くと、ナユは真剣な顔で言った。


「では、重要物資です」

「急に重要になった」


その横で、地球軍の監視員が少し困った顔をしている。


ナユはレジへ向かった。

動きは真面目そのものだ。


「購入手続きを実行します」

「普通に買えばいいんだよ」

「普通に買う」

「うん」


ナユは店員の前に立ち、チョコレート菓子を差し出した。


「これを取得します」

「え、ええと……お買い上げですね」

「はい。お買い上げです」


店員が少し戸惑いながら会計を済ませる。


ナユは受け取った小さな袋を、両手で持った。


「アイナ」

「何?」

「気分を補給します」

「うん。食べてみよう」


ナユは袋を開け、一粒口に入れる。


しばらく動きが止まった。


「どう?」

「……甘いです」

「うん」

「柔らかいです」

「うん」

「敵意がありません」

「お菓子に敵意はないかな」


ナユはもう一粒食べた。


「理解しました」

「何を?」

「これは、重要物資です」

「気に入ったんだね」


アイナが笑う。


ナユは少しだけ頷いた。


「はい。気に入りました」


その表情はほとんど変わっていなかった。

けれど、ほんのわずかに目元が柔らかかった。


一方、レイとリンは基地内通路を歩いていた。


二人の後ろには監視員が一人。

だが、その監視員の方が緊張しているように見える。


無理もない。


レイとリンは無言だった。

歩き方も似ている。

周囲を警戒する視線の動きまで似ている。


それを見た地球軍の女性兵士が、小声で言った。


「やっぱり、姉妹なのかな」

「似てるよな」

「でも雰囲気が怖い」


リンの眉が動く。


レイは、何も言わない。


「……聞こえています」


リンが低く言った。


兵士達が慌てて目を逸らす。


「す、すみません」

「姉妹ではない」


レイが短く言う。


「系列が近いだけだ」


リンも続けた。


その言い方がほとんど同じだったため、兵士達はさらに気まずそうになった。


リンは不満そうに息を吐く。


「なぜ姉妹に見える」

「似ているからだ」

「似ている?」

「戦闘姿勢、視線、反応速度。周囲から見れば近い」

「……あなたは気にならないのか」

「慣れていないだけ」


レイは淡々としている。


リンは少し黙った。


「私は、量産型です」

「知っている」

「あなたはオリジナル」

「そうだ」

「なら、似ていると言われるのは不自然ではないのか」

「不自然ではない」


レイは立ち止まり、リンを見る。


「同じ系統なら、似る部分はある」

「ですが」

「でも、それだけだ」


リンは黙る。


「量産型かどうかで、今のお前の全部が決まるわけじゃない」

「……」

「戦い、生き残った。今はそれでいい」


それだけ言うと、レイはまた歩き出した。


リンは少し遅れて、その後を追う。


「あなたは、言葉が少ない」

「よく言われる」

「でも、たまに余計なことを言う」

「そうか」

「……悪い意味ではありません」


レイは少しだけ横目でリンを見る。


そして、短く言った。


「そうか」


リンは顔を逸らした。


その様子を、少し離れた監視員が見ていた。

表情はまだ硬い。

けれど、最初ほどの警戒はなかった。


レータとイリスは、展望デッキにいた。


海が見える。

空が見える。

遠くにはルクス・ヴァルキュリアの巨大な艦影が浮かんでいる。


普通なら、ただ景色を眺める場所だ。


だが、二人は真剣だった。


「観測を開始します」


イリスが端末を構える。


レータも隣で頷く。


「休暇中の精神反応、環境変化、視覚刺激の影響を記録する」

「これは休暇ですか」

「ああ」

「観測任務ではありませんか」

「……」


レータは少し考えた。


「休暇を正しく実行するための補助観測。たぶん」

「休暇に補助観測が必要ですか」

「初回だから必要だろ」

「理解しました」


イリスは素直に頷いた。


その様子を見ていた監視員が、小さく呟く。


「真面目だな……」

「ああ」


レータが即座に反応した。


「休暇って、かなり高度な行動だな」

「え?」

「戦闘や作戦行動と違って、明確な達成目標がない」

「まあ、そうですね」

「つまり、自由度が高すぎる」

「そ、そういう見方もあるかもしれません」

「だから計画がいる」


イリスが端末を見ながら言う。


「レータ。計画過多により、自由度が低下しています」

「再度、矛盾を確認」

「ああ」


レータは真剣に頷いた。


「じゃあ、予定を減らす」

「確認」

「十時二十分、自由に海を見る」

「時間指定があります」

「十時二十五分、自由に空を見る」

「自由ではありません」

「難しいな」

「はい。休暇は難しいです」


監視員は、どう反応していいか分からない顔をしていた。


その時、展望デッキの自動販売機が目に入った。


レータはそれを見る。


「飲料取得装置」

「自動販売機です」


監視員が説明する。


「好きな飲み物を選べます」

「好きな」


レータが真剣な顔になる。


「イリス、好きなの選んで」

「好き」

「ああ」

「判断基準が不明です」

「味、色、温度、名前。そのあたりが基準になると思う」

「名称」


イリスは販売機をじっと見る。


「青い飲料があります」

「ああ」

「海に近い色です」

「それにするか?」

「はい」


イリスが青いスポーツ飲料を選ぶ。


レータは迷わず、同じものを選んだ。


「なぜ同じものを?」

「比較対象を揃えるため」

「比較には別種類も必要です」

「確かに」


レータはさらに別の飲み物を買った。

もう一本。

さらにもう一本。


監視員が慌てて止める。


「あ、あの、そんなに飲めますか?」

「比較にはサンプルがいるだろ」

「休暇ですよね?」

「ああ。休暇だよ」


イリスが記録する。


「レータの休暇行動。飲料取得が増加」

「必要だから取ってる」

「過剰取得の可能性」

「検討する」


レータは真顔だった。


やはり、休暇は難しいらしい。


ミオとセラは、訓練施設の近くを歩いていた。


基地内の管理区域とはいえ、訓練場はまだ稼働している。

遠くでは地球軍兵士達が射撃訓練をしていた。


セラは、その音に反応する。


銃声。

標的に当たる音。

号令。


休暇中に聞くには、あまり穏やかではない。


「気になりますか」


ミオが尋ねる。


「音に反応しただけ」

「射撃特化型ですからね」

「そういう言い方は好きじゃない」

「では、セラだから、と言い換えます」

「……それも変」


セラは少しだけ眉を寄せた。


ミオは淡々としている。


「訓練場に行きたいですか」

「休暇中でしょ」

「それは答えになっていませんよ、セラ」

「……少し、見たい」


ミオは頷いた。


「では、見に行きましょう」

「いいの?」

「見るだけなら」

「止めないの?」

「必要なら止めます」

「必要なら」

「はい」


セラは少し黙った。


「私は、ここにいていいのか」

「許可は出ています。少なくとも、ここにいることは認められています」

「そういう意味じゃない」

「分かっています」


ミオは足を止めた。


「答えは、すぐには出ないと思います」

「……」

「ですが、ここにいることを確認する時間は必要です」

「確認」

「はい。休暇とは、そのための時間でもあります」


セラは訓練場の方を見る。


地球軍の兵士達が、こちらに気づいて一瞬動きを止めた。

すぐに訓練へ戻る。

だが、視線は残っている。


セラはそれを感じ取っていた。


「見られてる」

「はい」

「怖がられてる」

「おそらく」

「当然だね」

「そうですね」


ミオは否定しない。


「ですが、それだけではありません」

「何が?」

「知ろうとしている視線もあります」

「……分からない」

「これから分かればいいと思います」


セラは何も言わなかった。


ただ、少しだけ足を進めた。


訓練場へ向かって。


それはほんの小さな一歩だった。

けれど、逃げないという意思でもあった。


カイルとアシュは、基地内の休憩スペースにいた。


正確には、カイルがアシュを連れてきた。


アシュは何度も工廠の方を見ている。

ネヴァが気になるのだろう。


「戻っていいか」

「駄目」

「まだ何も言ってない」

「顔に書いてある」


カイルは紙コップの飲み物をアシュに渡す。


「飲め」

「……何だ」

「たぶんコーヒー」

「たぶん?」

「この基地の自販機、ボタンが多い」

「確認してから押せ」


アシュは紙コップを受け取る。


しばらく中身を見てから、一口飲んだ。


すぐに顔をしかめる。


「苦い」

「当たりだな」

「外れだ」

「眠気覚ましにはなる」

「休暇中だろ」

「そうだな」


カイルは笑った。


アシュはもう一度、工廠の方を見る。


「ネヴァが気になる」

「分かってる」

「なら」

「でも戻らせない」

「……なぜ」

「お前が見てても、ネヴァは直らない」

「それは分かってる」

「分かってない顔だ」


アシュは黙る。


カイルは少しだけ声を落とした。


「ネヴァは直す。グリッドも、タツヤも、そういう連中だ」

「ああ」

「だから、お前も少し休め」

「俺は壊れてない」

「壊れてない奴は、自分でそう言わない」


アシュは何も言えなかった。


カイルは紙コップを揺らす。


「機体は直せる。部品も替えられる」

「でも、人間はそう簡単じゃない」

「……」

「だから、壊れる前に休め」


アシュは紙コップを見つめた。


「休むのは、難しい」

「知ってる」

「艦長は慣れてるのか」

「俺も苦手だ」

「説得力がない」

「だから一緒に練習するんだよ」


アシュは少しだけ呆れた顔をした。


その顔を見て、カイルは満足そうに笑った。


「今の顔の方がいい」

「何がだ」

「生きてる感じがする」

「……変な人だな」

「よく言われる」


休憩スペースの外では、地球軍の兵士達がまだこちらを見ている。


だが、カイルは気にしない。


アシュも、少しだけ工廠から視線を外した。


カイトとユイは、基地内の通路を歩いていた。


監視員が一定距離を保ってついてくる。

それはやはり気になる。


けれど、ユイは思ったより落ち着いていた。


「大丈夫?」

「はい」

「見られるの、嫌じゃない?」

「嫌です」

「正直だ」

「ですが、予想していました」


ユイは周囲を見る。


売店。

食堂。

兵士達。

清掃員。

自動販売機。

休憩用のベンチ。


何でもないものばかりだ。

けれど、ユイは一つ一つ確認するように見ている。


「懐かしい?」

「少し違います」

「違う?」

「玲奈といた場所は、もっと雑でした」

「雑」

「人が多くて、音が多くて、何をしているのか分からない人が多かった」

「ああ、街の方か」

「はい」


ユイは少しだけ目を細める。


「ここは、整いすぎています」

「基地だからね」

「でも、地球です」

「うん」

「それだけで、少し変な感じがします」


カイトはその言葉に頷いた。


確かに、変な感じだ。


宇宙で戦って、ルクスで過ごして、ようやく地球へ降りた。

なのに、完全に帰ってきた気がしない。


帰還と監視が、同じ場所にある。


「普通の場所、見に行く?」

「はい」

「食堂とか、売店とか」

「それから」

「それから?」


ユイは少しだけ視線を逸らした。


「娯楽スペース」

「……景品コーナーがあるか確認?」

「確認です」

「収集じゃなくて?」

「確認です」


カイトは疑いの目を向ける。


ユイは真顔だった。


真顔すぎて、逆に怪しい。


「ミオに上限って言われてたよね」

「まだ取得していません」

「まだ」

「はい」


カイトは頭を抱えた。


その時、通路の先に小さな案内板が見えた。


《休憩・娯楽スペース》


その下に、いくつかの設備名が並んでいる。


軽食コーナー。

映像ルーム。

簡易ゲームコーナー。

景品交換機。


カイトは見てしまった。


ユイも見ていた。


「……ユイ」

「はい」

「確認だけだよ」

「はい」

「取得は?」

「状況によります」

「そこは、しないって言ってほしかった」


ユイは少しだけ考えた。


「努力します」

「不安しかない」


カイトは深く息を吐く。


だが、止めなかった。


ユイが少しだけ楽しそうに見えたからだ。


竜奈として過ごした五年間。

玲奈と行った場所。

そこで覚えた、普通の遊び。


それにもう一度触れようとしているなら。

少しくらい、付き合ってもいいと思った。


その判断が正しかったかどうかは、まだ分からない。


ただ、カイトはこの時点で一つだけ理解していた。


ミオの警告は、たぶん本気だった。


その頃、各所で休暇は少しずつ形になり始めていた。


ナユはチョコレート菓子を重要物資として認定した。

リンはレイと並び、また姉妹と間違われた。

レータとイリスは、休暇を観測しながら飲料を増やしつつあった。

セラはミオと共に訓練場を見学し、地球兵の視線から逃げなかった。

アシュはカイルに工廠へ戻ることを止められ、苦い飲み物を少しずつ飲んでいた。


誰も、完全には休めていない。

誰も、完全には慣れていない。


けれど、それでも。


戦闘ではない時間が、確かに流れていた。


カイトは、娯楽スペースの入口に立つ。


中から、軽い電子音が聞こえた。

どこか懐かしい、日常の音。


ユイが隣で立ち止まる。


「カイト」

「何?」

「本気でやらないようにします」

「それ、玲奈にも言われたやつ?」

「はい」

「守れたことは?」

「場合によります」

「不安しかないな」


ユイは少しだけ口元を緩めた。


「でも、今日は休暇です」

「そうだね」

「なら、少しだけ普通のことをします」

「うん。少しだけね」


カイトはそう言って、娯楽スペースの扉を開けた。


その先にあるものが、普通の休暇で終わるかどうか。


それは、まだ誰にも分からなかった。

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