表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
412/412

第410話 海を見る記録/CODE:EARTH

 正式停戦協定の第一段階が成立した。

 帰還慰問会が終わり、ラスト・オーダーの出向解除手続きも終わった。

 まだ、すべてが片付いたわけではない。

 正式終戦協定はこれから。

 帝国再編もこれから。

 監察局の裁定も、機体管理も、各地球への補償も、残された記録の整理も、山ほど残っている。

 それでも、撃ち合いで決める時間は終わった。

 だから、その日だけは、少しだけ別の場所へ行くことになった。

 地球の海へ。


 波の音がしていた。

 風が吹き、潮の匂いが混じる。

 空は広く、雲はゆっくり流れている。

 海は、モニター越しに見た時よりもずっと大きかった。

 イリスは、砂浜に立ったまま端末を開こうとした。

 波音。

 周期。

 風向き。

 水面反射率。

 潮の匂い。

 空の色。

 記録すべき項目はいくらでもある。

 けれど、その指が動く前に、隣から声がした。

「イリス」

 ユイだった。

「記録する前に、見ませんか」

 イリスの指が止まる。

 もう片方の隣には、アミィが立っていた。

 アミィもまた、海を見つめている。

「海は、広いですね」

「はい」

 イリスは答えた。

「記録範囲に収まりません」

「では、どうしますか」

 アミィが尋ねる。

 イリスは、端末と海を交互に見た。

 これまでなら、まず記録した。

 見たものを残すことが、自分の役目だった。

 命令ではない記録を残すこと。

 誰かが生きていたことを、消されないようにすること。

 それは、今も変わらない。

 けれど。

 今、この海は、記録するためだけにあるわけではなかった。

「……見ます」

 イリスは端末を下ろした。

「今は、見ます」

 アミィは小さく頷いた。

「はい。一緒に見ます」


 海辺には、PTオリジナル組がそろっていた。

 ユイ。

 ミオ。

 レイ。

 セラ。

 レータ。

 イリス。

 そして、その少し隣に、アミィがいた。

 誰かの命令で並んだわけではない。

 点呼を取られたわけでも、配置についたわけでもない。

 気づけば、同じ海を見ていた。

「本当に広いね」

 ミオが言った。

 レイは水平線を見つめる。

「遮るものが少ない」

「感想が戦場寄り」

 ミオが笑う。

 レイは少し考えた。

「だが、悪くない」

「それならよし」

 セラは少し離れた場所で、腕を組んで海を見ていた。

 眩しい。

 広い。

 音が多い。

 けれど、嫌ではない。

 ミオが隣へ寄る。

「セラ、こっち」

「近い」

「嫌?」

「……嫌とは言ってない」

 言ってから、セラは一瞬固まった。

 ミオがにっこり笑う。

「まだ言ってる」

「今のは違う」

「何が?」

「昨日の続きじゃない」

「そういうことにしておくね」

「記録しないで」

 少し離れたイリスが端末を持ち上げかけた。

 セラが即座に振り向く。

「イリス」

「はい」

「しないで」

 イリスは端末を下ろした。

「今は、見ます」

 その返事に、セラは少しだけ表情を緩めた。

「……それならいい」

 ミオが小さく笑った。


 レータは、アミィの隣にいた。

 アミィは海を見ていたが、時々足元の砂も見ている。

 波が近づき、また引いていく。

 そのたびに、砂の形が少し変わる。

「アミィ、大丈夫?」

「はい」

 アミィは頷いた。

「広すぎて、どこを見ればいいのか分かりません」

「好きなところを見ればいいんじゃないかな」

「好きなところ」

「うん。昨日、好きなものを覚えたでしょ?」

 アミィは少しだけ考える。

「甘いもの」

「そう。それと同じ」

「海にも、好きなところを見つけるのですか」

「うん。見つけてもいいし、まだ分からなくてもいい」

 アミィは海を見た。

 波が戻ってくる。

 また引いていく。

「では、私は、波が戻ってくるところを見ます」

「どうして?」

「一度離れても、また来るからです」

 レータは少しだけ目を細めた。

「そっか」

「レータさんは?」

「私は……」

 レータは海と、空と、隣にいるアミィを見た。

「アミィが好きなものを増やしていくところを見るかな」

 アミィは目を瞬かせた。

「それは、海の一部ですか」

「今日の海の一部だよ」

 アミィは少し考えた後、静かに頷いた。

「では、覚えます」

「記録じゃなくて?」

「はい」

 アミィは小さく言った。

「覚えます」


 ナユとリンも、少し離れた場所にいた。

 ラスト・オーダーはすでに出向解除されていたが、この日は短い通信と移送調整の都合で、ナユとリンも海を見る時間をもらっていた。

 ナユは目を閉じて、波の音を聞いている。

「残響が多い」

 リンが隣で尋ねる。

「怖いですか」

 ナユは首を横に振った。

「ううん。戦闘の音じゃない」

 波。

 風。

 鳥の声。

 遠くの人の声。

 砂を踏む音。

 いくつもの残響がある。

 けれど、どれも誰かを追い詰める音ではない。

「怖くない残響です」

 リンは静かに頷いた。

「なら、よかったです」

「リン」

「はい」

「今は護衛?」

 リンは少しだけ考えた。

「いいえ」

 ナユが目を開ける。

 リンは海を見ながら答えた。

「今は、隣で同じ景色を見ています」

 ナユは小さく笑った。

「うん。それがいい」


 少し後ろでは、カナデ、アルベルト、レオニス、リクトが海を見ていた。

 カナデはPT達の様子を確認していたが、いつもの医療区画や面談室とは違い、今は少し距離を置いている。

 必要なら支える。

 けれど、今は干渉しすぎない。

 それが、彼女の役目だった。

 アルベルトは、海を見つめていた。

「彼女達がここで生きるなら」

 静かな声だった。

「その邪魔にならないように記録を整理する。それが、私の後始末です」

 レオニスは腕を組む。

「俺は帝国規格を疑う。機体も、部品も、端末も、命令同期の残留経路も」

「休む暇は少なそうですね」

「休んで済むほど、きれいな仕事じゃない」

 レオニスは砂浜に残る足跡を見た。

「だが、命令されてやるわけじゃない」

 リクトは、風を受けながら静かに目を細めていた。

「地球の術式層は、やはり静かです」

 カナデが尋ねる。

「静か?」

「帝国圏では、命令層や認証網の残響が常に混じっていました。ここには、それがない。自然の揺れだけです」

 リクトは海を見た。

「少なくとも、誰かに返事を強制する音ではありません」

 カナデは小さく頷いた。

「それは、いいことですね」

「はい」

 リクトは静かに答えた。

「とても」


 イリスは海を見ていた。

 波は同じ形を繰り返さない。

 同じように見えて、少しずつ違う。

 けれど、戻ってくる。

 記録映像では分からなかった。

 音も、匂いも、風も、砂が足元で沈む感覚も。

 全部、記録の外側にあった。

「イリス」

 アミィが隣で声をかける。

「記録しますか?」

 イリスは端末を見た。

 そして、海へ視線を戻す。

「はい」

 少し間を置く。

「でも、少し後にします」

「後でよいのですか」

「はい」

 イリスは答えた。

「今は、見るための時間です」

 アミィはその言葉を受け取り、海を見た。

「見るための時間」

「はい」

「覚えます」

「私も、覚えます」

 二人は並んで海を見た。

 記録するためではなく。

 命令に残すためでもなく。

 自分が見たかった景色を見るために。


 カイトとユイは、少し離れた場所を歩いていた。

 足元に波が近づき、すぐに引いていく。

 砂浜に残った足跡は、次の波で少しずつ薄くなった。

「ユイは、これからどうする?」

 カイトが尋ねた。

 ユイはすぐには答えなかった。

 海を見たまま、ゆっくり考える。

「まだ、決めきれません」

「ユイとして?」

「はい」

 ユイは頷いた。

「私は、ユイとして生きてきました。けれど、竜奈という名前も、地球で私を待っていた名前です」

 波の音がした。

「羽崎という名前も、クレスケンスという名前も、消せるものではありません」

「うん」

「どれか一つを選んで、他を捨てるのではなく、どれも私の一部として考えたいです」

 カイトは黙って聞いていた。

 急がせるつもりはない。

 答えを決めるために帰ってきたわけではない。

 答えを考えられる場所へ帰ってきたのだ。

「すぐには、答えが出ないと思います」

「急がなくていいよ」

 ユイはカイトを見た。

「カイトは、どの名前で呼びますか」

 カイトは少し考えた。

「ユイが返事をする名前で呼ぶ」

 ユイは目を瞬かせる。

「私が返事をする名前」

「うん。今はユイって呼ぶ。竜奈って呼んでほしい日が来たら、そう呼ぶ。別の名前を選ぶなら、それも覚える」

 カイトは少しだけ笑った。

「名前が増えても、覚えるよ」

 ユイは視線を落とした。

 それは、昨日カイルが言っていた言葉にも少し似ていた。

 名前が二つでも三つでも、返事する相手がいるなら困らない。

 あの言葉を、カイル本人が覚えているかは怪しい。

 けれど、ユイは覚えていた。

「一緒に、考えてくれますか」

「もちろん」

 カイトは答えた。

「そのために帰ってきたんだから」

 ユイは少しだけ笑った。

 大きな約束ではない。

 派手な言葉でもない。

 けれど、十分だった。

「では、まだ決めません」

「うん」

「でも、考えることから逃げません」

「一緒に考えよう」

「はい」

 ユイは海を見た。

 自分がどの名前で生きるのか。

 どの名前に返事をするのか。

 それは、これから決めていく。

 命令ではなく。

 誰かの分類でもなく。

 自分の声で。


 少し離れた場所で、ミオが手を振った。

「カイト、ユイ、こっち!」

 ユイはカイトを見た。

「行きましょう」

「うん」

 二人が戻ると、PT達が海辺に並んでいた。

 ミオが笑う。

「せっかくだから、みんなで見ようよ」

 レイが頷く。

「全員で見る機会は多くない」

 セラは顔を逸らしながら言った。

「別に、並びたいわけじゃないけど」

 ミオがすかさず尋ねる。

「嫌?」

「嫌とは言ってない」

 今度はセラ自身がすぐに口を押さえた。

「……違う。今のは、癖になっただけ」

 ミオが笑う。

「大丈夫。記録しないでって言えば?」

 セラはイリスを見る。

 イリスは端末を持っていなかった。

 セラは少しだけ安心した。

「なら、いい」

 レータがアミィの隣に立つ。

 アミィは波を見ていた。

 イリスも、その隣で海を見ている。

 ユイはミオ、レイ、セラ、レータ、イリスを見た。

 自分達は、ここにそろっている。

 命令によってではない。

 回収されたからでもない。

 生きて、選んで、ここにいる。

 カイトはその少し隣に立った。

 PT達の輪の中に無理に入るのではなく、けれど遠くもない場所に。

 それが、今の距離としてちょうどよかった。


 海を見る時間は、長く続いた。

 誰かが大きな言葉を言ったわけではない。

 勝利宣言もない。

 終戦の号令もない。

 ただ、波が来て、戻っていく。

 ミオは海の向こうを指さし、アミィに何かを説明している。

 レータはそれを補足し、アミィは真剣に頷いている。

 レイは、飛んできた砂浜の帽子を反射的に受け止めていた。

 セラはそれを見て「また」と小さく呟く。

 ナユは波の音を聞き、リンは隣で同じ景色を見ている。

 カナデは少し離れて、その様子を見守っている。

 アルベルト、レオニス、リクトは、地球の空の下で、自分達の後始末を始める準備をしている。

 ジンと黒瀬は、少し離れた施設側で次の手続きについて話している。

 ルクス・ヴァルキュリアは、地球圏で静かに待機している。

 ラスト・オーダーは、別の航路へ戻っていった。

 帝国再編側も、彼らの場所で戦後を始めている。

 帰る場所は、一つではない。

 地球も、一つではなかった。

 けれど、ここにいる者達は、それぞれの地球を選び始めていた。


 イリスは、少し遅れて端末を開いた。

 長い記録にはしなかった。

 数値も、分析も、分類も、今は書かない。

 ただ、自分が見たことを書く。

 海を見た。

 記録映像とは違った。

 波は同じ形を繰り返さない。

 けれど、戻ってくる。

 命令ではない。

 これは、私が見たかった景色。

 イリスはそこで手を止めた。

 少し考え、最後にもう一文を加える。

 これは、彼女達が自分の声で選んだ、地球の記録だった。

 保存。

 端末の表示が静かに灯る。

 イリスは顔を上げた。

 海は、まだそこにあった。

 波は寄せて、戻っていく。

 誰かの命令で戻るのではない。

 自分の形を少しずつ変えながら、それでも何度も、岸へ届く。

 カイトとユイが並んで海を見ている。

 ミオが笑い、レイが静かに立ち、セラが少しだけ離れたふりをしながら隣にいる。

 レータがアミィに何かを教え、アミィはそれを一つずつ覚えている。

 ナユとリンは、遠くの波音に耳を澄ませている。

 命令ではない。

 帰還命令でも、戦闘命令でも、記録命令でもない。

 それぞれが選んだ地球で、彼らの声は続いていく。

 海風が吹いた。

 その風の中で、誰かが笑った。

 それは、記録に残すより先に、ただ聞いていたい声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ