第354話 通常軍の証拠
ドレッドノート級殲滅艦『グラトン』の作戦記録室には、戦闘後とは思えないほど張り詰めた空気が流れていた。
外縁防衛線は、まだ崩れていない。
ルクス・ヴァルキュリアは命令層中枢から離脱し、監察局管理者オルフェンは拘束された。
命令層中枢は停止した。
再同期基盤も隔離された。
だが、それは戦争が終わったという意味ではない。
むしろ、帝国にとっては別の戦いが始まったところだった。
クラウスは複数の記録端末を前に、淡々と作業を進めていた。
戦闘映像。
通信命令。
指揮系統照会。
監察局発令ログ。
通常軍機の損傷記録。
無人機の運用指示。
外部回収線の封鎖記録。
ヘルメス隊から提出された撹乱戦闘データ。
それらを、通常軍の正式記録形式へ変換していく。
記録は、ただ残せばよいものではない。
誰が見ても確認できる形式に整えなければ、証拠にはならない。
まして相手は監察局だ。
記録の不備ひとつで、作戦上の混乱、現場判断の誤差、敵性干渉による誤記録として処理されかねない。
クラウスはそれを理解していた。
「監察局発令コード、照合完了。外縁方面軍の通常指揮系統を経由していません」
記録官が報告する。
クラウスは頷いた。
「発令時刻、受信機体、命令内容を並べろ。監察局が通常軍系統を迂回した事実を分かる形にする」
「了解」
別の端末に、赤い文字列が並ぶ。
『通常兵への過負荷通信命令』
『命令層照合波の防衛転用』
『通常軍機を中継器として使用する指示』
『無人機の盾運用』
『監察局端末保護優先』
『通常軍機損耗許容』
『外縁方面軍指揮権限の一時停止要求』
『責任所在、現場判断へ転嫁』
記録官の一人が、思わず手を止めた。
「……これをそのまま出すのですか」
「そのままではない。照合可能な形に整えて出す」
クラウスは画面から目を離さずに答えた。
「だが、内容は削らない」
その言葉に、記録官は小さく息を呑んだ。
作戦記録室の奥で、レオンは黙って立っていた。
目の前には、エリシオンの戦闘記録が投影されている。
監察局部隊が通常軍機の背後へ回り込み、無人機を盾として配置し、命令層照合波を防衛転用しようとした瞬間。
エリシオンが進路を変え、監察局部隊の前に立つ。
その時の通信が再生された。
『監察局指令。通常軍機は中継器として防衛線維持に協力せよ』
『命令層照合波を受信しろ』
『拒否権限なし』
『通常軍機の損耗は許容範囲内』
『監察局端末保護を優先せよ』
レオンの表情は変わらない。
だが、その場にいる者達は、彼の沈黙が怒りであることを理解していた。
「監察局は、通常軍を兵として扱っていません」
クラウスが言った。
「機材、通信中継器、盾、責任転嫁先。そのいずれかです」
「分かっている」
レオンの声は低かった。
「ルクス・ヴァルキュリアを逃がすために動いたわけではない」
「承知しています」
「ユイを守るためでも、アミィを認めるためでもない」
「はい」
「監察局が、帝国軍の指揮権を踏みにじった。それを記録するだけだ」
クラウスは、わずかに頷いた。
レオンはルクス側の味方ではない。
命令層中枢で何が起きたとしても、彼の立場は帝国通常軍の前線司令官である。
次にルクス・ヴァルキュリアが帝国防衛線へ来るなら、レオンは止めるだろう。
だが、それと監察局の越権を見逃すことは別だった。
帝国軍には帝国軍の指揮系統がある。
戦場に立つ者には、戦場に立つ者の責任がある。
監察局がそれを実験材料のように扱った。
レオンが許せなかったのは、そこだった。
通信窓が開く。
高速巡航母艦『メルクリウス』からだった。
映ったのは、リュカ・ヴァレンだった。
彼はいつものように肩の力が抜けた表情をしていたが、その目だけは笑っていなかった。
『ヘルメス隊の記録、送ったよ。外部回収線妨害時の戦闘映像、監察局端末の遠隔送信ログ、回収機の航路記録、それから、うちの機体を囮扱いしようとした指示もまとめてある』
クラウスは端末を確認する。
「受領した。記録形式はこちらで整える」
『助かるね。こういう堅苦しい書類は苦手でさ』
「君の部隊は、回収線妨害時にかなり危険な位置にいた」
『まあね。監察局の連中、逃げ足だけは速かったよ。ログを持って帰る気満々だった。あれ、止めてなかったら、今頃は都合よく編集された記録が本国に届いてたんじゃない?』
リュカの声は軽い。
だが、言っている内容は重かった。
クラウスは黙って記録を確認する。
確かに、メルクリウスとヘルメス隊は監察局端末の回収線を妨害していた。
その過程で、複数の監察局小型回収機を停止させている。
記録の一部には、監察局側の指示も残っていた。
『観測記録回収を優先』
『通常軍交戦域を迂回』
『損耗発生時は外縁方面軍判断として処理』
『ヘルメス隊を陽動対象として利用可能』
クラウスは、わずかに眉を動かした。
「君達を陽動対象扱いしている」
『見た見た。ひどいよねえ。こっちはちゃんと帝国軍なのに』
リュカは笑った。
だが、その笑いには棘があった。
『まあ、俺達はレオン閣下ほど真面目じゃないけどさ。それでも、監察局の端末を逃がすための捨て駒扱いは面白くない』
「正式記録に入れる」
『よろしく。あと、監察局がこっちのヘルメスの撹乱ログを改竄しようとした痕跡もある。多分、あいつらは自分達が逃げ損ねた理由を、ヘルメス隊の独断行動にするつもりだったんじゃないかな』
その言葉に、記録室の空気がさらに重くなる。
レオンが口を開いた。
「リュカ」
『はいはい、何でしょう』
「提出する記録に私情を入れるな」
『分かってますよ。記録は記録。嫌味は別紙にしときます』
「別紙も不要だ」
『それは残念』
リュカは軽く肩をすくめた。
通信越しの彼は軽薄に見える。
だが、ヘルメス隊が監察局の回収線を止めなければ、オルフェンの欠損ログを監察局側が都合よく補う余地が増えていた。
彼の軽さは、戦場では有効だった。
そして今、その戦闘記録もまた、通常軍が監察局へ突きつける証拠になる。
記録室の扉が開き、通常軍記録官の上級士官が入ってきた。
外縁方面軍だけではなく、中央通常軍記録部門から派遣された士官だった。
彼はレオンへ敬礼する。
「レオン司令。提出予定記録の一次確認に参りました」
「確認しろ」
「本件は、監察局との正面衝突を招く可能性があります」
「すでに衝突している」
レオンは短く答えた。
上級記録官は一瞬だけ言葉を止め、それからクラウスの端末へ目を向けた。
「記録の分類は」
クラウスが答える。
「第一群、通常兵への過負荷通信命令。第二群、命令層照合波の防衛転用。第三群、通常軍機中継器化指示。第四群、無人機盾運用。第五群、監察局端末保護優先による通常軍損耗許容。第六群、責任転嫁ログ。第七群、外部回収線妨害時の監察局送信記録です」
「……多いな」
「削れば、監察局に逃げ道を与えます」
「その通りだ」
レオンが言った。
上級記録官は、慎重に確認を進めた。
戦闘映像、通信記録、発令コード、受信時刻、被害報告、指揮権限照会、通常軍側の拒否記録。
その一つ一つを見ていくうちに、彼の表情も硬くなっていった。
「これは、通常軍への作戦協力要請ではありませんね」
彼は低く言った。
「監察局が通常軍指揮系統を迂回し、現場戦力を自部門の端末として扱った記録です」
「そうだ」
レオンは頷いた。
「だから提出する」
「本国中枢にも届きます」
「そのために整えている」
「監察局は、外縁方面軍の独断行動として処理しようとするでしょう」
「その記録も残せ」
上級記録官は、わずかに目を細める。
「本気で、監察局と争うおつもりですか」
レオンは、すぐには答えなかった。
投影された戦闘記録の中で、通常軍機が照合波の中継器にされかけている。
機体の警告表示。
パイロットの反応遅延。
過負荷による制御乱れ。
無人機が盾として前に出され、その後ろに監察局端末が隠れる。
それは戦場ではない。
少なくとも、レオンが認める戦場ではなかった。
「私は帝国軍人だ」
彼は言った。
「帝国を守るために戦う。敵が来るなら止める。必要なら撃つ。だが、帝国軍の兵を、監察局の観測記録を守るための部品として差し出すつもりはない」
記録官は黙った。
「それを争いと呼ぶなら、そう記録しろ」
その日のうちに、『グラトン』から複数の記録束が通常軍系統へ送られた。
宛先は一つではない。
外縁方面軍本部。
中央通常軍記録部門。
帝国中央軍監査窓口。
レグナリア軍港防衛記録部。
そして、ネメシア本国中枢の照合用保全領域。
監察局単独で握り潰せないよう、複数の通常軍系統へ同時に送る。
それは、クラウスの判断だった。
もちろん、危険はある。
記録が広がれば、監察局は必ず反発する。
通常軍内にも、監察局と深く繋がる部門は存在する。
帝国本国防衛のためには監察局の情報網が必要だと考える者もいる。
すべての通常軍人が、レオンに同調するわけではない。
むしろ、慎重派はこう言うだろう。
命令層中枢が止まった今、監察局と争っている場合ではない。
ルクス・ヴァルキュリアこそが敵ではないのか。
PT達の自己応答保持など、帝国にとって危険な事態ではないのか。
今は内部対立を抑え、本国防衛を優先すべきではないのか。
それも、間違いではない。
だからこそ、記録が必要だった。
感情ではなく、事実として残す。
監察局が何を命じたのか。
通常軍をどう扱ったのか。
どこで指揮権を越えたのか。
誰がそれを止めたのか。
それらを残さなければ、次に同じことが起きた時、誰も止められない。
リュカから追加通信が入ったのは、記録送信の直後だった。
『送った記録、もう監察局側から照会が来てるよ』
クラウスは目を上げる。
「早いな」
『早い早い。こっちの記録は敵性干渉を受けた可能性があるから、監察局で再検証する必要があるんだってさ』
「つまり、渡せと言っているのか」
『そういうこと。もちろん断ったけど』
「理由は」
『ヘルメス隊の戦術ログは高速機動試験隊の内部記録だから、通常軍記録部門経由でないと出せません、って』
クラウスは小さく息を吐いた。
「君にしては正しい対応だ」
『ひどいなあ。俺だってたまには正しい対応するよ』
軽い調子だった。
だが、リュカがすでに監察局からの回収要求を受け、それをかわしたという事実は重い。
監察局は動いている。
自分達に不利な記録が通常軍内へ広がる前に、回収し、再解釈し、封じようとしている。
それが分かっただけでも、記録を送った意味はあった。
夜に近い時間になっても、『グラトン』の作戦記録室の明かりは落ちなかった。
クラウスは最終整理を続けている。
通常軍記録官は、提出用の本文を作成していた。
リュカとヘルメス隊からの追加記録も、順次取り込まれている。
レオンは、投影された記録束を見ていた。
そこには、ルクス・ヴァルキュリアを擁護する言葉はない。
ユイやアミィを認める言葉もない。
監察局そのものを断罪する感情的な文言もない。
あるのは、記録だけだ。
命令。
時刻。
発令者。
受信者。
被害。
拒否。
保全。
封鎖。
提出。
その冷たさが、かえって重かった。
クラウスが口を開く。
「レオン司令」
「何だ」
「この記録は、監察局だけでなく帝国本国中枢にも届きます」
レオンは、しばらく黙っていた。
中枢に届けば、もはや外縁方面軍だけの問題では済まなくなる。
監察局は反発する。
中枢派は混乱を嫌う。
皇帝府は、沈黙してはいられなくなる。
通常軍内部でも、立場が割れる。
それでも、レオンの答えは変わらなかった。
「ならば届かせろ」
クラウスは深く頷き、送信承認を押した。
その瞬間、監察局越権記録は、帝国通常軍の正式記録網へ流れ始めた。
帝国の内側に、もう一つの亀裂が刻まれた。




