第334話 撃たない射撃手
偽の記録の一部が崩れた。
白い中枢空間に浮かんでいた評価文は、完全に消えたわけではない。
Y系列。
M系列。
R系列。
S系列。
L系列。
I系列。
A系列。
帝国が残した記録は、まだそこにある。
けれど、それだけが全てではないと、イリスの記録が示した。
食堂。
整備区画。
医療区画。
観測席。
艦橋。
誰かが失敗した記録。
誰かが自分で歩いた記録。
誰かが撃たなかった記録。
命令ではない記録が、中枢の白い壁に薄く重なっている。
セラは、その中の一つを見ていた。
自分が撃たなかった記録。
それは、ほんの短い記録だった。
だが、帝国の記録とは違った。
そこに命令はなかった。
撃てという指示も、射撃成功率も、照準反応値もなかった。
ただ、撃たなかった自分がいた。
セラはフェンリオン・リサイトの操縦席で、銃のグリップを握り直した。
その時、白い空間の正面に、新たな端末が現れた。
端末は、分かりやすい場所にあった。
隠されてもいない。
守られてもいない。
中枢空間の中央、開いた進路の先に浮かんでいる。
黒い支柱に白い光が絡み、その中心部に赤い再同期反応が脈打っていた。
艦橋に警告が走る。
「前方、再同期補助端末を確認。照合波と連動しています」
三島が続ける。
「破壊すれば、周辺の再同期補助波が一時的に低下する可能性があります」
ジンが目を細める。
「見えすぎているな」
黒瀬も同じ判断だった。
「罠でしょうね」
その言葉とほぼ同時に、セラの照準補助に端末の位置が表示された。
射線は通っている。
距離も悪くない。
防壁の切れ目から、一発で撃てる。
撃てば壊せる。
そう分かる配置だった。
セラの視界に、帝国時代の記録が重なる。
――S系列。
――射撃命令受諾。
――照準反応、良好。
――命令射撃時、躊躇低下。
白い文字が、冷たく浮かぶ。
撃て。
そう言われたわけではない。
だが、端末の配置そのものが、撃てと言っていた。
撃てば早い。
撃てば楽になる。
撃てば役に立つ。
それは、射撃手にとって最も危険な誘導だった。
『セラ、見えてる?』
ナユの声が入った。
ロス・セレネの残響索敵は、防壁の内側から慎重に伸ばされている。
セラは短く答える。
『見えてる』
『撃つ?』
ナユは止めなかった。
ただ、聞いた。
セラは照準を合わせたまま、沈黙した。
撃てる。
撃てば壊せる。
手が、その動きを知っている。
呼吸を止める。
照準を固定する。
引き金を引く。
それだけでいい。
だが、ミオの声が通信に入る。
『待ってください。正面端末の周囲に、支援線の反射があります』
ミオの管制画面には、正面端末を中心に絡み合う細い線が映っていた。
それは端末の防御線ではない。
撃った瞬間に跳ねる、連動式の干渉線だった。
『撃つと、私の支援網の一部が巻き込まれます。ナユさんの残響線も、レータさん達の防壁補助線も近いです』
レータが防壁側から反応する。
『こっちにも来てる。撃たれたら、防壁補助の外側が一瞬歪むかも』
アミィが続けた。
『アミィの支援波も、端末の反応に引っ張られます。正面の端末は、壊せます。でも、壊した瞬間に周囲へ広がると思います』
セラは照準を外さない。
外せないのではない。
外さない。
見続けるために。
撃つためではなく、撃たないと決めるために。
帝国の記録が、もう一度浮かぶ。
――S系列、射撃命令受諾。
セラの指が、引き金の近くで止まる。
オルフェンは観測室で、その反応を見ていた。
対象S。
射撃線確保。
再同期補助端末、破壊可能。
周辺支援線、連動罠内。
射撃衝動、上昇。
命令射撃記録、投影。
オルフェンは静かに記録する。
「対象Sの判断確認。命令射撃評価と現在判断の差分を観測」
彼にとって、これは単なる端末破壊誘導ではない。
セラが、どの条件で撃つのか。
どの条件で撃たないのか。
誰の声で止まるのか。
何を守るために、射撃を保留するのか。
それを測るための配置だった。
「撃てば、支援構造が揺らぐ。撃たなければ、再同期補助波が継続する」
オルフェンは、観測窓の中のセラを見つめる。
「どちらを選びますか。S系列」
セラの中に、昔の感覚が戻りかける。
目標がある。
撃てる。
撃てば役に立つ。
なら、撃つ。
その単純な判断は、かつては楽だった。
迷わなくていい。
考えなくていい。
命令があれば、撃てばよかった。
命令されたから撃つ。
命令されたから外さない。
命令されたから、後のことは考えなくていい。
だが、今は違う。
撃った後に何が壊れるかを、見てしまっている。
ミオの支援線。
ナユの残響線。
レータとアミィの防壁補助線。
カイトとユイの通信線。
そこへ影響が出るかもしれない。
撃てば早い。
でも、早いことが正しいとは限らない。
『セラ』
ナユの声がまた届く。
『今、撃たなくてもいい』
その言葉に、セラの指が少しだけ離れた。
『撃てるのに?』
『うん。撃てるから、待てる』
ナユは静かに言った。
『撃てない人は待つしかない。でも、セラは撃てる。だから、撃つ時を選べる』
セラは息を止めた。
撃てるから、待てる。
その言葉は、帝国の記録にはなかった。
射撃命令受諾。
命令射撃時の躊躇低下。
そこには、撃たない判断の価値など書かれていなかった。
セラは照準を合わせたまま、引き金から指を離した。
『……撃たない』
短い言葉だった。
だが、フェンリオン・リサイトの照準補助が、射撃待機へ切り替わる。
中枢の記録表示が、一瞬だけ乱れた。
――S系列、射撃命令受諾。
その文字の下に、別の反応が重なる。
射撃保留。
本人判断。
セラは撃たなかった。
撃たなかったことで、時間ができた。
ほんの数秒。
だが、ナユには十分だった。
ロス・セレネの残響波が、正面端末の周囲をなぞる。
見えている端末は分かりやすい。
あまりにも分かりやすい。
なら、本命はそこではない。
ナユは、偽物が何を隠しているかを聞く。
正面端末が放つ反応。
そこから伸びる連動線。
ミオの支援網へ触れようとする干渉。
レータ達の防壁補助線へ反射する波。
その全ての奥に、ほんの小さな空洞があった。
音が返らない場所。
いや、返らないように隠されている場所。
『……見つけた』
ナユの声が低くなる。
ミオがすぐに反応する。
『場所をください』
『正面端末の右下。見えている支柱じゃない。その奥、壁面に埋め込まれてる小さい点』
ミオは支援網を細く開く。
『セラさん、射線を作ります。ただし、一瞬だけです』
『了解』
レータが防壁を少しだけずらす。
『こっちも合わせる。アミィ、右下の反応、抑えて』
『はい』
アミィの支援波が、偽端末の反射を押さえる。
ファランクスが盾の角度を変え、リーフガードが通信線を保護する。
カイトは前衛位置を微調整し、セラの射線に入らないよう機体を下げた。
『セラ、撃てる?』
ナユが聞く。
今度は、さきほどとは違う問いだった。
撃てと言っているのではない。
撃つべき一点が見えたかを確認している。
セラは照準を合わせた。
正面端末ではない。
その奥。
壁面に埋め込まれた、小さな本命の端末。
見えにくい。
だが、今なら撃てる。
『撃てる』
セラは答えた。
『撃つ』
フェンリオン・リサイトの狙撃センサーが、低く光る。
セラは呼吸を整えた。
さきほどのような衝動はない。
命令もない。
記録も、照準補助の隅で乱れている。
ただ、撃つべき場所がある。
撃っていい線がある。
撃たないことで見つけた、一点がある。
セラは引き金を引いた。
一発。
それだけだった。
細い射撃光が、防壁の切れ目を抜け、ミオの支援線の隙間を通り、ナユが示した一点を貫いた。
正面端末ではない。
その奥に隠されていた本命の再同期補助中核。
弾けるように、小さな光が砕けた。
次の瞬間、正面に見えていた端末群が連鎖的に沈黙する。
監察局の照合波が、根元から崩れた。
中枢空間に広がっていた射撃誘導表示も消える。
――S系列、射撃命令受諾。
その文字が、一度だけ揺らぎ、薄れていった。
オルフェンの観測室に、警告が表示された。
誘導端末破壊。
偽端末反応停止。
本命中核、被弾。
対象S、命令射撃誘導不成立。
射撃保留後、本人判断により一点射撃。
オルフェンは静かにその結果を見た。
「撃たなかったことで、撃つべき点を特定した」
彼は記録しようとした。
だが、イリスの記録干渉が混ざり、結果表示の一部が揺れる。
対象S。
射撃命令受諾。
その下に、別の記録が入り込む。
撃たなかった記録。
待った記録。
本人判断による射撃。
オルフェンは、わずかに目を細めた。
「……また、命令外記録ですか」
中枢空間では、照合波の一部が大きく崩れていた。
ミオの支援網が安定する。
ナユの残響が澄む。
レータとアミィの防壁補助線も揺れが収まる。
カイトが前方を見ながら言った。
「道が見えた」
レイが刃を構える。
『なら、次はこっちの番か』
リンが続く。
『焦らずに。まだ罠は残っています』
セラは銃口を下ろした。
少しだけ手が震えていた。
だが、それは恐怖だけではなかった。
撃たなかった。
待った。
見つけた。
そして、撃った。
それが、今の自分の射撃だった。
ナユが通信越しに小さく笑った。
『ちゃんと見えたね』
『うん』
セラは短く答えた。
そして、銃口を下ろしたまま、静かに言った。
「撃たなかったから、撃てた」
ナユがもう一度、小さく笑った。




