第322話 医療区画の普通
医療区画は、戦場のすぐ後にだけ使われる場所ではない。
怪我をした時。
倒れた時。
同期反応が乱れた時。
命令層照合波に触れた後。
眠れなかった時。
食べられなかった時。
理由は分からないが、胸の奥が落ち着かない時。
ルクス・ヴァルキュリアの医療区画には、そうした者達が来る。
そこは、壊れた兵器を戦場へ戻すための場所ではない。
戻ってきた者が、もう一度生活へ戻るための場所だった。
レータの転倒事故から、数日が経っていた。
頭部打撲は軽いものだった。
一時的な脳震盪も、後遺症は確認されていない。
だが、モルドは念のため、PT勢の簡易健康診断をまとめて行うことにした。
理由は明確だった。
「レータが何もない床で転倒した。原因は姿勢制御ミスと推定される。だが、命令層中枢突入前に、全員の身体反応と精神負荷を確認しておく必要がある」
モルドは淡々と言った。
医療区画の前で、ナユ、リン、アミィ、レータ、ミオ、セラが並んでいる。
カナデも隣に立ち、心理反応の補助確認を担当していた。
レータは少しだけ不満そうだった。
「私はもう大丈夫」
モルドは即答した。
「大丈夫かどうかを確認するための診察だ」
カナデが小さく笑う。
「それ、私もよく言うわね」
「必要な言葉だ」
モルドは真顔で答える。
アミィは、医療区画の入口をじっと見ていた。
診察。
検査。
反応値確認。
それらの言葉は、アミィにとってまだ少し怖い。
帝国での検査は、戻るための確認ではなかった。
命令へ適合しているか。
応答値が基準内か。
役割に支障がないか。
再調整が必要か。
そういうものだった。
アミィが足を止めると、カナデが気づいた。
「アミィちゃん」
「はい」
「怖い?」
アミィは少し考えてから頷いた。
「はい。少し」
モルドが横から言った。
「怖いなら、先に説明する」
アミィは顔を上げる。
「説明」
「今日の検査は、処理区分を決めるものではない。命令層適合率も測らない。再同期可能性を上げるための調整もしない」
言い方は硬い。
しかし、内容ははっきりしていた。
「目的は、体調、負荷、睡眠、栄養、同期後の残留反応を確認すること。異常があれば、休ませる。薬が必要なら出す。訓練を止める必要があれば止める」
アミィは、ゆっくり聞いていた。
「止めるんですか」
「止める」
モルドは当然のように答えた。
「動かして壊すために診るのではない。壊れないように止めるためにも診る」
アミィは、その言葉を胸の中で繰り返した。
壊れないように止める。
カナデが優しく補う。
「ここで診てもらうのは、評価されるためじゃないわ。戻ってくるためよ」
「戻ってくる」
「ええ。戦闘や記録や命令層の負荷から、生活へ戻ってくるための確認」
アミィは小さく頷いた。
「では、受けます」
モルドは頷く。
「よし。では、ナユから」
ナユは診察台に座った。
モルドは検査端末を接続し、身体反応と残響波装置使用後の負荷を確認していく。
「頭痛は」
「少しあります」
「残響索敵後からか」
「はい。偽残響を多く拾った後、奥の方が重くなります」
モルドは端末を操作する。
「視界の揺れは」
「あります。強い残響を拾うと、少し遅れて見える感じがします」
「睡眠は」
ナユは一瞬だけリンを見る。
リンは黙っている。
ナユは答えた。
「少し短いです」
リンがすぐに言った。
「かなり短い」
ナユが少しだけ目を伏せる。
「比較対象によります」
リンは即答する。
「通常睡眠時間と比較して短い」
モルドは端末に入力した。
「睡眠不足。残響波負荷。短期休息を指示」
ナユが少しだけ不安そうに言う。
「でも、命令層中枢へ向かう前に、ロス・セレネの調整が」
「調整は機体側で進める。お前が寝ない理由にはならない」
モルドの声は淡々としている。
ナユは少し困った顔になる。
カナデが柔らかく言った。
「ナユちゃん、残響を拾う力は大事よ。でも、拾う側が疲れきっていたら、必要なものと不要なものの区別がつかなくなる」
「はい」
「休むのも索敵の準備ね」
ナユは少しだけ頷いた。
「分かりました。休みます」
リンが低く言う。
「見張る」
「リンさんが?」
「ああ」
モルドが頷いた。
「適切だ。リン、ナユの睡眠時間を記録」
「了解」
ナユは少しだけ困ったように笑った。
「監視が増えました」
リンは短く答えた。
「必要だ」
次はリンだった。
彼女は診察台に座っても、背筋を伸ばしたままだった。
すぐ動ける姿勢。
休む場所に来ているのに、まだ護衛中のような雰囲気がある。
モルドはそれを見て言った。
「力を抜け」
「抜いています」
「抜けていない」
リンは黙った。
カナデが少しだけ笑う。
「リンちゃん、肩が上がっているわ」
リンはようやく少しだけ肩を下げた。
モルドは端末を確認する。
「筋肉疲労。反応速度は高いが、常時緊張状態。睡眠中も警戒反応が残っている」
「問題ありません」
「問題だ」
即答だった。
リンは少しだけ眉を動かす。
「護衛役です」
「護衛役でも寝る」
「敵が来たら」
「寝ていない護衛は、敵が来る前に判断を誤る」
リンは返答に詰まった。
モルドは続ける。
「お前はナユを守る役だ。なら、守る側の身体を保て」
言い方は不器用だ。
だが、リンには伝わったらしい。
「……了解」
カナデが補足する。
「リンちゃんが休むことは、ナユちゃんを守ることでもあるわ」
リンは少しだけナユを見る。
ナユは静かに頷いた。
「リンさんが倒れると、私も困ります」
リンは短く息を吐いた。
「分かった。休む」
モルドは端末に入力する。
「リン、休息指示。護衛任務中でも交代制を徹底」
「交代相手は」
モルドは少し考える。
「レイ、またはカイル。状況による」
リンは即答した。
「レイは近すぎる」
カナデが苦笑する。
「そこは調整しましょう」
アミィの番が来た。
彼女はゆっくり診察台に座る。
カナデが隣に立ち、モルドは検査端末を低出力に設定した。
「アミィ、最初に確認する」
「はい」
「嫌なら止める」
アミィはモルドを見る。
「止めて、いいんですか」
「いい」
モルドは当然のように答える。
「診察は、本人の状態を確認するためのものだ。本人が強く拒否して反応が乱れるなら、続ける意味がない。必要なら方法を変える」
アミィは少しだけ驚いた顔をする。
「方法を変える」
「そうだ」
カナデが優しく言う。
「帝国の検査は、検査にあなたを合わせようとしたかもしれない。でも、ここではあなたに合わせて検査を変えるの」
アミィは、胸に手を当てた。
「検査が、私に合わせる」
「ええ」
モルドは端末を見ながら言う。
「接続なしでできる範囲から始める。脈拍、体温、睡眠、食事、言語反応。命令層関連はカナデ立ち会いで、必要最小限」
「はい」
検査は静かに進んだ。
アミィの体温は安定。
脈拍はやや高い。
睡眠は浅いが、以前よりは改善。
食事量も少し増えている。
自己応答は不安定ながら、短い言葉だけでなく、理由を添えた返答が増えている。
モルドは端末を確認した。
「回復傾向」
アミィが顔を上げる。
「回復」
「そうだ。まだ不安定だが、悪化ではない」
「悪化ではない」
「食事量、睡眠時間、自己申告、言語反応。全て少しずつ改善している」
アミィは、少しだけ表情を緩めた。
「少しずつ」
カナデが微笑む。
「ええ。少しずつでいいの」
モルドは淡々と続ける。
「ただし、命令層中枢へ入る前に、負荷が増える可能性が高い。無理をすれば戻るどころか崩れる。したがって、アミィには休息時間を追加する」
アミィは少し慌てた。
「でも、私もヴァルクレイド・セレスで」
「休め」
モルドは短く言った。
アミィは固まる。
カナデが苦笑する。
「モルド、言い方」
「必要な指示だ」
「そうだけど」
アミィは、少し戸惑いながらも頷いた。
「休むことも、返事を守ること」
カナデが頷く。
「そう」
モルドも端末に入力する。
「理解できているならよい」
アミィは診察台から降りる前に、小さく尋ねた。
「モルドさん」
「何だ」
「診てもらうことは、処理ではないんですね」
モルドは端末から顔を上げた。
「違う」
その返答は短かった。
だが、迷いはなかった。
「処理なら、本人の状態など聞かない。診察は、戻すために状態を見る」
「戦場へ戻すためですか」
アミィの問いに、医療区画が少し静かになる。
モルドは一度だけ瞬きをした。
そして、淡々と答えた。
「違う」
アミィは顔を上げる。
「生活へ戻すためだ」
その言葉に、カナデが少しだけ目を細めた。
モルドは続ける。
「戦えるかどうかは、その後の話だ。食べられるか。眠れるか。話せるか。怖いと言えるか。痛いと言えるか。まずそこへ戻る」
アミィは黙って聞いていた。
「戦場へ戻すだけなら、薬で動かせばいい。だが、それは治療ではない」
モルドの声は変わらない。
「ここは、壊れた者を戦場へ戻す場所ではない。戻ってきた者を、生活へ戻す場所だ」
アミィの目が揺れた。
「生活へ……」
カナデが静かに頷く。
「そうよ。モルドは言い方が少し硬いけど、そういう人なの」
モルドは少しだけ眉を動かす。
「硬いか」
「硬いわ」
ナユが小さく言う。
「少し」
リンも短く言った。
「かなり」
モルドはしばらく沈黙した。
「改善を検討する」
カナデが笑った。
「そこも硬いのよ」
診察の途中で、アイナが医療区画へやって来た。
手には小さな保温容器を持っている。
「診察後の軽食、持ってきたわ」
モルドが顔を向ける。
「まだ診察中だ」
「だから診察後用よ。終わった人から食べられるように」
アイナは慣れた様子で台の上に容器を置く。
「ナユには温かいスープ。リンには消化のいい補給食。アミィには甘すぎない飲み物。レータには……転ばないように座って食べるもの」
レータが少しだけ顔を上げる。
「私は転倒対策込み?」
「もちろん」
アミィが小さく笑った。
モルドは容器の中身を確認する。
「栄養配分は悪くない」
アイナは胸を張る。
「でしょう?」
「ただし、リンの補給食は塩分が少し高い」
「動いてるから必要かと思って」
「今日から休息指示を出した」
「じゃあ少し薄めるわ」
アイナはすぐに容器を取り替えようとする。
モルドはそれを見て、少しだけ頷いた。
「対応が早い」
「食べるものは大事だから」
アイナはそう言って、アミィへ温かい飲み物を渡した。
「はい。診察後に飲んでね」
アミィは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。診てもらった後は、温かいものを飲むと少し落ち着くの」
アミィは容器を見つめる。
「診察後の、普通」
アイナは微笑む。
「そう。普通」
医療区画の隅で、ナユがスープを飲んでいた。
リンは隣で補給食を手にしている。
アミィは温かい飲み物を少しずつ飲んでいる。
レータは、座ったまま、アイナが持ってきた軽食を真面目に食べている。
カナデはその光景を見て、少しだけ安堵したように息を吐いた。
モルドは端末に記録を入力している。
カナデが横から覗き込む。
「何て書いているの?」
「診察結果。全員、戦闘継続は可能。ただし、休息、睡眠、食事、心理負荷軽減が必要」
「それだけ?」
「他に何が必要だ」
カナデは少し考え、言った。
「診察後、全員が温かいものを摂取。会話あり。笑いも少しあり。医療区画への恐怖反応が低下」
モルドは少しだけ考えた。
「それは医療記録か」
「医療記録よ」
カナデは穏やかに言う。
「ここが怖い場所じゃないと分かるのは、次に戻ってくるために大事でしょう?」
モルドは黙った。
数秒後、端末に追記した。
診察後、対象者に温かい軽食を提供。
会話あり。
対象A、医療区画への恐怖反応が一部低下。
診察を処理ではなく、生活へ戻るための確認として理解しつつある。
カナデは満足そうに頷いた。
「いい記録」
モルドは淡々と言った。
「必要な記録だ」
「黒瀬さんみたい」
「不本意だ」
近くにいたアイナが笑った。
アミィは、温かい飲み物を飲み終えた後、モルドのところへ歩いてきた。
「モルドさん」
「何だ」
「診察は、また受けます」
モルドは少しだけ意外そうに顔を上げた。
「必要なら受けてもらう」
「はい。でも、必要な時は、自分でも言います」
カナデが静かに見守る。
アミィは、自分の胸に手を当てた。
「怖い時、眠れない時、身体が重い時。そういう時は、ここへ来てもいいんですね」
「来ていい」
モルドは答えた。
「症状が小さい時に来た方がいい」
「小さい時に」
「大きくなってからでは、戻るのに時間がかかる」
アミィは少しだけ頷いた。
「分かりました」
そして、少し迷ってから言った。
「ありがとうございます」
モルドは一瞬だけ返答に困ったように見えた。
それから、短く答える。
「どういたしまして」
カナデが少しだけ目を丸くする。
「今の返し、柔らかかったわね」
モルドは端末に目を落とした。
「改善を試行した」
アイナが笑う。
「やっぱり硬いわね」
診察が終わった後、医療区画は少しだけ静かになった。
ナユは休息指示を受け、リンに付き添われて居住区画へ戻る。
レータはアミィに通路を見てもらいながら歩く。
ミオは支援網調整の前に、短い休憩を取ることになった。
セラは次の診察枠に呼ばれる予定で、少し不満そうに待っている。
モルドは、最後の記録をまとめた。
PT勢簡易健康診断。
命令層中枢突入前の基礎状態確認。
身体反応、概ね安定。
負荷残留、多数。
睡眠不足、緊張過多、残響疲労、自己応答不安定あり。
対策。
休息。
食事。
交代制。
心理補助。
医療区画への自発的来訪推奨。
彼はそこで少し手を止めた。
そして、備考欄へ追記する。
医療区画は、戦場復帰のためだけの場所ではない。
生活へ戻るための確認場所として機能させる。
カナデがそれを見て、何も言わずに微笑んだ。
その夜。
アミィは保護区画へ戻った後、レータと並んで座っていた。
「レータさん」
「うん」
「医療区画は、怖い場所ではありませんでした」
「よかった」
「モルドさんは、少し怖いです」
レータは真面目に頷いた。
「言い方が硬い」
「はい」
「でも、診てくれる」
「はい」
アミィは、手元の空になった容器を見た。
「診察の後、温かいものを飲みました」
「うん」
「それが、普通なんですね」
レータは少しだけ考えた。
「たぶん」
「普通は、知らないことが多いです」
「私も知らないことがある」
「厨房には入れません」
「うん」
「通路では転びます」
「低頻度」
アミィは少しだけ笑った。
「診察も、受けます」
「必要」
「はい。必要です」
二人は静かに座っていた。
命令層中枢へ進めば、また怖いものを見る。
戻されるような声が聞こえるかもしれない。
返事を奪おうとする仕組みに触れるかもしれない。
それでも、戻ってくる場所が少しずつ増えている。
食堂。
整備区画。
観測席。
そして、医療区画。
アミィは、小さく呟いた。
「怖くなったら、戻る場所があります」
レータは頷く。
「うん」
「その時は、呼びます」
「私も呼ぶ」
医療区画の灯りは、夜になっても完全には消えない。
誰かが急に倒れた時。
誰かが眠れなくなった時。
誰かが痛いと言えた時。
誰かが怖いと言えた時。
そこは開いている。
モルドは淡々としている。
言い方は硬い。
優しい言葉を選ぶのは得意ではない。
けれど、彼は診る。
壊れた者を戦場へ戻すためではなく。
戻ってきた者を、生活へ帰すために。
カナデはその横で、心の揺れを言葉にする。
アイナは温かいものを持ってくる。
ナユは休むことを覚える。
リンは守るために寝ることを覚える。
アミィは、診察が処理ではないと知る。
命令層中枢へ向かう前に、ルクス・ヴァルキュリアにはまた一つ、戻る場所が増えた。
医療区画の普通。
それは、帝国の記録にはなかった種類の普通だった。




