第188話 ノクス・レクイエム
ノクス・レクイエム初期型の初起動試験は、ルクス・ヴァルキュリアの巨大格納区画で行われることになった。
統合準備区画では狭すぎる。
機体が初めて動くなら、緊急停止用の空間が必要になる。
万一レクイエム・ベントが反応した場合、排出方向を逃がす余裕も必要だった。
そのため、ノクス・レクイエムは統合準備区画からノア・ドック隣接の試験区画へ移された。
黒を基調にした重い外装。
紫の細いライン。
胸部奥に収められた空の主制御核。
背部中央に搭載されたレクイエム・ベント初期型。
ネメシス・レクイエムの残骸を受け継ぎながら、帝国式命令系統から切り離されるために組み直された機体。
その姿は、もう残骸ではなかった。
まだ完全ではない。
全出力も使えない。
レクイエム・アンカーも未完成。
長時間戦闘も許可されていない。
だが、それでも一機の機体として、そこに立っていた。
ノクス・レクイエム。
ユイの新しい機体。
試験区画の管制室には、主要メンバーが揃っていた。
ジン、カイト、カナデ、リクト、アシュ、リン、三島、グリッド、イリス。
クロウヴェイル・ノアからはカイルが通信参加している。
セラ、ミオ、レイも待機席にいた。
今日の試験は、ただの技術試験ではない。
ユイの過去と、未来の境界を越える試験でもあった。
三島が試験条件を読み上げる。
「ノクス・レクイエム初期型、初起動試験。目的は、主制御核の本人意思初期化、基本姿勢制御、レクイエム・ベント待機状態の確認です」
画面に禁止項目が並ぶ。
「全出力運用は禁止。レクイエム級反応の高出力化は禁止。レクイエム・アンカー未搭載。長時間稼働禁止。帝国式認証網への接続禁止。ノクス・リリス旧データの主制御直結禁止。試験時間は最大五分。本人申告、精神負荷、命令層反応、機体負荷のいずれかが危険域に入った場合、即時中断します」
グリッドが続ける。
「物理拘束フレーム、待機。脚部固定、半保持。暴走時は両肩、腰部、背部ベント基部を外部拘束する」
アシュが遮断層を確認する。
「命令層遮断、三重。旧データ参照線、初期状態では閉鎖。必要時のみ輪郭参照」
リンは端末を見たまま言った。
「ノクス・リリス旧データ、微弱反応あり。命令層は浅い。主制御核を探してる」
カナデがユイを見る。
「ユイさん。今の状態は?」
ユイは試験服に着替え、管制室の中央に立っていた。
操縦席へ向かう前の最終確認。
彼女の顔色は悪くない。
けれど、緊張は確かにある。
「怖いです」
ユイは正直に答えた。
「でも、行けます」
カナデは頷いた。
「怖いと言えています。良い状態です」
カイトはユイの隣に立っていた。
彼もまた、何かを言うべきか迷っていた。
大丈夫、と言うのは簡単だ。
でも、簡単に言うべきではない気がした。
だから、彼は少しだけ考えてから言った。
「戻ってこいよ」
ユイはカイトを見る。
「はい」
「成功してもしなくても、戻ってこい」
「……はい」
ユイは小さく笑った。
「それが一番大事ですね」
「ああ」
カナデも静かに頷いた。
「では、行きましょう」
試験区画へ続く通路が開く。
ユイは一歩ずつ、ノクス・レクイエムへ近づいた。
機体は無言で立っている。
黒い装甲の奥に、まだ空の主制御核を抱えたまま。
胸部ハッチが開く。
操縦席は、ノクス・リリス旧機体の構造を参考にしている。
ただし、そのままではない。
帝国式命令認証は取り除かれ、ルクス側の本人意思認証装置と、カナデが調整した精神負荷監視系が組み込まれている。
ユイは操縦席の前で一度立ち止まった。
そこには、過去の気配がある。
ノクス・リリスの記憶。
帝国の命令。
クレスケンスとしての識別名。
だが、それらは操縦席の中にはない。
外に置かれている。
見える場所に隔離されている。
必要な時だけ参照するものとして。
ユイは小さく息を吸った。
「これは、私を動かすものじゃない」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
「私が、止めるために見るもの」
そして、操縦席に入った。
ハッチが閉じる。
管制室のモニターに、ユイの生命反応と精神負荷波形が表示される。
カナデが確認する。
「精神負荷、軽度上昇。危険域ではありません」
リクトが言う。
「主制御核、初期化準備」
イリスが記録系を起動する。
「主記録、本人申告記録、隔離記録、監査記録、分離保存を開始」
アシュが低く言う。
「旧データ参照線、閉鎖維持」
リンが続ける。
「命令層、浅い反応。まだ入ってない」
ジンが静かに命じた。
「ノクス・レクイエム初期型、初起動試験を開始する」
リクトが操作する。
「主制御核、起動」
ノクス・レクイエムの胸部奥に、微かな光が灯った。
最初は弱い。
白でも紫でもない、薄い灰色の光。
空だった核が、ユイ本人意思認証を受け取り始める。
操縦席の中で、ユイは目を閉じていた。
声が聞こえるわけではない。
命令が流れ込むわけでもない。
ただ、空白がある。
そこに、自分の意思を置いていいのかと、問われているような感覚があった。
ユイはゆっくりと言った。
「私は、ユイです」
管制室の全員が、その声を聞いた。
「竜奈だった時間もあります。クレスケンスと呼ばれた記録もあります。ノクス・リリスに乗っていた過去もあります」
主制御核の光が、わずかに揺れる。
リンが短く報告する。
「旧データ、反応」
アシュが構える。
「命令層か」
「浅い。まだ隔離内」
ユイは続けた。
「でも、今ここでこの機体を動かすのは、今の私です」
その瞬間、主制御核の光が安定した。
灰色の光に、淡い白銀が混じる。
ハーモニア式負荷分散層が、機体内部をゆっくり流れ始めた。
リクトが報告する。
「本人意思認証、受理。主制御核、初期化開始」
カナデが見る。
「精神負荷、上昇。中度未満。まだ安定しています」
ユイの手元に操縦系が立ち上がる。
だが、まだ動かさない。
まずは呼吸を合わせるだけ。
機体と自分の距離を測る。
ノクス・レクイエムは、重い。
アルタイル・ノヴァのような軽快さはない。
ノクス・リリスのような、身体に絡みつくような馴染み方でもない。
外殻は重く、力は深い。
だが、その奥に、逃げ道がある。
レクイエム・ベントの流路。
危険なら外へ逃がすための道。
ユイはそれを感じ取った。
「ベントが、見えます」
リクトが反応する。
「ベント待機流路、認識されています」
アシュが確認する。
「命令層は」
リンが答える。
「出てる。でも、主制御には入ってない。外側を探してる」
ユイはその反応を感じた。
ノクス・リリス旧データの奥から、何かが近づこうとしている。
それは声ではない。
命令になる前の癖。
繋がる場所を探す古い仕組み。
ユイは息を吐く。
「見えています」
カナデがすぐに言う。
「ユイさん、状態は?」
「怖いです。でも、見えています」
「止めますか?」
「まだ、止めません。ただし、入れません」
アシュが低く言った。
「いい判断だ」
リクトが旧データ参照線をさらに絞る。
「隔離層を維持。輪郭参照のみ」
イリスが記録する。
「旧データ反応、主制御外側で隔離。本人が反応を認識」
三島が続ける。
「本人申告、怖いが見えている。試験継続可能」
ジンが命じる。
「第一姿勢制御へ進め」
グリッドが注意を飛ばす。
「脚部固定フレーム、半保持のまま。転倒させるなよ」
ノクス・レクイエムの内部で、脚部制御が立ち上がる。
重い機体が、わずかに振動した。
格納区画の床に固定された拘束フレームが、低く唸る。
ユイは操縦桿に手を置く。
ノクス・リリス旧データの癖が、姿勢制御の端に浮かぶ。
だが、それは直接動かすものではない。
参考資料。
過去の癖。
今の自分が選ぶための輪郭。
ユイはそれを見ながら、ゆっくりと機体の姿勢を整えた。
黒い巨体が、ほんのわずかに身じろぎする。
膝部の固定が一段緩む。
背部ベント基部に淡い光が走る。
管制室に緊張が走った。
リンが報告する。
「命令層反応、少し上昇」
アシュが即座に言う。
「隔離」
リクトが操作する。
「レクイエム・ベント、待機流路へ微量排出」
背部ベント基部の外側に、細い光が流れた。
危険な出力ではない。
命令層反応に引きずられた微弱な負荷を、外へ逃がすための排出だった。
ユイはその感覚をはっきり捉えた。
「逃がせます」
カナデが確認する。
「負荷は?」
「少し軽くなりました」
リクトが報告する。
「レクイエム・ベント、低出力待機排出成功。主制御への逆流なし」
グリッドが息を吐く。
「背部基部、異常なし」
三島が記録する。
「ベント初期動作、低出力排出に限定して成功。全開排出ではない」
ジンが頷く。
「第二姿勢制御へ」
ノクス・レクイエムの上体がわずかに起きる。
肩部外装が開き、内部の負荷分散層が淡く光る。
そこに、ネメシス・レクイエムの重さと、ノクス・リリスの癖と、ルクス側の制御が重なる。
だが、混ざりきらない。
それぞれが別の層に置かれている。
ユイは、その距離を感じていた。
「これは、ノクス・リリスじゃありません」
彼女は静かに言った。
「ネメシス・レクイエムでもありません」
主制御核の光が、少し強くなる。
「ノクス・レクイエムです」
その瞬間、機体の頭部センサーが点灯した。
金ではない。
赤でもない。
薄い紫と白銀が混じった、静かな光。
管制室の全員が、その光を見た。
ユイの機体が、初めて目を開いた。
カイトは無意識に拳を握っていた。
ミオが小さく息を呑む。
セラはじっと画面を見つめている。
レイは腕を組んだまま、わずかに頷いた。
カイルが通信越しに言う。
『起きたな』
グリッドが短く答える。
「まだ立っただけだ」
『それでも起きた』
誰も、その言葉を否定しなかった。
リクトが数値を確認する。
「主制御核、安定。本人意思認証、維持。旧データ反応は隔離内。命令層、低下傾向」
カナデが続ける。
「精神負荷、中度手前で安定。上昇は止まっています」
アシュが言う。
「長く続けるな」
ジンが頷く。
「予定通り、五分を待たずに終了する。ユイ、聞こえるか」
操縦席の中で、ユイは答えた。
「はい」
「初回起動は成功だ。ただし、ここで止める」
ユイは少しだけ名残惜しさを感じた。
機体はまだ動ける。
もう少し、感覚を確かめたい気持ちもある。
だが、今は止めるべきだと分かる。
ここで止められることが、ノクス・レクイエムの最初の成功なのだ。
「分かりました」
ユイは操縦桿から手を離す。
「ノクス・レクイエム、停止します」
主制御核の光が少しずつ弱まる。
レクイエム・ベントの待機流路が閉じる。
旧データ参照線が完全に遮断される。
頭部センサーの光が、静かに落ちた。
ノクス・レクイエムは再び眠る。
だが、それはもう残骸の眠りではなかった。
起きて、動き、止まった機体としての眠りだった。
リクトが深く息を吐く。
「初起動、成功」
グリッドが肩を落とす。
「制限付き、だがな」
三島が記録する。
「ノクス・レクイエム初期型、初起動試験成功。ただし、稼働時間は短時間。出力は低出力域。レクイエム・ベントは待機排出のみ。全出力運用不可。実戦投入は限定条件付き評価へ移行」
アシュが短く言った。
「成功しすぎていない。いい結果だ」
リンも頷く。
「命令層はまだいる。でも、入れなかった」
カナデはユイの波形を見て、柔らかく息を吐いた。
「ユイさん、戻ってこられます」
ハッチが開く。
ユイは少しゆっくりと操縦席から降りた。
足取りは確かだ。
ただ、疲れはある。
カイトが近づく。
「ユイ」
ユイは彼を見る。
そして、小さく笑った。
「戻ってきました」
カイトは、思わず笑った。
「ああ。おかえり」
その言葉に、ユイの表情が少しだけ崩れた。
泣いてはいない。
だが、胸の奥に何かが込み上げたような顔だった。
カナデがすぐに近づき、センサーを確認する。
「精神負荷は下降中。大丈夫です。ただし、今日はこれ以上の試験は禁止です」
「はい」
ユイは素直に答えた。
「今日は、もう十分です」
グリッドが整備班に指示を出す。
「機体を固定。主制御核は待機状態へ。旧データ参照線は完全遮断。ベント基部の残留反応を確認しろ」
リクトがデータを保存する。
「初起動ログは分離保存。主記録と監査記録を照合。非固定保存方式は維持」
イリスが頷く。
「記録保存完了。初起動時の本人申告も保持します」
三島が監査記録を締める。
「ノクス・レクイエム初期型は、制限付き完成機として扱います」
その言葉が、試験区画に静かに響いた。
制限付き完成機。
ようやく、ノクス・レクイエムは機体として認められた。
完全ではない。
危険も残る。
命令層も消えていない。
だが、初めて起動し、ユイの意思で止まった。
それだけで、今は十分だった。
ジンが通信越しに言った。
『ユイ、よくやった』
ユイは姿勢を正す。
「ありがとうございます」
『ノクス・レクイエム初期型は、今後、限定運用機として調整を続ける。全出力は禁止。実戦投入は、さらに確認を行ってからだ』
「はい」
『だが、今日の結果をもって、君の機体として登録する』
ユイは一瞬、言葉を失った。
カイトも、周囲の者達も、その意味を理解した。
ノクス・レクイエムは、ネメシス・レクイエムの残骸ではない。
ノクス・リリスの延長でもない。
帝国の機体でもない。
ユイの機体として、ルクスに登録される。
ユイはゆっくりと振り返り、眠る機体を見上げた。
「私の機体……」
その声は小さかった。
だが、確かだった。
カイトは隣に立つ。
「ようやく、だな」
「はい」
「長かった」
「長かったです」
二人は同時に言って、少しだけ笑った。
ユイはノクス・レクイエムを見つめる。
「まだ怖いです」
「うん」
「でも、もう帝国の機体とは思いません」
彼女は胸元に手を当てた。
「これは、私が止められる機体です」
カイトは頷いた。
「ああ」
試験区画の照明が、通常状態へ戻る。
ノクス・レクイエムは静かに固定されている。
その姿はまだ未完成の余地を残している。
背部ベントも、主制御核も、外殻の一部も、まだ調整が必要だ。
全ての力を使えるわけではない。
だが、初期型として起動し、停止し、ユイの機体として登録された。
それは、長く続いた準備の終わりであり、新しい段階の始まりだった。
遠くの帝国が、この反応をいつ捉えるかは分からない。
エルマがこれをどう見るかも分からない。
ヴァイスがもし戻った時、何を思うかも分からない。
だが、今この瞬間だけは、ルクス・ヴァルキュリアの中に一つの確かな結果があった。
ノクス・レクイエム初期型、初起動成功。
ただし、制限付き。
それでも、ユイは戻ってきた。
機体もまた、彼女の意思で止まった。
それが、ノクス・レクイエム最初の勝利だった。




