第111話 まだ緑の地球
第七記憶樹区画の侵食は、止まった。
完全に消えたわけではない。
黒く変色した葉は、まだ枝に残っている。
根の一部には、赤黒い筋が薄く走っている。
記憶樹の表面には、侵食核が食い込んでいた痕が残り、周囲の樹皮は焦げたように黒ずんでいた。
それでも、広がってはいなかった。
侵食核は都市中枢から切り離され、封鎖状態に置かれている。
生体都市ネットワークの一部はまだ不安定で、住民達は避難区画に留められたままだ。
根系搬送路も完全復旧していない。
記憶層の一部には、改ざんされた記録の残滓が残っている。
だが、都市は住民を拒まなくなった。
避難経路は正常化しつつあり、住民認証も少しずつ回復している。
ヴェルデは、まだ傷ついている。
けれど、デッドエンドとは違った。
まだ、間に合った。
緑が残っているということは、まだ選べる余地があるということだった。
調査隊は、第七記憶樹区画の外縁部へ戻っていた。
ヴェリナは、簡易医療椅子に座っている。
顔色は悪く、指先にはまだ薄い赤黒い痕が残っていた。
都市中枢への深層接続は、彼女自身にも大きな負荷を残していた。
モルドが端末を片手に、彼女の状態を確認する。
「神経負荷、大。生体通信系に逆流痕あり。しばらく接続禁止」
ヴェリナは静かに答えた。
「分かっています」
「分かってない人ほどそう言う」
「必要でした」
「必要でも、身体は壊れる」
モルドの言い方は淡々としている。
だが、それは責めているわけではなかった。
医療担当として、当然のことを言っているだけだった。
カナデも横から言う。
「しばらくは休んでください。都市のことを心配するのは分かりますけど、あなたが倒れたら調律できる人が減ります」
ヴェリナは少しだけ目を伏せた。
「……はい」
カイトは、その様子を見て少し安心した。
ヴェリナは強い人だ。
だが、万能ではない。
都市とつながれるからこそ、都市の痛みも受けてしまう。
それは、どこかユイ達PTにも似ている気がした。
イリスとレータは、侵食核の解析結果をまとめていた。
黒い核は封鎖容器に収められ、第七記憶樹区画から切り離されている。
破壊はしていない。
破壊すれば情報が失われる。
何より、核の内部には、デッドエンドのヘスティア信号を増幅していた旧帝国系コードと同じ思想で改変された署名が残されていた。
旧帝国コードそのものではない。
だが、支配と上書きを前提にした構造は酷似していた。
イリスが報告する。
「侵食核の活動は停止。都市中枢との接続は遮断されました」
レータが続ける。
「ただし、侵食核そのものは完全無害化されていません。再接続、または外部からの再起動が行われた場合、再侵食の可能性があります」
三島は端末に記録する。
《アース・ヴェルデ、第七記憶樹区画における侵食核封鎖に成功》
《生体都市ネットワークの一部は損傷》
《侵食拡大は停止》
《完全復旧には至らず》
彼女は、少しだけ息を吐いた。
成功。
そう書くことには迷いがあった。
被害は出た。
都市は傷ついた。
ヴェリナも消耗した。
完全解決ではない。
それでも、デッドエンドとは違う。
今回は、壊れた後の記録を拾ったのではない。
壊れる前に、止めた。
三島は、ゆっくりと次の一文を入力した。
《今回は、間に合った》
その短い一文を見て、彼女はしばらく指を止めた。
楽観してはいけない。
そう思い、さらに続ける。
《ただし、侵食核の技術署名は、アース・デッドエンドにおけるヘスティア信号再送痕と類似》
《同一勢力、または同一技術体系による継続的介入の疑いあり》
《今後、複数の地球への干渉を想定した監視が必要》
記録は、希望だけではいけない。
警戒も残さなければならない。
それが、今の三島の役割だった。
見たものを軽くしないことも、監査の一部だった。
第七樹冠港では、避難していた住民達が少しずつ戻り始めていた。
ただし、北方樹冠都市の一部はまだ封鎖されたままだ。
黒化した枝は切り離されておらず、隔離処置の下で経過観察に入っている。
都市はすぐには元に戻らない。
だが、閉じ込められたままではなかった。
自分達の街へ戻ろうとする住民達を、根系搬送路が正しい方向へ案内している。
拒絶ではなく、誘導。
排除ではなく、保護。
その違いが戻り始めている。
カイトは、第七樹冠港の展望通路からその様子を見ていた。
隣にはユイがいる。
遠くの樹冠都市では、黒く変色した一角がまだ見える。
緑の中に残った黒い傷。
それは、今回の事件が完全には終わっていないことを示していた。
「止められたんだよな」
カイトが言う。
ユイは少し考えてから答えた。
「はい。少なくとも、広がる前に封じることはできました」
「デッドエンドとは違う」
「はい」
ユイの声は静かだった。
だが、そこには重みがあった。
「デッドエンドでは、力が使われた後の世界を見ました。止められなかった結果を見ました」
彼女は黒く染まった樹冠を見つめる。
「ヴェルデでは、まだ止められました」
「だから、力の使い方が大事になる」
「はい」
ユイは小さく頷いた。
「壊す力ではなく、止めるための力。けれど、その境界はいつも薄いです」
カイトは、その言葉を黙って受け止めた。
侵食核を壊せば早かったかもしれない。
だが、都市まで傷つけていたかもしれない。
レクイエムも同じだ。
ノクス・レクイエムも、もし使うことになれば、守る力にも、壊す力にもなり得る。
境界は薄い。
だから、一人で決めてはいけない。
止める人が必要になる。
カイトは静かに言った。
「その時は、一緒に考える」
ユイは少しだけ彼を見た。
「はい」
そして、わずかに表情を緩めた。
「お願いします」
外縁港のドックでは、レガロンが補給リストを確認していた。
クロウヴェイル・ノアには、応急物資と交換部品が積み込まれている。
ルクス・ヴァルキュリアには、軌道上で受け渡し可能な補給コンテナが送られる予定だった。
レガロンは、リストを見ながらカイルへ言う。
「燃料、浄化材、医療用溶液、補修樹脂。最低限は揃えた」
「助かる」
「礼なら港に言え。俺は顔を使っただけだ」
「顔を使える奴がいるだけで助かるんだよ」
レガロンは鼻を鳴らした。
「次に来る時は、もっと小さい艦で来い。港がざわつく」
カイルは肩をすくめる。
「ルクスは俺の艦じゃない」
「知ってる。だが、お前が連れてきた」
「成り行きだ」
「お前の成り行きは、大体ろくでもない」
グリッドが横から笑う。
「否定できねえな」
カイルは何も言い返せなかった。
少し離れたところでは、モルドが検査端末を片手に待っている。
戻ってきた調査隊を順番に呼び止めていた。
「全員、生きて帰っただけでも上出来」
モルドは淡々と言う。
「でも検査は続行。逃げたら麻酔」
ナユは即座に検査台へ向かった。
「逃亡なし」
リンも渋々続く。
「麻酔は避ける」
モルドは頷いた。
「賢い」
カイトは苦笑した。
「俺もですか?」
「当然」
「ですよね」
モルドは端末を見ながら続ける。
「ヒュドラ系汚染、ヴェルデ侵食核由来ノイズ、PT神経負荷、都市生体通信への過剰同調。全部見る」
カナデが補足する。
「今回は精神負荷も大きかったですから。特にヴェリナさん、ナユさん、リンさん、ユイさん、イリスさんは確認します」
イリスは少しだけ首を傾げた。
「私は記録を継続できます」
モルドは即答した。
「記録できることと、負荷がないことは別」
「……了解しました」
イリスは素直に頷いた。
重い事件の後だった。
だが、こうした会話があることで、艦内の空気が少しだけ日常へ戻っていく。
その後、ヴェリナから正式な技術提供の申し出があった。
場所は第七樹冠港の中枢会議室。
ジン艦長、カイル、三島、レータ、ユイ、イリス、ミオ、レガロン、モルドが同席している。
ヴェリナはまだ疲労が残る顔で、二つの資料を提示した。
一つは、環境循環ブロック。
もう一つは、ヴェルデ式自己修復植物材。
ジン艦長が資料を見る。
「技術提供、ですか」
「はい」
ヴェリナは頷いた。
「ただし、謝礼ではありません」
彼女は静かに続けた。
「同じ侵食が、他の地球にも広がる可能性があります。あなた達が複数の地球を移動するなら、環境を守る技術も一緒に運んでください」
三島がすぐに反応した。
「技術提供は、地球側への報告対象です。無断移植や軍事転用が疑われれば、監査対象になります」
「当然です」
ヴェリナは淡々と答えた。
「無断移植は認めません。都市が許した範囲だけです。提供するのは、制御された試験区画と、増殖制限をかけた植物材です」
レータが資料を確認する。
「環境循環ブロックは、空気、水、有機廃棄物の再循環、簡易食料生産、心理安定効果を持つ居住環境補助設備ですね」
ミオが興味深そうに画面を見る。
「ルクスの居住区や医療区に向いています。特にデッドエンド救出者の療養環境には有用です」
モルドも頷いた。
「医療的には有用。閉鎖艦内で長期療養させるより、安定した循環環境があった方がいい」
少し間を置き、いつもの調子で付け足す。
「問題は、艦内で森を育てる趣味があるかどうか」
レガロンが笑う。
「ルクスなら場所はあるだろ。あの馬鹿でかい艦なら、森の一つや二つ入る」
三島が真面目に言う。
「森を入れるわけではありません。試験区画です」
レガロンは肩をすくめた。
「分かってる」
ヴェリナは次の資料を示した。
「ヴェルデ式自己修復植物材は、外装装甲の代替ではありません。小規模な亀裂、配管漏れ、気密維持、内装材の補修に使う生体複合材です」
カイルが資料を見る。
「クロウヴェイル向きだな」
レガロンが即座に言う。
「クロウヴェイル向きだ。あの艦、壊れる前提で飛んでるからな」
「壊れる前提ではない」
カイルは真顔で返した。
「壊れても飛ぶ前提だ」
「もっと悪い」
グリッドの声が通信越しに聞こえた。
ヴェリナは淡々と説明を続ける。
「自己修復植物材は万能ではありません。高熱、強酸、重ビーム損傷には弱い。大破修復はできません。栄養液、光、または専用電力が必要です」
ユイが確認する。
「侵食系ネメシス反応への感染リスクは?」
「あります」
ヴェリナは即答した。
「そのため、監視機構を組み込みます。異常反応が出た場合、植物材は自動的に成長を停止します」
レータが頷く。
「妥当です。便利ですが、無制限ではない」
三島は記録する。
《ヴェルデ側より、環境循環ブロックおよび自己修復植物材の条件付き技術提供》
《用途は居住環境改善、医療療養支援、応急補修》
《軍事転用および無断増殖は禁止》
《監査記録対象》
ジン艦長は、しばらく資料を見た後、静かに言った。
「受け入れます。ただし、試験導入に限る」
ヴェリナは頷いた。
「それで十分です」
搭載先は、役割ごとに分けられた。
ルクス・ヴァルキュリアには、環境循環ブロックを優先導入する。
設置予定地は、医療区とPT居住区に近い空き区画。
デッドエンドから救出された子供達の療養環境、PT達の日常適応、長期航行時の空気・水循環補助を目的とする。
自己修復植物材は、ルクスでは艦体全体ではなく、医療区、居住区、一部配管に限定導入されることになった。
一方、クロウヴェイル・ノアには、小型環境循環ブロックと自己修復植物材が優先搭載される。
小型環境循環ブロックは、船内緑化兼空気浄化区画として。
自己修復植物材は、外装補修、配管の漏れ止め、気密維持、応急隔壁材として。
クロウヴェイル・ノアは中型高速艦であり、補給の薄い外宇宙行動も多い。
小さな損傷を自動で塞ぐ材料は、今後の旅で大きな意味を持つ。
タツヤはルクス側で自己修復植物材のサンプルを見ながら、少し難しい顔をしていた。
「便利そうだが、整備班泣かせでもあるな」
ミオが問う。
「どうしてですか?」
「勝手に塞がる材料は、どこまで塞がったのか確認しないと怖い。修理したつもりで中が腐ってたら洒落にならん」
モルドが横から言う。
「生体素材は診断が必要。艦も患者みたいなもの」
タツヤは眉をひそめる。
「艦に聴診器を当てる趣味はないんだが」
レガロンが笑う。
「これから覚えろ」
「勘弁してくれ」
それでも、タツヤの目は真剣だった。
便利なものほど、扱いを間違えれば危険になる。
デッドエンドとヴェルデを見た後では、その意味を誰も軽く見られなかった。
ルクス・ヴァルキュリアの一角。
環境循環ブロックの試験区画に、最初の苗床が設置された。
まだ森ではない。
小さな植物槽と、水循環管、空気浄化葉、柔らかな光を放つ天井パネル。
それだけの簡素な区画だった。
だが、そこには確かに緑があった。
アイナは、デッドエンドから救出された子供達と一緒に、その区画を見ていた。
三人のうち、意識が戻っているのはまだ一人だけ。
残りの二人は、医療ポッドで眠っている。
少年は車椅子のような補助椅子に座り、透明な壁越しにヴェルデの緑を見ていた。
アイナは、少し迷ってから言った。
「ここも、地球って呼ばれているそうです」
少年は、外の樹冠都市を見つめた。
遠くに緑が広がっている。
デッドエンドの空とは違う。
黒緑の海でも、毒黄色の雲でもない。
少年は、かすれた声で言った。
「空、変な色じゃない」
アイナは何も言えなくなった。
その一言が、胸に刺さった。
彼にとって、空は変な色であることが普通だったのかもしれない。
アイナ自身も、そうだった。
空の色が戻っていない。
デッドエンドで、そう言った。
でも、ここには違う空がある。
まだ変わっていない空がある。
戻ったのではない。
別の地球の空だ。
それでも、その緑は確かにそこにあった。
アイナは、少しだけ微笑んだ。
「うん。変な色じゃないね」
少年は、小さく頷いた。
その表情はまだ弱い。
だが、視線は緑から離れなかった。
三島は、黒瀬へ中間報告を送った。
《アース・ヴェルデ再訪調査報告》
《デッドエンドでは、壊れた後の記録を確認した》
《ヴェルデでは、壊れる前の兆候を確認し、初期封鎖に成功した》
《今回は、間に合った》
彼女はそこで一度手を止めた。
その一文だけなら、希望に見える。
だが、そこで終わらせるわけにはいかなかった。
《ただし、侵食核の技術署名は、ヘスティア信号の再送痕と思想的類似あり》
《同一勢力、または同一技術体系による継続的介入の疑いあり》
《複数の地球に対する外部干渉の可能性を警戒すべきである》
《ヴェルデ側より、環境循環ブロックおよび自己修復植物材の条件付き技術提供あり》
《ルクス・ヴァルキュリアおよびクロウヴェイル・ノアへ試験導入予定》
《用途と管理条件は監査対象として記録継続》
三島は報告書を見直した。
以前なら、技術提供は危険性を中心に記録していただろう。
今でも危険性は記録している。
だが、それだけではない。
この技術は、救出者を支える。
艦を守る。
次の被害を防ぐかもしれない。
危険だから拒むのではない。
危険を理解した上で、管理して使う。
それが、今の彼女の報告だった。
送信ボタンを押す。
記録は、地球側へ送られていった。
ヴェリナは、第七樹冠港の展望区画から、ルクスとクロウヴェイル・ノアを見ていた。
隣にはジン艦長、カイル、ユイ、三島がいる。
彼女は静かに言った。
「この都市は、あなた達をまだ完全には受け入れていません」
ジン艦長は頷いた。
「承知しています」
「帝国由来の技術。人工生命体。デッドエンド由来の汚染リスク。巨大艦。どれも、都市にとって警戒対象です」
「当然です」
ヴェリナは、少しだけ視線を緩めた。
「ですが、拒む理由も一つ減りました」
カイトはその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
全面的な信頼ではない。
だが、協力者として認められ始めた。
それで十分だった。
ヴェリナは続ける。
「あなた達は、壊す力だけを持っているのではありません。止めるために迷える。それは、この都市が見ました」
ユイは静かに答える。
「迷わずに済むなら、その方が楽です」
「そうでしょうね」
「でも、迷わない力は危険です」
ヴェリナは、ユイを見た。
「デッドエンドで、それを見たのですね」
「はい」
ユイは頷いた。
「だから、これからも迷います」
ヴェリナは少しだけ目を細めた。
「ならば、都市はその迷いを記録しておきます」
それは、ヴェルデなりの信頼の示し方だった。
出航準備が整った。
ルクス・ヴァルキュリアには、環境循環ブロックの試験設備が積み込まれた。
クロウヴェイル・ノアには、小型環境循環ブロックと、ヴェルデ式自己修復植物材が搭載された。
補給物資も積まれた。
検査も終わった。
だが、完全な安心はない。
侵食核は封鎖されただけで、背後の存在は不明のままだ。
ヘスティア信号を再送した何者か。
ヴェルデの記憶樹へ侵食核を仕込んだ何者か。
その二つが、同じ署名でつながっている。
誰かが、複数の地球へ干渉している。
その疑いだけが、はっきり残った。
カイルは、クロウヴェイル・ノアのブリッジで航路図を見ていた。
カイトはルクス側のブリッジで、ヴェルデの緑を見つめている。
アイナは医療区画で、救出された子供達と一緒に小さな緑を見ていた。
三島は記録を続けている。
ユイは、黒い侵食核の封鎖ログを見つめていた。
壊す力ではなく、止めるための力。
けれど、その境界はいつも薄い。
その言葉が、彼女の中に残っていた。
アース・ヴェルデは、まだ緑を残していた。
巨大樹木に覆われた都市群。
多層構造の空中街区。
緑化された高速道路。
樹冠の上に浮かぶ港。
都市と森が一体化した文明圏。
その姿は、デッドエンドとは違っていた。
だが、その根の奥には、誰かが埋め込んだ黒い棘が残っている。
デッドエンドは、壊された後の記録だった。
ヴェルデは、壊される前に止められた最初の例になった。
しかし、二つの地球をつなぐ署名は、同じ問いを残していた。
誰が、終わった世界の声を使っているのか。




