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第106話 デッドエンドの記録

 クロウヴェイル・ノアの医療区画には、静かな緊張が続いていた。

 第七地下残存区画から救出された三基の冷却ポッドは、隔離処置を受けたまま、専用の医療区画に固定されている。

 外部汚染の持ち込みは、完全には否定できない。

 ヒュドラ由来の生体感染。

 電子汚染。

 冷却ポッドそのものに残された旧式の管理コード。

 それらすべてを確認するまでは、誰も不用意に近づくことはできなかった。

 透明な隔離ガラスの向こうでは、カナデと医療班が慎重に処置を続けている。

 助かった。

 だが、安全になったわけではない。

 その現実が、医療区画全体に漂っていた。

 救い出せたことと、すべてが終わったことは同じではなかった。

 アイナは、隔離ガラスの前に立っていた。

 少し離れたところにカイルがいる。

 彼は何も言わなかった。

 アイナが見たいと言ったから、止めなかった。

 ただ、彼女が崩れそうになった時に支えられる距離にいた。

 ガラスの向こうには、三人の子供が眠っている。

 一人は、短時間だけ目を覚ました少年。

 残りの二人は、まだ意識が戻っていない。

 顔色は悪く、体もひどく痩せている。

 それでも、呼吸はある。

 生きている。

 アイナは、しばらくその光景を見つめていた。

「……本当に、いたんですね」

「ああ」

 カイルは短く答えた。

「行ってよかったのかは、まだ分かりません」

 アイナの声は小さかった。

「見なければよかったものも、たくさんありました」

「そうだな」

「でも」

 アイナはガラスの向こうを見つめたまま続けた。

「知らないままじゃなくてよかったです」

 カイルは少しだけ目を細めた。

「それで十分だ」

 アイナは、眠っている子供達を見た。

「あの子達が目を覚ました時、ここがどこなのか、誰かが説明しないといけません」

 カイルは彼女の横顔を見た。

「やるのか」

「できるかは分かりません」

 アイナは正直に言った。

「でも、私が聞きたかったことを、あの子達も聞きたいかもしれないから」

 カイルは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに頷く。

「なら、焦らなくていい。お前も一緒に覚えていけばいい」

「はい」

 アイナは小さく頷いた。

 故郷は戻らない。

 失った人達も戻らない。

 デッドエンドの空は、今も濁ったままだ。

 それでも、自分だけではなかった。

 その事実だけが、暗い場所に残った小さな火のように、彼女の中で消えずに灯っていた。


 ルクス・ヴァルキュリアの解析室では、ヘスティアから受け取った記録の整理が続いていた。

 巨大なスクリーンには、複数のログが並んでいる。

 NB-14 テュポーン投入記録。

 NB-15 エキドナ封鎖失敗記録。

 NB-16 ヒュドラ感染拡大記録。

 帝国軍撤退ログ。

 第七地下残存区画封鎖命令。

 管理AIヘスティアの救難信号送信履歴。

 イリスは記録を分類しながら、淡々と読み上げた。

「NB-14 テュポーンは、大気汚染を引き起こしました。停止後も残骸内部から汚染物質を漏出し続けています」

 レータが続ける。

「NB-15 エキドナは、地下施設の一部を生体工廠化しました。物資倉庫、保守通路、避難区画の一部が生産器官化しています」

 ミオが通信ログを表示する。

「NB-16 ヒュドラは、生物感染と電子汚染の両面で被害を拡大。救助活動そのものを感染拡大要因に変える性質が確認されました」

 アルベルトは、画面に映る帝国軍撤退ログを見ていた。

 その表情は重い。

「帝国軍は、制御不能を確認した後、撤退している」

 カイトが拳を握った。

「住民を置いて?」

 アルベルトは答えなかった。

 だが、沈黙が答えだった。

 レータが画面を切り替える。

「第七地下残存区画の住民の大半は、避難施設内に残されました。一部区画は管理AIヘスティアにより維持され、救難信号は長期にわたり発信され続けています」

 イリスが静かに補足する。

「ヘスティアは、避難者名簿、死亡確認ログ、生存者維持記録を保存していました。損傷は大きいですが、記録としての価値は高いです」

 カイトはスクリーンに映る名簿の断片を見た。

 百二十七名。

 生存維持対象、三。

 処置不能対象、百二十四。

 その数字は、何度見ても慣れることがなかった。

「助けられたのは、三人だけか」

 カイトの声は低かった。

 ユイが隣で言う。

「三人を助けられました」

 カイトはユイを見る。

 ユイは、スクリーンの名簿から目を離さなかった。

「どちらも事実です」

 カイトは何も言えなかった。

 助けられなかった人達がいる。

 それでも、助けられた人達がいる。

 どちらかだけを見てはいけない。

 それを、ユイは言っているのだと分かった。


 解析が進む中、イリスの端末に別の警告が表示された。

「追加解析結果」

 レータが画面を覗き込む。

「どうしました」

「ヘスティアの原信号と、ルクスが受信した救難信号に差異があります」

 ジン艦長が顔を上げた。

「差異?」

「はい。ヘスティアが発信していた原信号は、非常に古いものです。しかし、ルクスが受信した信号には、近年再送または増幅された痕跡があります」

 解析室の空気が変わった。

 カイルの通信映像がわずかに目を細める。

《誰かが、この声を掘り起こしたってことか》

 イリスは頷く。

「可能性があります」

 レータが補足する。

「再送には旧帝国コードが使用されています。ただし、現在の帝国軍式とは完全には一致しません。意図的な再送か、自動中継設備の再起動か、第三者による増幅かは不明です」

 アルベルトが低く言った。

「いずれにせよ、偶然拾っただけではない可能性が出てきた」

 カイトは顔を上げる。

「誰かが、俺達にこれを聞かせた?」

「断定はできません」

 レータは慎重に答えた。

「ですが、少なくとも信号は最近強められています。ルクスが受信できるほどに」

 ジン艦長は腕を組んだ。

「目的は何だ」

 誰もすぐには答えられなかった。

 救援のためか。

 警告のためか。

 誘導のためか。

 罠のためか。

 そのどれも、あり得た。

 イリスはさらに画面を切り替える。

「もう一つ、ヘスティアの記録内にあった警告です」

 スクリーンに古い外部観測記録が表示される。

《外部観測記録》

《類似汚染反応、別宙域にて確認》

《アース・ヴェルデ方面》

《初期侵食反応》

《デッドエンド初期汚染パターンと類似》

《警告》

 レータの表情が硬くなる。

「これは過去の記録ではありません。現在進行形の異常です」

 ジン艦長が問う。

「ヴェルデは、まだ壊れていないのか」

 カイルが通信越しに答える。

《少なくとも、最後に俺達が確認した時はな。緑が残っている地球だった》

「だが、初期侵食反応がある」

《ああ》

 カイルは苦い顔をした。

《壊れた後を見たばかりで、次は壊れる前か》

 ジン艦長は静かに目を細める。

「ならば、向かう理由はある」

 その言葉に、解析室の全員が顔を上げた。

 即決ではない。

 軽い判断でもない。

 だが、デッドエンドを見た後なら、その意味は分かった。

 壊れた後では遅い。

 壊れる前に止められる可能性があるなら、確かめる理由はある。


 三島は、解析室の端で報告書を書いていた。

 宛先は、地球統合軍中央監査局。

 黒瀬誠司。

 報告内容は、アース・デッドエンドで確認した事実と、同行監査官補佐としての所見。

 最初、三島はいつもの形式で書こうとした。

《ルクス・ヴァルキュリアおよびクロウヴェイル・ノアは、未確認宙域において危険兵器由来の汚染区域へ接近。PT個体群および帝国技術関係者を伴い、現地調査を実施》

 それは正しい。

 間違っていない。

 だが、それだけでは足りなかった。

 この記録には、危険性だけでなく、なぜ彼らが危険を承知で降りたのかも残す必要があった。

 三島は一度文章を消した。

 そして、少し時間をかけて入力し直す。

《ルクス・ヴァルキュリアは危険である》

 そこで指が止まる。

 彼女は、ルクスの工廠を思い出した。

 アルタイル・ノヴァ。

 ルナ・スケイル・リフレクト。

 フェンリオン・リサイト。

 ネメシス・レクイエム残骸。

 ノクス・レクイエム計画。

 どれも危険だった。

 それは今でも変わらない。

 三島は続けた。

《PT個体群、帝国技術、レクイエム残骸、およびノクス・レクイエム計画は、今後も監査対象であり続けるべきである》

 さらに、デッドエンドの空を思い出す。

 テュポーンの残骸。

 エキドナの生体工廠。

 ヒュドラ感染域。

 開けるなと助けてが重なった扉。

 ヘスティアが守り続けた名簿。

 眠っていた三人の子供。

 三島は息を吐き、次の文章を入力した。

《しかし、今回確認されたアース・デッドエンドの状況は、帝国兵器の危険性がそれを上回ることを示している》

《彼らを無条件に信用するべきではない》

《だが、彼らを止めるべきでもない》

 その文章を見て、三島はしばらく動かなかった。

 これは、甘い報告だろうか。

 監査官として不適切だろうか。

 黒瀬ならどう見るだろうか。

 そう考えた後、彼女はさらに一文を加えた。

《危険性を確認しながら前進するために、監査は継続されるべきである》

 それが、今の三島の答えだった。

 送信確認の表示が出る。

 三島は少しだけ迷い、送信した。


 地球統合軍中央監査局。

 黒瀬誠司は、三島から届いた中間報告を読んでいた。

 報告書には、膨大な添付データが付いている。

 壊れた軌道施設。

 汚染された空。

 テュポーン残骸。

 エキドナ侵食区画。

 ヒュドラ感染域。

 ヘスティア記録。

 救出された三名。

 そして、三島自身の所見。

 黒瀬は、その文章を何度か読み返した。

《彼らを無条件に信用するべきではない》

《だが、彼らを止めるべきでもない》

 彼はしばらく黙っていた。

 隣にいた地球側補佐官が尋ねる。

「三島監査官補佐の判断は、甘くなっていますか」

 黒瀬は画面から目を離さずに答えた。

「いいえ」

「では?」

「見た者の報告だな」

 それだけだった。

 だが、その声には、わずかな重みがあった。

 黒瀬は報告書へ承認印を付ける。

《監査継続》

《調査継続を条件付きで容認》

《取得情報の即時共有を継続》

 彼は最後に、短い返信を入力した。

《記録を続けなさい》

 それは命令だった。

 同時に、三島の判断を認める言葉でもあった。


 ルクス・ヴァルキュリアの展望区画。

 ユイは、アース・デッドエンドを見ていた。

 黒緑の海。

 毒黄色の雲。

 焼けた大陸。

 遠く、今も汚染を吐き続けるテュポーンの残骸。

 その星は、終わっているように見えた。

 だが、完全には終わっていなかった。

 記録が残っていた。

 生存者がいた。

 警告があった。

 そして、その警告は次の地球へ伸びていた。

 カイトが隣に来る。

「ここにいたのか」

「はい」

「大丈夫か」

 ユイは少しだけ考えた。

「大丈夫ではありません」

「そっか」

「でも、見ておく必要がありました」

 カイトは黙って隣に立った。

 ユイは、遠くの星を見つめたまま言う。

「力を捨てるだけでは、救えないものがあります」

 カイトはユイを見る。

「でも、力を使う理由を間違えれば、ここになる」

 その言葉に、カイトはアース・デッドエンドを見た。

 止まらない汚染。

 救えなかった人達。

 守り続けた管理AI。

 眠る子供達。

 それらすべてが、ユイの言葉の意味を示していた。

「だから、止める仕組みが必要なんだな」

「はい」

 ユイは頷いた。

「私一人の判断で、ノクス・レクイエムを動かしてはいけない。必要だと思った時ほど、止める人が必要です」

「俺も止める」

 カイトは言った。

「黒瀬さんも、三島さんも、ミオも、イリスも、レータも。必要なら全員で止める」

 ユイは少しだけ目を細めた。

「止められる側としては、少し複雑です」

「でも、必要なんだろ」

「はい」

 ユイは小さく息を吐いた。

「必要です」

 そして、ほんのわずかに表情を緩めた。

「その上で、それでも必要なら、一緒に考えてください」

「ああ」

 カイトは頷いた。

「一緒に考える」


 出航準備が始まった。

 アース・デッドエンドでの任務は、完全な成功ではない。

 救出できたのは三人だけ。

 失われたものは、あまりにも多い。

 それでも、彼らは何も得られなかったわけではなかった。

 ヘスティアの記録。

 帝国兵器の失敗。

 ヴェルデへの警告。

 そして、救出された小さな命。

 ルクス・ヴァルキュリアとクロウヴェイル・ノアは、汚染された軌道上からゆっくりと離脱を始めた。

 カイトはアルタイル・ノヴァの格納状態を確認し、整備員へ機体を預ける。

 セラはフェンリオン・リサイトの狙撃記録を提出する。

 ミオはルナ・スケイル・リフレクトの通信中継ログを整理していた。

 イリスはヘスティア記録の複製を三重に保存し、レータはヴェルデ方面の座標を再計算している。

 アイナは、医療区画で眠る子供達をもう一度見てから、カイルの隣に戻った。

 三島は黒瀬からの返信を読んだ。

《記録を続けなさい》

 短い言葉だった。

 だが、三島は少しだけ背筋を伸ばした。

「……了解しました」

 誰に聞かせるでもなく、彼女はそう呟いた。


 ブリッジでは、ジン艦長とカイルが次の航路を確認していた。

 スクリーンには、アース・ヴェルデ方面の座標が表示されている。

 まだ詳細は分からない。

 ただ、ヘスティアの古い警告と、近年増幅された旧帝国コードが、その方向を指している。

「すぐに向かうわけではない」

 ジン艦長が言った。

「救出者の治療、汚染検査、艦内隔離、記録の地球側共有。それらを優先する」

《分かってる》

 カイルは頷いた。

《だが、時間をかけすぎれば、ヴェルデが次のデッドエンドになるかもしれない》

「だから準備に入る」

 ジン艦長は静かに答えた。

「壊れた後では遅い」

 カイルは少しだけ目を伏せた。

《壊れた後を見たばかりで、次は壊れる前か》

 ジン艦長はスクリーンを見る。

「ならば、向かう理由はある」

 その言葉を合図に、航路候補が更新された。

 アース・デッドエンドから、アース・ヴェルデへ。

 終わった世界の記録が、まだ終わっていない世界へとつながっていく。


 アース・デッドエンドは、遠ざかっていった。

 黒緑の海。

 毒黄色の雲。

 焼けた大陸。

 止まったはずなのに、まだ空を汚し続ける兵器の残骸。

 そのすべてが、スクリーンの中で少しずつ小さくなる。

 誰も、軽い気持ちでは見送れなかった。

 救えたものはある。

 救えなかったものは、もっと多い。

 それでも、彼らは記録を持ち帰った。

 生存者を連れ出した。

 そして、次の警告を受け取った。

 デッドエンドは、終わった世界だった。

 だが、その記録は終わっていなかった。

 次に示された座標は、まだ緑を残す地球。

 アース・ヴェルデ。

 壊された後ではなく、壊される前の世界だった。

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