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第104話 ヒュドラ感染域

 観測ドームの警報灯は、赤く点滅し続けていた。

《感染反応……確認》

《医療冷却区画……隔離維持》

《生存者確認》

《接近……注意》

 古い合成音声は、途切れながら同じ言葉を繰り返している。

 テュポーンの残骸が空を汚し続けている。

 エキドナの痕跡が地下施設を生体工廠へ変えていた。

 そして今、ヒュドラの感染域が、医療冷却区画の近くで反応を返している。

 カイルは観測ドームの窓から視線を外し、降下隊を見回した。

「ここから先は、今までより厄介だ」

 誰も軽く頷かなかった。

 地下区画に入ってから、ずっと厄介だった。

 それでも、カイルが改めてそう言うということは、ここからが本当に危険なのだ。

 誰も、その判断を軽く受け止めてはいなかった。

 レータは端末に表示された地図を確認していた。

「医療冷却区画へ向かうには、感染監視区画を通過する必要があります」

 三島が聞き返す。

「迂回は?」

「あります。ただし、崩落と汚染液体で封鎖されています。現時点では、感染監視区画を通るルートが最も到達可能性が高いです」

「最も安全、ではなく?」

「はい。最も到達可能性が高いだけです」

 三島は息を詰めた。

 レータの言い方は冷静だった。

 だからこそ、怖かった。

 カイトの声が通信に入る。

《こっちは入口を維持してる。必要ならすぐ戻れ》

「了解」

 カイルが短く答える。

「だが、まだ戻らない。まず感染域の境界を確認する」

 ユイは観測ドームの奥へ続く扉を見た。

 その扉の先が、医療冷却区画へつながるルートだった。

 扉の表示は半分ほど欠けている。

《感染監視区画》

《許可なき通行を禁ず》

《封鎖レベル――》

 封鎖レベルの数値は破損して読めなかった。

 だが、その必要はなかった。

 ここが安全ではないことだけは、誰の目にも明らかだった。


 扉を開く前に、小型偵察ドローンが投入された。

 ルクス側の簡易ドローンで、ヒュドラ由来の電子汚染に備えて通信系を独立化している。

 それでも、イリスは慎重だった。

「ドローン一号、起動。感染監視区画へ進入します」

 小型ドローンが扉の隙間から中へ入る。

 カメラ映像がスクリーンに映った。

 暗い通路。

 天井の壊れた照明。

 壁に残る警告表示。

 床には薄い霧のようなものが漂っていた。

 霧の正体は、水蒸気ではない。

 イリスが解析する。

「微粒子状汚染物質。生物毒性、および電子機器への干渉反応あり」

 レータが即座に言う。

「防護服の密閉を再確認。ドローンは距離を取り、直接接触を避けてください」

「了解」

 ドローンは通路を進んだ。

 数メートル。

 十メートル。

 十五メートル。

 その時、映像が一瞬乱れた。

 ノイズが走り、画面が白く弾ける。

「通信異常」

 イリスが言った直後、ドローンの映像が停止した。

 スクリーンに、最後のフレームだけが残る。

 薄い霧。

 壁の警告表示。

 そして、通路の奥に立つ影のようなもの。

 三島が息を呑む。

「今、何か映りませんでしたか」

 イリスが映像を巻き戻そうとする。

 だが、記録データにノイズが重なり、最後の数秒が破損していた。

「映像ログが損傷」

 レータが端末を確認する。

「ドローン一号、応答なし。機体位置は感染監視区画内、二十メートル地点で停止」

「壊れたのか」

 カイルが尋ねる。

「不明です。物理破損の信号はありません。ただし、制御系が沈黙しています」

 アルベルトが低く言う。

「ヒュドラ由来の電子汚染だ。機械に感染する」

 三島はドローンの最後の映像を見つめた。

 壊されたのではない。

 止まった。

 まるで、区画そのものに飲み込まれたようだった。


 二号ドローンは投入されなかった。

 レータが止めた。

「同じ結果になる可能性が高いです。これ以上ドローンを無駄にすれば、逆に感染媒体を増やす危険があります」

 カイトの声が通信に入る。

《じゃあ、どうするんだ》

「徒歩で進みます」

 三島が顔を上げる。

「危険では?」

「危険です」

 レータは即答した。

「ですが、防護服と独立端末を使う人間の方が、現在の小型ドローンより汚染耐性が高い可能性があります。電子制御機器の自律行動は避けるべきです」

「人間の方が安全、ということですか」

「安全ではありません。比較上、まだ判断可能という意味です」

 カイルは頷いた。

「分かった。進む。ただし、撤退基準を決める」

 レータはすぐに答えた。

「通信遅延が三秒を超えた場合、一時停止。五秒を超えた場合、撤退準備。誰か一名の防護服に異常が出た場合、即時撤退」

「了解」

 ユイが静かに言う。

「私の感覚に異常が出た場合も、撤退判断に入れてください」

 カイルがユイを見る。

「帝国コードか」

「はい。レクイエムの時と似た嫌な感覚があります。ただし、こちらはもっと散っています」

 アルベルトが頷く。

「ヒュドラは単体兵器というより、拡散する汚染そのものだ。中心があるとは限らない」

 三島は自分の防護服の密閉表示を確認した。

 すべて正常。

 それでも、安心はできなかった。

 彼女は端末に記録する。

《ヒュドラ感染域への進入を開始》

《ドローン一号、電子汚染により沈黙》

《以後、電子機器の自律行動を制限》

 記録している手は、少しだけ震えていた。


 感染監視区画の扉が開いた。

 中から、冷たい霧のようなものが流れ出す。

 防護服の外装センサーが反応し、警告表示が視界の端に浮かんだ。

《外部微粒子汚染》

《生体毒性:中》

《電子干渉:高》

 カイルが先頭に立つ。

「足元に気をつけろ。壁にも触るな。音が聞こえても、すぐ反応するな」

 三島が思わず聞く。

「音?」

 その答えは、すぐに分かった。

 通路の奥から、声が聞こえた。

《助けて》

 三島の足が止まった。

 子供の声に聞こえた。

 カイトの通信が乱れながら入る。

《今の、聞こえたか》

 カイルが鋭く答える。

「動くな。音声ログだ」

 通路のスピーカーから、別の声が重なる。

《来ないで》

《まだ、ここに》

《開けないで》

《ここは地球》

《感染確認》

《救援を》

《封鎖を維持してください》

 複数の声が、同時に、ばらばらに流れてくる。

 子供の声。

 大人の声。

 管理AIの合成音声。

 警報音。

 ノイズ。

 それらが混ざり、通路全体が喋っているようだった。

 ユイが小さく息を吸う。

「これは……」

 イリスが記録しようと端末を操作する。

 だが、画面にノイズが走った。

「記録系に混線」

 彼女の声がわずかに遅れる。

 レータがすぐに反応する。

「イリス、端末を独立記録モードへ」

「移行中」

 イリスは端末を切り替える。

 その瞬間、彼女の口から別の声が漏れた。

「――開けないで」

 全員が振り返った。

 イリス自身も目を見開く。

「……今のは」

 三島が息を呑む。

 イリスの声だった。

 だが、言葉はイリスのものではなかった。

 イリスは端末を見下ろし、すぐに通信を遮断した。

「これは、私の記録ではありません」

 その声は静かだった。

 だが、わずかに震えていた。

「過去の音声ログが、私の音声出力系に混入しました」

 レータが即座に指示する。

「イリス、外部音声同期を切断。記録は映像と文字ログに限定してください」

「了解」

 イリスは自分の端末を操作し、音声記録を停止する。

「音声記録停止。文字変換も一時停止。手動記録へ移行します」

 三島はその様子を見て、背筋が寒くなった。

 ヒュドラは体だけを侵すものではない。

 機械だけを壊すものでもない。

 記録を汚す。

 声を混ぜる。

 誰の言葉か分からなくする。

 それが、この感染域の怖さだった。


 通路を進むにつれて、通信の遅延が大きくなった。

《こちら……ミオ……中継に……異常反射……》

 ミオの声が途切れる。

 ルナ・スケイル・リフレクトの中継が不安定になっている。

 レータが時間を測る。

「遅延二・一秒。まだ進行可能」

 カイルが頷く。

「急がず進む」

 その時、右側の自動扉が勝手に開いた。

 全員が身構える。

 扉の向こうには、暗い部屋があった。

 古いベッド。

 壊れた端末。

 床に散らばる書類。

 そして、奥に立つ古い警備ドローン。

 丸いカメラアイが赤く点灯した。

《識別……不能》

《避難者……不明》

《感染対象……不明》

《排除……》

 カイルが叫ぶ。

「下がれ!」

 警備ドローンが浮上する。

 だが、その動きは不規則だった。

 天井にぶつかり、壁に擦れ、それでもこちらへ銃口を向けようとしている。

 敵味方識別が壊れている。

 それでも、排除命令だけが生きている。

 ユイが端末を構える。

「制御停止を試みます」

「直接接続はするな」

 アルベルトが鋭く言う。

「ヒュドラ汚染が逆流する」

 カイルが銃を構える。

 だが、撃つ前にセラの声が通信に割り込んだ。

《位置を固定して》

 通信は乱れていた。

 それでも、セラの声は届いた。

 カイルが即座に横へ跳ぶ。

 次の瞬間、地下入口側から誘導された小型貫通弾が、通路の奥を走った。

 フェンリオン・リサイトからの遠隔狙撃支援。

 弾丸は警備ドローンの武装部だけを貫き、機体本体を壁へ叩きつけた。

 ドローンは火花を散らし、床に落ちる。

《撃破じゃない。武装だけ止めた》

 セラの声が続く。

《調べるなら、今》

 カイルが短く答える。

「助かった」

《無茶しないで》

「そっちもな」

 イリスが停止したドローンを記録する。

 ただし、音声は使わない。

 手動で文字を入力していく。

《旧警備ドローン、敵味方識別不能》

《ヒュドラ電子汚染による制御異常の可能性》

《フェンリオン・リサイト支援により武装停止》

 三島も記録した。

 だが、心臓の音がまだ速かった。

 ここでは、古い機械ですら信用できない。

 敵が出てきたのではない。

 壊れた命令が、突然こちらへ向いただけだった。


 さらに奥へ進むと、センサーが生命反応を拾い始めた。

 最初は一つ。

 次に三つ。

 そして、すぐにゼロになった。

 また一つ。

 五つ。

 ゼロ。

 反応が揺れ続ける。

 カイトが通信越しに声を上げる。

《生命反応があるのか?》

 レータは即答しなかった。

 何度も照合し、汚染ノイズを削り、異常反応を分けようとする。

「偽反応が混ざっています」

「偽反応?」

《センサーに偽の生命反応を出している可能性があります》

 ミオの声がノイズ混じりに届く。

《救助隊を誘導するための反応か、ヒュドラ感染による誤検出か、判別できません》

 カイトの声が低くなる。

《でも、本物も混ざってるかもしれないんだろ》

「はい」

 レータは認めた。

「ですが、救助対象が存在する可能性と、救助隊が感染媒介になる危険性を比較する必要があります」

 カイトは黙った。

 その言葉は冷たく聞こえる。

 だが、間違っていない。

 ここで焦って進めば、誰かを助けるどころか、感染を広げるかもしれない。

 それでも、カイトは言わずにはいられなかった。

《それでも、見捨てるわけにはいかない》

「見捨てるとは言っていません」

 レータの声は静かだった。

「一時撤退を提案します。感染域のデータを持ち帰り、対策を整えてから再進入する方が、救助成功率は高い」

《今、中に誰かいたら?》

「今、救助隊が感染媒介になれば、その誰かも助かりません」

 カイトは息を詰めた。

 反論できなかった。

 カイルが通信に入る。

「レータの判断は正しい」

《カイルさん》

「ただし、ここまで来た以上、医療冷却区画の外縁までは確認する。開放はしない。見るだけだ」

 レータは少しだけ考えた。

「条件付きで進行可能。通信遅延が五秒を超えた場合、即時撤退します」

「それでいい」

 三島はそのやり取りを記録していた。

 カイトの救助したい気持ち。

 レータの冷静な撤退判断。

 カイルの現場判断。

 どれか一つだけでは足りない。

 この場所では、善意も、合理性も、経験も、すべて必要だった。


 通路の奥へ進むにつれ、音声ログはさらに激しく混線した。

《助けて》

《感染確認》

《来ないで》

《医療冷却区画、稼働中》

《封鎖を維持してください》

《子供を先に》

《外部開放は禁止されています》

《ここは地球》

《救援を》

《開けないで》

 イリスは音声を記録していない。

 それでも、声は耳に入る。

 防護服越しに、骨の内側へ染み込むようだった。

 ユイは歩きながら、壁に手を伸ばしかけて止めた。

 壁面には、黒ずんだ線が走っている。

 ヒュドラの電子汚染か。

 エキドナの残滓か。

 それとも両方か。

 アルベルトが低く言う。

「触るな。どこまでが機械で、どこからが汚染か分からない」

「分かっています」

 ユイは手を下ろした。

 その時、彼女の耳元でノイズが弾けた。

《レクイ――》

 ユイの足が止まる。

 カイルが振り返る。

「ユイ?」

「今、レクイエムという音が」

 全員の表情が変わった。

 レータがすぐに通信ログを確認する。

「該当音声なし。私の端末では確認できません」

 イリスも手動記録を確認する。

「私の記録にもありません」

 ユイは息を整えた。

「……私の感覚に混入した可能性があります」

 アルベルトが険しい顔をする。

「ヒュドラ感染域のノイズが、君の帝国由来同期系に干渉しているのかもしれない」

 カイルは即座に判断した。

「ユイ、これ以上異常が出たら撤退だ」

「はい」

 ユイは頷いた。

 反論しなかった。

 この場所では、自分の感覚も完全には信用できない。

 それが、ヒュドラ感染域の恐ろしさだった。


 やがて、通路の先に大きな隔壁が見えた。

 医療冷却区画の外縁扉。

 扉には複数の警告表示が重なっている。

《医療冷却区画》

《生命維持装置稼働中》

《感染隔離中》

《外部開放は推奨されません》

 レータが端末を確認する。

「生命反応、再検出。一つ……いえ、三つ。ノイズ混入あり。確定には至りません」

 イリスが手動で記録する。

「医療冷却区画外縁に到達。生命反応候補を確認」

 三島は扉を見つめた。

 ここまで来た。

 だが、まだ開けられない。

 扉の向こうに本当に誰かがいるかもしれない。

 しかし、開ければ感染が広がるかもしれない。

 その矛盾が、目の前の隔壁として立ちはだかっている。

 突然、管理AIの声が流れた。

 これまでよりもはっきりしていた。

《生存者確認》

 全員が息を止める。

《医療冷却区画、稼働中》

《救援を要請します》

 短いノイズ。

 そして、同じ声が続けた。

《外部開放は推奨されません》

 カイトの通信が震えた。

《本当に……いるのか》

 レータは画面を見つめる。

「生命反応候補、継続。完全な偽反応とは断定できません」

 イリスが静かに言う。

「管理AIは、生存者を認識しています」

 三島は扉の文字を記録した。

 手が震えていた。

 救援を要請します。

 外部開放は推奨されません。

 助けてほしい。

 開けてはいけない。

 それでも、扉の向こうに生きている誰かがいるかもしれない。

 カイルは隔壁を見つめたまま、低く言った。

「ここから先は、開け方を間違えたら全員死ぬ」

 ユイは静かに頷いた。

「でも、開けなければ助けられない」

 その言葉に、誰も反論できなかった。

 医療冷却区画の扉の奥で、壊れかけた管理AIの声が、もう一度響いた。

《生存者確認》

《医療冷却区画、稼働中》

《救援を要請します》

《外部開放は推奨されません》

 ヒュドラ感染域の奥で、本物かもしれない生命反応が、静かに点滅していた。

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