プロローグ 空が裂けた日
五年前。
その日までは、世界はまだ普通だった。
少なくとも、人々はそう信じていた。
夕暮れの街には、帰宅途中の学生達、買い物帰りの家族、渋滞した道路があった。
大型モニターではニュースが流れている。
『統合軍次世代戦術機動兵器、ルミナス・フレーム計画の追加試験運用が――』
誰も真面目には見ていない。
戦術機動兵器も、統合軍も、多くの人にとっては画面の向こう側の話だった。
少なくとも、この街では。
その人混みの中を、一人の少女が歩いていた。
羽崎竜奈。そう名乗っている少女。黒髪の少女は、小さな紙袋を抱えている。
中には猫のぬいぐるみ。限定販売で、少しだけ悩んで買ったものだった。
「……」
袋を見つめる。その顔は、どこか嬉しそうだった。
五年前。空腹と疲労で倒れていた自分を拾ってくれた人がいる。
羽崎玲奈。
彼女は何も聞かなかった。
どこから来たのか。
なぜ倒れていたのか。
なぜ身分証も持っていなかったのか。
それでも玲奈は言った。
『行く場所がないなら、うちに来る?』
それが始まりだった。“ユイ・クレスケンス”。
日本だと目立つし、色々と説明が面倒だから。
玲奈はそう言って、“羽崎竜奈”という名前をくれた。
親戚の子供。そういうことになっていた。
普通の生活。普通の学校。普通の日常。
それは、ユイが知らなかったものだった。
だからこの時間を、少しだけ気に入っていた。
その瞬間だった。
空が、鳴った。
ゴォン――――……。
空気が震える。
地面が揺れる。人々が立ち止まる。誰かが空を見上げた。
「……なに、あれ」
夕焼けの空。その中心が裂けていた。
黒い亀裂。空間そのものが破れているようだった。
ユイの顔から血の気が引く。
「……っ」
呼吸が止まる。見間違えるはずがなかった。
あれを。“向こう側”を。次の瞬間、“それ”は現れた。
巨大で黒い外殻。生物とも機械ともつかない異形。
怪物は空から落下するように現れると、高層ビルへ激突した。
爆音。炎。 悲鳴。世界が壊れる。
「きゃああああっ!」
人々が逃げ惑う。崩れる街。
しかし、ユイだけは、その怪物を見つめていた。
震える唇。そして。
「……どうして」
小さく呟く。
「どうして、“ここ”に……」
それは初めて怪物を見た人間の反応ではなかった。
怪物が咆哮する。衝撃波。周囲の建物が吹き飛ぶ。
ユイの手から紙袋が落ちた。ぬいぐるみが転がる。
それでも、ユイは動けなかった。頭の奥で、過去が蘇る。
暗い研究施設。白い部屋。無機質な声。
『PT-01』
番号で呼ばれていた頃。まだ“名前”すらなかった頃。
『この子達に、ちゃんと名前を付けるべきです』
誰かの声。優しかった声。
『……ユイ』
初めて与えられた名前。番号ではなく。“人”として呼ばれた名前。
怪物が再び咆哮する。その瞬間。空から閃光が走った。
轟音が響く。白い光。次の瞬間、怪物の身体が吹き飛ぶ。
人々が空を見る。飛んでいた。人型兵器。
白と灰色の鋼鉄。背部スラスターを噴かしながら空を駆ける機体群。
統合軍次世代戦術機動兵器“ルミナス・フレーム”。
通称、LF。まだ正式量産前の試験配備段階の兵器。
『右腕部損傷!』
『市街地被害拡大中!』
『これ以上近付けさせるな!』
通信が飛び交う。LFはまだ未完成だった。
それでも、人類は戦うしかなかった。
一機のLFが前へ出る。
他機より小柄な高機動型。危険なほど前へ出る機体。
『ミオ!下がれ!』
『でも、このままだと避難が間に合わない!』
少女の声。その名に、ユイの目が揺れる。
「……ミオ……?」
小さく漏れる声。だが次の瞬間。怪物が咆哮する。
だがユイだけは知っていた。これが始まりに過ぎないことを。
そして空の向こう側に、“敵”がいることを。
避難警報が響く。炎、崩れる街。泣き叫ぶ人々。
その中でユイは落ちていた金属片を拾い上げる。
壊れたLF部隊章。彼女はそれを見つめる。
まるで消えてしまうものを残そうとするように。
そして、静かに握りしめた。
この襲撃で、羽崎玲奈とその夫は帰らなかった。
ユイは二度目の“居場所”を失った。
この日を境に、世界は変わった。
空の向こうから現れる異形。
後に“ネメシス・ビースト”通称、“NB”と呼ばれる存在。そして後に《地球戦線》と呼ばれる長い戦い。
その全ては、この日から始まった。




