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1話 ただの灯りだと思っていた

 潮と鉄の匂いが絡み合う夜だった。

 半世紀前、世界に孔があいた。ダンジョンはいつの間にか社会の裏側へ根を張り、鉱脈のように資源を吐き出す一方で、季節の嵐のように小さな破局を連れてくる。小規模なブレイクは通り雨のように頻発し、数年に一度だけ街を壊すほどの“大きいの”がやって来る──それが今の常識だ。


 湾岸の第三区画、三ツ月ゲート。

 海風に揺れる誘導灯がゲート膜の薄い波紋を照らし、波形が夜の色へほどけていく。潮を吸って黒ずんだフェンスは、月光を細く千切って足元に落とした。


「神谷、二十三番フェンスの死角、今日も頼む。ケーブルの垂れは要確認な」


 無線の向こうの主任の声は、いつもより少し硬い。

「了解です、主任」


 俺──神谷悠真、二十五歳。

 冒険者になりそこね、今はダンジョン周辺の夜間警備員をしている。制服の胸には色あせた名札、腰には伸縮警棒。支給のライトは強力だが、俺はつい指先に小さな灯りをともしてしまう。


 《灯火》。

 指先にぽつりと生まれる豆電球のような光。業務用ライトの足元にも及ばないけれど、狭い隙間を覗くときは十分だし、何より手の内に光がある感覚が落ち着く。


「またやってるんすか、その指ライト」


 巡回の相棒、アルバイトのタカミが笑う。十九歳。若さが余っている。

「ほら、こっちの業務用の方が広いし明るいっすよ。文明の力を信じましょうよ」


「知ってる。これは癖だ。細いところを見るときは、こっちが楽なんだ」


「スキル持ちはいいっすねぇ。俺の《施錠》、鍵管理以外マジ出番なし」


「鍵を閉められるのは重要だ。夜はお前で回ってる。胸張っとけ」


 コンクリートは足音を乾いた音で返す。

 夜勤は嫌われがちだが、俺は嫌いじゃない。世界が一段音量を下げて、自分の呼吸と足音だけがやけに大きくなる、その静けさが心に収まる。


 人は十五歳でスキルに目覚める。

 スキルは大きく二種類に分けられ、誰もが持ち得る汎用と、一部だけが授かるユニーク。持てる数は一人につき一つから三つまで。数が多ければ偉いわけじゃないが、戦闘系を三つ持つ人間は珍しく、社会ではエリート扱いだ。ユニークは強力になりがちで、国家級の英雄の多くはユニーク持ちだと信じられている。


 俺はユニーク持ちだった。

 だが、最底辺。

 授かったのは《模倣訓練》。人のスキルを数秒だけ、しかも本来の一割の威力で真似できる能力。模倣して訓練すれば熟練度は溜まるらしいが、攻撃にも防御にもならない。半世紀の研究が積み重なった世界で、結論は変わらなかった。──無意味。F判定。無能。


 それでも当時の俺には夢があった。

 《模倣訓練》には三つの“模倣枠”がある。俺は迷わず埋めた。一つ目は《剣術・初等》。剣士に憧れた。二つ目は《気配察知・微》。臆病だったから、危険に先に気づきたかった。三つ目は《灯火》。ダンジョンに一人で挑むなら、足元を照らす光は必要だと思った。派手ではない。笑うやつは笑えばいい。暗闇は怖い。だから俺には灯りが要る。


 結果は知ってのとおりだ。

 模倣は借り物の動きで、数秒しか保たず、威力は一割から伸びない。剣は型の形だけ、察知は気のせいと誤差の境目、灯りは手元の補助。熟練の手応えを掴む前に生活が先に来て、俺は冒険者を諦めた。今はフェンスの外側で紙にサインをし、影の長さで時間を測り、缶コーヒーの味で季節を知る。


 それでも《灯火》だけは手から離れなかった。

 停電の廊下、狭いダクト、暗い鍵穴。無意識に点して、無意識に消す。どうでもよく見える反復が、日々の仕事の至るところへ染み込んでいた。


 フェンスの根元を這うケーブルに指先の灯りをかざし、結束の緩みを確かめる。影が溜まる隙間を覗く。蟻、砂、錆粉。異常なし。


 ──ふ、と胸の奥に引っかかるざらつき。


(……いる)


 《気配察知・微》。

 長いあいだ「気のせい」の箱へ押し込んできた曖昧なノイズが、今夜は形を持って背骨を撫でる。空気がわずかに湿り重く、静けさの粒子が粗くなったように感じられる。


「タカミ、止まれ」


「え、なんです? 猫とか?」


 言葉が落ち切る前に、ゲート膜がふっと呼吸を膨らませた。

 薄皮の内側で擦れる音。白い粒子がにじみ、地面がわずかに沈む。誘導灯の光が輪紋のように広がる。


「主任。三ツ月ゲート前、空気に変動。コンテナ帯の影、要警戒です」


『監視カメラ確認中……神谷、住民の退避を優先しろ。近づきすぎるな』


 フェンスの向こう、廃コンテナの間から黒い影がゆっくり這い出した。

 狼の形をしているが、狼ではない。煤けた銀の瞳、夜そのものの毛並み、湿った石の匂いに鉄の味が混じる息遣い──ダンジョンの匂いだ。


 ダークウルフ。

 やつはフェンス越しにこちらを見た。見られた、と直感した。距離十メートル。フェンス高二メートル。普通の犬なら無理でも、こいつらは普通じゃない。


 タカミが息を飲む。

 背後の歩道には、夜釣り帰りの中年と、最終バスを逃したらしい女子高生が一人。俺たちの動きを見て立ち止まる。


 黒が弾けた。

 爪が金網を掴み、体重を一点へ集め、フェンスの上端を“踏む”。

 拍子抜けするほど軽い動きで、向こう側からこちらへ。


「嘘だろ」


 タカミが凍りつく。

 俺は伸縮警棒を抜いて踏み込んだ。肩の力を抜く。腰で受ける。半歩前。

 学生時代、画面越しに喰らいつくように真似し続けた《剣術・初等》の型。

 真似でしかない。重さがない。切れない。けれど構えは恐怖に膝を奪われないための支柱になる。


 爪が閃く。受け、いなす。衝撃が肘から肩へ抜け、歯が鳴る。手袋越しに前腕が熱い。浅く裂かれた。

 近い。臭い。速い。二撃目が来る。間に合わない。押し返せない。


「逃げろ!」


 俺は背中に向かって叫ぶ。逃げるのは俺じゃない。あの二人だ。守らなきゃ。時間を稼がなきゃ。手は──


 指先が疼いた。


 十年分のどうでもよい反復。暗い廊下、鍵穴、停電、倉庫の隅。

 無意識に点して、消し続けた小さな灯り。


(光れ)


 喉の奥で言葉にならない命令が弾ける。

 《灯火》が点る──はずだった。


 視界が白く千切れた。


 光が爆ぜ、音が遅れて追いつく。

 世界の輪郭が一瞬、真白に晒され、陰影だけの版画へ変わってから色を取り戻す。

 ダークウルフの瞳孔が針のように細まり、黒い体がぎくりと竦む。爪がコンクリートを滑って甲高い音を立てた。


 俺自身も目を焼かれかけて、反射的に顔を背ける。

 白が収束し、夜の色が戻る。

 タカミの短い悲鳴、誰かの息を呑む音、フェンスの軋みが風に揺れる音が、耳の奥へ順に帰ってくる。


「い、今の……なんすか」


 タカミの声は震えていた。

 俺は指先を見た。手袋の布の下で、骨の芯に残る熱が心臓の鼓動と同じ拍で脈打つ。


 閃光──そう呼ぶしかない。

 俺の《灯火》は、今までこんな光り方をしたことがない。柔らかな照明のつもりが、目を奪う閃光に化けた。


 ダークウルフは数歩退き、低く姿勢を落として睨む。怯みはしたが倒れてはいない。二度目が通じる保証はない。

 背後でタカミと住民の足音が離れていく。俺は獣から目を離さず、横にじり下がって距離を取る。


「主任。対象ダークウルフ一。閃光に反応し怯みあり。応援は」


『要請済み。三分で到着。神谷、無理はするな。とにかく持ちこたえろ』


 三分。長い。長すぎる。

 ダークウルフの肩が盛り上がり、喉が低く唸る。踏み込みのタイミングを計っている。賢い。


 右足を半歩引き、肩を落とす。《剣術・初等》。

 守るための型だ。倒すための剣ではない。それでも、何もないよりはましだ。恐怖に身体を乗っ取られないために、型へ体重を預ける。


 黒が走る。爪が縦に薙ぐ。受け、いなして、肩を抜く。骨が軋む。視界が滲む。近い。近すぎる。


(もう一度。光れ)


 声にならない叫びに、指先が応えた。

 二度目の閃光は先ほどより短い。それでも十分。ダークウルフが一瞬、顔を逸らし、足がもつれる。その隙に俺は後退し、フェンスの支柱を背に取った。


 息が焼ける。喉は鉄の味。制服の肩口が裂け、風が布の下を抜ける。痛みは遅れて来る。今はまだ動ける。


「タカミ! 避難は!」


「バス停の向こうまで走らせました! 神谷さんは──」


「大丈夫だ。行け」


 嘘だ。脚は震え、左手は痺れている。

 でも、行け。俺がやる。


 遠くでサイレン。青い回転灯がコンテナの影に砕け、ゲート膜の波紋をいっとき派手に照らす。

 ダークウルフは低く吠え、値踏みするようにこちらを見てから、ひとつ鼻を鳴らし踵を返した。フェンスを二歩で越え、影へ溶ける。ゲートの呼吸は、いつの間にか静まっていた。


 膝から力が抜けそうになるのを、支柱に背中を押しつけて誤魔化す。遅れて腕と肩に痛みが波のように押し寄せ、歯が鳴る。吸って、吐いて、もう一度。


「神谷さん、さっきの光……スキルの、進化、とか……?」


 駆け寄ってきたタカミの目が大きく揺れている。

 進化。そんな言葉、聞いたことがない。

 この五十年、スキルは熟練で強くはなるが、形は変わらない。それが常識だった。


 だけど今の《灯火》は、明らかに別物だ。

 あれはもう照明ではない。目眩まし、閃光。攻撃ではないが──戦いを勝利に導く。


 世界の常識。

 それに一番縛られていたのは、たぶん俺自身だ。


 十五で授かった《模倣訓練》。模倣できるのは数秒、威力は一割。無意味だと決めつけられ、俺自身もそう思い込んできた。三つの枠を《剣術・初等》《気配察知・微》《灯火》で埋め、もがいて、やめた。

 それでも十年、俺は《灯火》だけは手放さなかった。日常の道具として、無意識に、反復し続けた。借り物のまま、ただ使い続けた。


 もし、その反復が熟練へ変わり、どこかで閾値を越えたのだとしたら。

 もし《模倣訓練》が、真似したスキルの熟練そのものを自分の内側に溜め、やがて「借り物」を「自分のもの」へ押し出す仕組みだとしたら──。


「主任。応援は到着しました。俺、救護のあと……ロッカーへ寄ってもいいですか」


『理由』


「ステータス端末を確認したい。……長く開いていないので」


 一拍の沈黙。

『許可する。よく持ちこたえた、神谷。詳細は後で。端末は本人認証だ、他人に見せるなよ』


「了解です」


 俺は無線を戻した。

 ステータス端末──管理局が冒険者と警備員に配る個人端末。生体認証で本人以外は開けず、誰かに見せない限り中身は外へ漏れない。俺はそれを、ロッカーの奥へ長いことしまい込んでいた。


 指先を見る。《灯火》は消えている。けれど、余熱がある。心臓の鼓動と同じテンポで、じんわりと疼く熱。


 サイレンが止み、隊員たちの靴音と指示の声が現実を連れ戻す。フェンスの影はさっきより短く、潮の匂いが少し強い。タカミが俺の肩の裂け目を覗き、応急処置のパックを開く。アルコール綿の冷たさで、体がようやく今の自分を思い出す。


「痛っ……」


「すみません、でも消毒しないと……神谷さん、本当にすごかったです。俺、足がすくんで」


「俺もだ。足はすくんでた。型に体を預けただけだよ」


 型。真似。借り物。

 そこから先へ、俺は行けるのか。


 ゲートの揺らぎが、夜の海の呼吸のように見える。

 半世紀、この国はダンジョンと共に暮らしてきた。産業は育ち、制度は整い、冒険者は職業になった。

 それでも、ときどきこうして向こう側は牙を剥く。照らさなければならない暗がりが、確かに残っている。


 拳を握る。震えはまだ収まらない。だが、その奥で何かが確かに熱を持ち始めている。


 ──まだ、終わっていない。

 明日、端末を開く。

 《灯火》がどう記されているのか。


 潮風が頬を撫で、金属の匂いが混ざって流れた。

 俺は初めて、ゲートの揺らぎを真正面から見据えた。

 闇の向こうに何があるのか。そこへ届く光を、俺は持てるのか。


 指先が、微かに疼いた。

初めまして。ここまでお読みいただきありがとうございます!


本作が処女作となります。

まだまだ拙いところも多いかと思いますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。


主人公・神谷が持つスキル《灯火》は、一見ただの明かり。

ですが、この平凡な力が物語をどう動かすのか、書いていければと思っています。


次回は、神谷がステータスボードを確認する場面から。

灯火がどんなふうに記されているのか、そして彼の運命がどう変わっていくのか──。


「続きを読んでみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや感想をいただけると励みになります!

どうぞよろしくお願いいたします。

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