天に選ばれた者
「うわわっ!!」
俺は慣れない山道に足を滑らし、危うく転落しかけた。
「気をつけろよ」
「はい」
共に進軍する兵士たちが俺の方を見て言った。
今、俺がいるのはルーマニアの山岳地帯だ。トランシルヴァニアから後退したルーマニア軍を追って、俺たちは追撃を仕掛けている。
「上から銃撃だ! 気をつけろ!!」
久々の感覚……。しばらくの間、作戦室に篭っては、あの娘と一緒に紙切れを眺めていたが、今では命をかけた戦闘に加わっている。西部戦線にいたときは、塹壕で嫌というほど銃撃戦を繰り返したというのに、やっぱり俺はこっちの方が性に合っているのかもしれない。
俺は、Gew98を構えて、山岳を利用して身を隠すルーマニア兵たちと撃ち合う。
あの人もついてくればよかったのに。俺はふとそう思った。この後に及んで、怯えたのかもしれない。やっぱり、根は可愛い女の子ということか。
そんなことを考えているせいで、俺の鉄帽子が敵の銃弾で激しく傷付いた。集中しなければ。
「どうだった?」
山岳地帯での戦闘から一度離脱した俺は、上官娘のもとに帰還した。労いの言葉を期待した。
「敵は山岳地帯を利用して身を隠すのみで、特に変わったことは」
「もっと詳しく戦況の様子を教えてちょうだい」
俺が馬鹿だった。この人は、人の使い方が酷いんだった。労いの言葉どころか休憩もありはしないのだ。
結局、俺はこの人に戦場での敵の動きについて事細かく説明し続ける羽目になったーー。
そして再び山岳地帯に入った。だが今度は俺だけというわけではなく、この娘も一緒にやってきた。安全な後方で部下をこき使いたいのか、前線で敵を刈り取りたいのかどっちなのかはっきりしてほしいものだ。
「何よ、その顔」
この人は、こういった俺の心情を読み取るのがとにかく上手い。俺はすかさず顔を逸らした。
ところで、この人が前線に一緒に来るようになってからというもの、山に篭っていたルーマニア軍に苦戦していたはずの俺たちはだんだんと奴らを後退させることに成功していた。特別な指示なんか特にしていないというのに……。偶然だろうか。多分、俺の考えすぎだ。この人が軍神なわけがない。
戦闘は連日と続き、寒い山中で夜を明かすことも何度かあった。満天の星でできた天幕は、まさに絶景というべきものだった。
「ルーマニアももうすぐ陥ちる」
星空を眺めている最中、気がつくと隣に見知らぬ男が座っていた。よく見ると、横腹のあたりに一級鉄十字章がある。
「案外、大したことありませんでしたね」
「油断はよくないよ?」
俺は耳が痛かった。確かにこの男の言う通りだが。
「にしても、穏やかだ。西部戦線の仲間たちにも見せてやりたい」
「西部戦線でも晴れていれば、同じものが見えるのでは?」
俺は言った後に失敗したと思った。無粋なことを言ってしまった。
だが、男は特に嫌な顔をしなかった。
「ははは、違いない。だけれども、彼らの目に映るものが、我々のものと同じとは限らない。彼らは今、狭い塹壕で苦しんでいるからね」
その通りだと思った。塹壕で戦っていた頃はどんなものでも味気なく見えた。世界がいつも、色を失ったように見えた。
「早く決着がついてほしいものだ」
それはみんな思っていることだろう。だが、俺のような取るに足らない一兵卒がどうにかできるものではない。いつも、世界の情勢を動かすのは天に選ばれた、限られた人間だけなのだから。俺にはどうすることもできない。
「……」
「どうかしたのかい?」
あの娘は、どうなんだろう? 俺の頭の中で唐突に、あの上官娘のことが思い浮かんだ。あの人は、すごい人なのだろうか? とにかく、俺の頭の中はそのことでいっぱいだった。何の根拠もないのに。
「すみません。ちょっと席を外します」
俺はきょとんとする男をよそに立ち上がると、彼女を探した。
「はあ……」
「どうしたんですか、ため息なんて吐いて」
「……いたんだ」
「ちょうど今、来ました」
案の定、彼女は兵士たちの輪から外れたところに一人ぽつんと座り込んで何やら色々書き込んでいた。
「ここだと冷えますよ? せめてもう少し暖かいところに行ったらどうです?」
「いいのよ、私はここで」
素直じゃないなと思いながらも、それが彼女らしさだと思ってそれ以上は言わなかった。
「何をなさっているのですか?」
「……」
俺の質問にこの人は何も言わなかった。これもいつもの彼女だ。俺は、少しだけ体を寄せて、暗がりの中、彼女が書いているものを見ようとした。だが、これがいけなかったらしい。
「無礼者!!」
彼女は怒鳴ると俺に肘鉄砲を食らわした。
「ぐふっ……!」
俺は腹を押さえて前に倒れ込む。ーー痛い。
「ふん! 愚か者! 人目につかない所だからって何をしようとしたんだ?!」
「いえ……、別に何もしませんよ……」
断じて下心などない。それは断言しよう。しかし、それが彼女に伝わるはずもないが。
彼女は機嫌を損ねたのか、腹を押さえて悶える俺を放置して場所を移そうとした。俺は、咄嗟に尋ねた。
「あの……、今、我が軍を動かしているのはあなたですか?」
具体性に欠ける。俺は自分でもそう思った。
彼女は、足を止めると俺の方を振り向いて、怪訝な顔をした。
「どういう意味?」
「すみません。つまり、ルーマニア軍の動きを的確に調べ上げ、我が軍が取るべき作戦を練っているのは、あなたなのかと、気になったもので……」
「……」
「ルーマニア軍と対峙する前線に私を遣わしたのは、敵の様子をより具体的に調べるため。司令官に具申書を届けたのは、あなたなりの作戦を伝えるため。違いますか?」
触れてはいけなかったかもしれない。黙っている彼女が怖い。
俺は、少しビクビクしながら彼女が口を開くのを待った。なぜ、ここまで彼女の可能性に期待するのかはわからなかった。
「知ってどうする?」
俺は確信した。この人なんだと。
「俺を、敵の首都にーー、ブカレスト攻撃戦の先鋒にしてください!!」
そして、俺は腹を括った。
一級鉄十字章をつけた人、誰だか分かりましたか? 実は、今作にすでに登場している方なんです。もちろん、実在の方でもあります。興味がある方は、調べてみてください。ルーマニア戦線で戦った歴史上の人物を。




