福音書の男
「撃て!!!」
ドイツ軍のみならず、オーストリア軍も含めた砲兵部隊が敵に一矢報いようと反撃の狼煙を上げた。
彼らが放った弾は停滞するロシア軍を激しく攻撃する。アグネスの観測から計算に至るまでの一連の指示は完璧であった。
「やりましたぞ、フォーゲル殿!」
見事な砲撃に感極まった兵士がアグネスに言うが、しかしアグネスは眉間に皺を寄せたまま表情を変えなかった。
「これはまだ第一段階の攻撃に過ぎません。喜ぶのは敵が撤退した後にしましょう」
アグネスは比較的優しく言った。だが、その油断を許さない態度は兵士の気持ちを引き締めた。
「失礼しました!」
この日のドイツ・オーストリア同盟軍の攻撃は見事なものであった。それまで勢いにのって進撃を続けていたロシア軍は一度、足を止めた。
「もう少し敵の正確な位置情報がほしいな……」
アグネスは独り言をこぼした。それを聞いた下士官が反応した。
「でしたら、一人『無謀』な……、あ、いえ、『勇敢』な兵士がおりますよ?」
「勇敢?」
アグネスは興味を抱いた。一体どんな人物であろうかと。
提案した下士官は、その人物はドイツ軍兵士ではないからと、しばし待つようアグネスに言った。
アグネスはお気に入りのヘルメットを両手で持って、まじまじと見て待っていた。
(みんなは、石炭バケツみたいでカッコ悪いとか言うけどそんなことはないと思うんだけどなぁ……)
事実、この鉄兜は兵士の頭を以前よりもよく守った。
しばらくして、顔の彫りが深く鼻が高い、いかにも格好良い男が連れてこられた。
「フォーゲル殿、連れてきました。自己紹介を頼むよ」
男は自己紹介を促されて答えた。
「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン伍長です。お役に立てれば光栄です」
「私は、アグネス・フォーゲルです。そういえば、私の階級ってなんだっけ?」
アグネスはウィトゲンシュタインが彼の階級を言ったのを受けて自身も階級を言わなければならないと思ったが、忘れていた。というより、急いで東部方面に来たため階級の通知もなく前線に来たのだ。
ウィトゲンシュタインは、アグネスが自分の階級を思い出すのに苦労している最中に奇妙なことを聞いてきた。
「フォーゲル殿、あなたは今幸せですか?」
アグネスはウィトゲンシュタインの質問に目を丸くした。
「え?」
「よければこの『福音書』を……」
「あ、フォーゲル殿。すみません、こいつは少しだけ変わっているのですよ」
ウィトゲンシュタインを連れてきた下士官は、彼が取り出そうとした福音書を抑えて話を途切った。
アグネスは、突然福音書を提示されたので、頭が真っ白になった。とりあえず、信仰心のあつい兵士ということはわかった。
「ロシア軍の位置を探ってほしいのですね?」
「そうです。観測した情報をもとに再び砲撃を敢行します。そして、敵の位置次第で歩兵による攻撃も行いたいのです」
「わかりました。私が身命を賭して行ってきます」
「敵の砲撃には十分気をつけて」
「はい」
アグネスはウィトゲンシュタイン以下数名に依頼して、ロシア軍の待機場所を探ってもらうことにした。彼らにとっては少々危険な任務である。
アグネスは送り出した後に心配になった。
(大丈夫かな……)
不安そうな表情を浮かべるアグネスを見て、補佐官が言った。
「フォーゲル殿、彼が伍長に昇進した直接の理由がなんだかご存知ですか?」
「いえ」
「彼は、この間にロシア軍の攻撃を受けた際、オーストリア軍の避難勧告も受け入れずに剣林弾雨の中を戦い続けたのです。それを評価されて昇進したのですよ」
アグネスは驚いた。彼の見た目の暗さとは裏腹に相当勇敢な男らしい。
しかし、補佐官は付け加えた。
「まあでもそれは彼が本当の意味で勇敢というよりかは、彼が鬱病を拗らせることがあるからなのですけどね」
ウィトゲンシュタインーー、この「福音書の男」はしばしば自殺を考えるらしい。
アグネスは、やっぱり変な人だと解釈した。
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