勝利の追悼
ひとつひとつの悲しみには意味がある。時には、思いもよらない意味がある。どんな悲しみであろうと、それは、このうえなく大切なもの。太陽がいつも朝を連れてくるように、それは確かなことなのですよ。
エラ・ウィーラー・ウィルコックス(1850-1919)
そよめく風の中、ラインハルトは腕を組んで敵軍の動きを監視する。ラインハルトの身なりは多くの土埃が被り、顔は少し黒くなって汚れている。その立ち姿はまさに、指揮官と呼ぶにふさわしいのではないかと思われるほどであった。
8月26日の激戦を耐え抜いた後も、ドイツ騎兵第一師団とロシア第一軍の戦闘は続いた。ドイツ側は初日ほどの遅滞戦術をうまく繰り出せた訳ではなかったため、27日の敵の攻勢には苦戦を強いられた。
だが、戦局はドイツ側に有利に動いた。その日、南部に移動したドイツ軍はロシア第二軍に攻撃を加え、多くの場面で敵軍を押した。さらに、翌日も情勢は有利に進み、第二軍は危機的な状況に陥った。
ここにきて、さすがにサムソノフもレンネンカンプに救援を要請。しかし、騎兵第一師団が援軍を阻止していた。ラインハルトはまさに、その援軍の動きに目を光らせていたのだ。
(ここで第二軍に反撃の隙は与えない…)
ラインハルトは拳に力を込めていた。
「少尉殿。また、敵軍が仕掛けてきました」
「焦らずに、指示通りに撃ってください。もう、こちらのものです」
第一軍はラインハルトの砲撃を突破できずにいたーー。
ハア…、ハア…。
たくましい髭を貯えた男は無我夢中で走っていた。先日まで勝利を確信していたこの男は、今や自身の命が風前の灯火にあるのを知って、混乱に陥っている。
(なぜだ?何が起こっている?どうして、ドイツ軍があんなに大量に?!)
男は疲労で足につまづき、倒れ伏した。
(レンネンカンプめ、なぜ援軍を出さない…?そもそも、あいつとは極東で戦った時も…。いや、今はそんなことよりツァーリにご報告を…)
男は起き上がろうとして固まった。
(なんて報告するのだ…?『勝利を目前にして、味方との連携を怠り敗北しました』とでも言うのか…?)
男は苦笑した。軍人としてこれほど恥ずかしい報告はないと判断したのだ。
男は敗残兵として祖国に戻ることよりも、軍人として誇り高く死ぬことを選んだ。
ーー8月29日 アレクサンドル・サムソノフ自決
ザクッ ザクッ
地面を掘り起こす音が無情にも聞こえてくる。掘り起こされた土はすぐそばで山積みとなっている。大きな穴が出来ている。
ラインハルトは呆然と、その様子を見ている。
しばらくそうしていると、師団長がラインハルトの側にやってきた。
「君には本当に感謝している」
ラインハルトは、正面を向いて返す。
「畏れ多いお言葉であります、師団長」
「いや、これは本当の思いだ。君の作戦、君の指導がなければ、この勝利はなかった」
ラインハルトは格別の対応をもらい困惑している。
「私の力ではありません。勇敢なドイツ騎兵、歩兵、そして砲兵の方々が命がけで戦ってくれたおかげです」
ラインハルトの脳裏にエドゼルの姿が蘇る。
「エドゼル君について、少し君に伝えたいことがある」
ラインハルトは首を傾げた。
「彼は本当は実直で優しい人間なのだ。君には想像もつかないと思うがね」
ラインハルトは案の定驚いた。殴られた時の印象があまりに大きかったからだ。
「彼は敵に対してだって情けをかける。そういう発言もいくつかあった。本当にドイツ軍人の誇りだ」
師団長は空を眺めて続ける。
「君を殴ったのはね、私に対してとても失礼な態度をとったと、彼が判断したからだ。私は何も気にしていなかったが、彼の軍人としての誇りが君を許さなかったんだと思う」
ラインハルトは、申し訳ないと思った。軍人として以前に、社会的な意味で、ひどく横柄であったと反省した。
「あの時は、本当にすみませんでした。軍人以前に人として、ダメでした」
「いいんだ。誰だって失敗はある。事実、君は挽回をした」
師団長は少し間をおいた後に言う。
「エドゼル君は、君を殴ったこと、酷く後悔していた。彼は暴力は嫌いなのだ」
「軍人なのに、ですか!?」
ラインハルトは驚いた。エドゼルへの印象がどんどん変わっていく。
「彼は国のために武器を持っている。それを私心で振るったことは一度もない」
ラインハルトは言葉を失った。口が少し開いたままになっている。
「そういうわけだ。どうか、彼を追悼してやってほしい」
そう言って師団長は去っていった。
ラインハルトは少し呆然としていたが、振り返って小さな山をみる。
(エドゼル大佐、ありがとうございました。この勝利をあなたに捧げます…)
ラインハルトは地面に開いた穴に送り込まれる英霊たちに敬礼をした。
空は何事もなかったかのように、青く澄み渡っているーー。
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