表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/47

一七〇一年五月二十日十六時 江戸城老中御用部屋

 「ほう、舎弟大学ご赦免の上、人前がなるように……左様、大石は申しておったか」

 軽の報告を受け、法家の阿部豊後守が呟く。無論、残り四人の老中はみな、その呟きの意を等しく理解している。「人前がなる」とはこの際、大変重い意味を持つ。つまり、大学長広は兄長矩の罪に連座して現在は閉門を命じられているが、閉門そのものはいずれ解かれる可能性が残っている。ご赦免となれば旧領のうち、元の五万石は無理でも、改めて一万石や二万石なり与えられ、お家再興が叶うかもしれない。しかしそれでも「人前がなる」とは言えない。すなわち、大学が晴れて再び大名旗本に取り立てられ江戸出仕などが叶ったとしても、吉良上野介が変わらず出仕しているようでは人前はならないのである。長矩が処罰され、一方の上野介もまた処罰された上で改めて大学が取立てられて、初めて大学の「人前」がなる。

 「しかし、それは上様の御意ではあるまい」

 かつて、親戚筋の稲葉正休による堀田正俊暗殺に連座して職を遠慮した稲葉丹後守が、自身の過去を振り返りながら言うだけに、その言には余の者には無い深みがある。将軍綱吉が吉良上野介には罪なしと決したのである。大石の申し出はその将軍親裁を取り消せと言うに等しく、容易に受け容れられるものではあるまい。それゆえに、この座にある者はみなひとしく、大石の願いが叶わぬことを覚っている。

 「されど大石の願い、この際にあっては却って好都合」

 発案者の秋元但馬守の言にみな一様に頷く。秋元の言いたいことを小笠原が代弁する。

 「大学殿お取立ての可能性が残される限りにおいて、大石は赤穂旧士の暴発を防ぐ役割を果たすであろう。公儀の評定に時がかかれば、それは赤穂旧士にあってはまこと覚悟のある者を篩にかける好機となる一方、吉良家にあっては赤穂旧士襲撃への警戒をゆるめる隙となろう」

 「されど、結論としては大石の願いは叶うことなく……」

 秋元が後を受ける。

 「吉良に隙ができ、赤穂藩士が未だまとまる限限の時宜を見計らって我らが大学取立てを否決せば、神君の遺言は果たされるであろう」

 この策の急所のひとつは、赤穂藩士による吉良襲撃に時宜を得ることである。この時公儀は、最も好ましい時宜に赤穂旧士をして吉良を襲撃させる手段として、大学お取立ての否決を以ってそれに充てる術を得た。大学を浅野本家なりにお預け処分と決すれば、そはすなわち赤穂藩士どもをして吉良襲撃に決起せしめることであろう。

 「残る問題があとひとつ。吉良側をいかように御するか……」

 阿部の言う通りである。まずは吉良を警戒させ、しかしながらその警戒の厳なる時に襲撃のないことを以って吉良を緊張に厭きさせ、吉良の隙を誘う必要がある。尤も、警戒のあまり上野介に国許に下がられてしまっては、赤穂藩士も襲撃しようもないであろうゆえ、上野介をいかに江戸に滞在させ続けるか、という問題も同時に残っていることになる。幸い、上野介は未だ隠居をしておらず、また高家は江戸常駐が倣いゆえ、しばらくは江戸に滞在しておろう。しかし高齢のことでもありそもそも、此度のことが無くとも家督を嫡子に譲っていてもおかしくはない頃合ではある。幸いと言うべきか吉良の世子義周は本年正月に元服したばかりの若年であった。ちなみにこの義周は上野介には実孫であり、その実父綱憲は上杉家に養子に入って家督を継いだ。その綱憲の次男義周が改めて祖父上野介の養嗣子に入る形で吉良家の世子となっているため、未だに高齢の上野介が家督を守っているのである。

 「さらば、江戸市中に噂を流せばいかがであろう。赤穂の旧士どもが上野介を仇に思い、吉良家襲撃を企てておる、と」

 策士秋元の言に新陰流達人の免状を持つ小笠原佐渡が再び頷く。

 「左様、町民どもの噂に怯え国許に引き下がるなどせば、吉良殿とて武士の面目が立たぬであろう。噂が立てば立つほど、上野介は江戸に留まらざるを得ぬが道理」

 みなの意を聞いていた老中首座土屋相模守が総意をまとめる。

 「さらば各々方の申される通り。赤穂の者どもを制するについてはこれを、大学処分決定の沙汰を以って時宜とす。吉良については市井の者どもに噂を流し、以って警戒に疲れさせると同時に、上野介殿を江戸に縛り付けることとす。よろしいかな」

 他の四人の老中が軽く低頭するのを見て、土屋は天上裏に声をかける。

 「さらば軽。伊賀者どもを使うて早速そのように手配せよ。なるべく大仰に」

 「はっ」

 天井裏から帰ってきた軽やかな声には、どこか少し茶目っ気が含まれている。諜報を扱う者としては、他人の情報を得ることよりもむしろ、自己の情報を持って他人を操作することに興を感じるのであろうか。やり過ぎなければよいが、と土屋が多少の不安を覚えた時、軽が続けて問うた。

 「尚、大石殿は浅野家祈願寺の住職祐海和尚を江戸に使いさせ、隆光大僧正殿を通じて浅野家再興の歎願を図るつもりの様子。こちらの方はいかがなさいましょうか」

 しばしの思案の後、土屋が返ずる。

 「そちらはそのままでよい。浅野家再興はすなわち、上様ご親裁の過ちを認めること。隆光大僧正も、上様のご勘気をかってまで大学殿取立てを歎願するとは思えず。また仮に隆光大僧正が上様に言上申し上げても、柳沢出羽守殿がこれを取り上げるとも思えぬ。さらば、大石には大学取立てに向けて手を尽くさせよ。手を尽くす間はすなわち、赤穂旧士の暴発もあるまい」

 「さらば再び軽殿の幻術を拝見させて頂こうか。赤穂旧士の……何と申したか、国許から歎願に参った藩士を掌で弄んだような……」

 阿部には珍しいこの軽口は軽の諜報を信用していることを証すものであり、それと分かる軽は、多少の謎解きを交えてこれに応える。

 「阿部様にはご冗談を……軽は幻術などは用いませぬ。ただ、人はそれぞれ見たいと思うものしか見えず、聞きたいと思うものしか聞こえぬもの。さらば軽は見たいと思うものを見せ、聞きたいと思うことを聞かせるのみ。市井の者どもも、赤穂藩士の仇討ちとあらば悦に入りましょう」

 「どうせなら儂は、悦に入る軽殿の艶姿を見、嬌声を聞きたいものよ」

 またしても軽を誘うかのような稲葉の言ではあるが、軽には気に留める様子もない。

 「稲葉殿、くノ一の秘めし毒は幻術よりも恐ろしかろう。我らはその毒気に宛てられぬよう、せいぜい互いに用心しようではないか。さらば軽、そなたの働きを期待しておる」

 老中首座土屋の言葉が終わるや否や、天井裏から気配が消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ