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[完結(全47話)]神君の遺言 ~忠臣蔵異伝:幕閣から見た赤穂事件~  作者: 勅使河原 俊盛
第六章 流浪の士
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一七〇一年七月十三日十八時 山科大石邸

 赤穂での残務処理を全て為し終えた大石は、六月二十四日に浅野家の菩提寺華嶽寺で故長矩の百箇日法要を営んだ後、先に歌留に手配させておいた山科の屋敷に移り住んでいた。その大石の元には江戸滞在中の堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫らから再三に亘り手紙が届けられている。

 「江戸詰めの者どもは今にも吉良邸に討ち入らんがばかりの態よ……」

 手紙を読み終えた大石は、困惑と苦笑を織り交ぜた口調で呟く。江戸詰め、すなわち江戸屋敷には往時五十名ほどの家臣が詰めていた。これらの家臣は二年に一度の殿様参勤交代に備え常住、すなわち国許に帰ることなく江戸に住み続けていたものであり、彼らの一部はお家取り潰しの後も引き続き江戸に滞在し、現在は浪人生活を余儀なくされている。

 「堀部様などは武士の一分などと申され、高田様、奥田様らと意気投合なされているご様子」

 庭蔭から若い女性の声が返ってくる。堀部安兵衛などはかつては浪人の身であったものを、その高名を買われて赤穂藩家臣堀部弥兵衛の養子に迎えられ、長矩の代から浅野家に仕官するようになった者である。そんな堀部を動かしているものは自分個人の武士としての名声であり、累代の家臣のように大学長広によるお家再興などを夢見てはおらぬのであろう。思えば赤穂城における家中評定の際より、堀部は篭城抗戦を唱えていた。それはつまり武士の一分を守ることを至高とする思考。

 「私共儀、上野介殿眼前に指し置き、いずれも不快の儀に存じ、三人寄り合って見申すほど、日々に指し置き難く……」

 堀部の手紙は江戸にある者ならではの心情を物語っている。彼らは眼前で主君を失った。主君の没したと同じその江戸に、その仇がなほ何のお咎めも受けずにあり続けることは、彼らにとって不愉快極まりないことであろう。同じ赤穂浅野家家臣とは言え江戸と国許の距離の差は、そのまま仇討ちに対する温度差になって現れているようにも思われる。無論、大石とても仇討ちのことを考えぬでもないが……

 「そうは申すが、いまどきは吉良家の方でも充分に警戒しておろう?」

 堀部からの手紙にも吉良家の警戒の様子が報告されてはいるが、実際に邸内に潜入などして実見しているであろう歌留の報告を大石は求める。

 「恐れながら、江戸詰めの方々だけでは未だ人数が足らず、ご本懐を遂げられることは適わぬか、と」

 そのように理解しているからこそ、堀部らも迂闊に討ち入ることはできずにいる。そのため大石を始めとする国許の藩士の助成を得るべく、こうして大石に訴えてきているのであろう。

 「あの者らも、まずは大学様お取立ての線で理解してくれたものと思うておったが……」

 家中評定では開城として結論を得たが、大石と堀部ではその後の構想が異なる。大石の構想はお家再興運動と仇討ちの二段構えだが、堀部は一足飛びに仇討ちを志向している。

 「堀部様には、お家再興と討ち入りは相成り難く、とお考えなのではありますまいか。すなわち、お家再興なれば仇討ちはなせず……」

 お家再興とならば仇討ちの名分が立たなくなろうし、仮に仇討ちを行えば、それは大学の命であるとして今度は大学自身が処罰の対象となろう。また、一度藩士達が再興なった大学長広に仕官してしまえば、今更仇討ちの人数は集まらなくなろう。一方で……

 「仇討ち無くば、人前ならず……か」

 大石が再び呟く。上野介が処罰されなければ大学の人前はならないのである。しかし将軍綱吉直々に上野介に罪なしと決した以上、公儀が改めて上野介の罪を認めるとは考えにくい。そして仮に公儀が上野介を処罰しないのであれば、赤穂旧臣が上野介を討たぬ限り、例え大学が取り立てられても真の意味でのお家再興が成ったとは言えぬであろう。

 つまり堀部は、仇討ち無くしてお家再興はないが、お家再興のためには仇討ちができない、という点において大石の思考の矛盾を突いているのである。そうであればいっそ、即刻仇討ちをしてしまおう。堀部の即時仇討ち論にも理はある。つまり、上野介は高齢であること。あるいはいつ何時、隠居して国許に引き下がってしまうか分からぬこと。隠居先が三河吉良庄ならいざしらず、実子を養子に出した米沢藩上杉家に匿われてしまえば、仇討ちの機会は永遠に失われるであろう。

 「堀部様は何としても大石様に江戸へお下り頂き、ご心情をお訴えなさりたいご様子」

 「左様……先の手紙などは、芝高輪泉岳寺で殿様の百箇日法要を営むゆえ参列して欲しいとの趣意であったが……華嶽寺でも法要を執り行うゆえ、江戸下向など無理筋であると申すに……堀部も必死のことよ」

 「それで、大石様はどのようになされるおつもりで?」

 歌留の問いに暫しの思案の後、大石がまるで昼行灯のように問い返す。

 「そもそも、大学様お家再興と仇討ちの両立を進言したのは歌留の方であろう。何かよい思案はないものか」

 大石の問いの意はどの辺りにあるのであろうか。確かに歌留はお家再興がならなかった場合の仇討ちを献策したが、ここに人前という概念を導入すれば自己矛盾を発生させる。果たして大石は、この自己矛盾を歌留の所為にしようと、単に責任回避を図っているだけに過ぎぬのであろうか。あの大石自身が無能と蔑んだ歎願使の多川や月岡と同じように。あるいは、口先では仇討ちに触れてはいるもののその実、それは堀部らを抑えるための方便であり、本心ではお家再興による再仕官を望んでいるのであろうか。主君なき後の家臣団を纏め養う責は累代筆頭家老の家柄を継ぐ者にあるとせば、大石はまさに旧家臣の再仕官のために働こうと考えていたとしても、ゆえないことではないが……よもや、本気で公儀に吉良を処罰させようと考えているのではあるまい。大石の真意を図りかねる歌留は、しばしの沈黙の後、無難な妥協点を見出して返答する。

 「いずれにせよ、今大石様が江戸へ下るのはお辞めになるがよろしいかと」

 「うむ、堀部らを勢いづけるわけにもいくまいゆえ……」

 「どのみち、今のご人数ではご本懐は遂げられますまい。それは堀部様もよくご存知のこと。大石様のご助成なくして決起することはあり得ますまい」

 「左様……吉良が警戒する分だけ、堀部も迂闊には動けなくなろう。そこで歌留にひとつ頼みであるが、江戸市中に噂を流してくれぬか。赤穂藩士が殿様の仇を討つがため吉良家に討ち入ろうと思案している、と。さらば吉良は警戒を強めようし、それだけ堀部らは動きにくくなるが必定」

 「堀部様にはお辛いことでしょうが……」

 大石の口から発されたものは、偶然にも秋元の策と同じ発案であるが、多少意図する方向は異なっている。秋元は、上野介の武士の面目を逆用して、これを江戸に縛り付けるための手段として。大石は、吉良の警戒を逆用して、堀部を押さえ込ませる手段として。後に歌留はこの二人の発案に若干の演出を行った。「大学の人前」という劇薬を添加物として噂に投入すれば、大石を仇討ち路線に縛り付ける手段とすることになるであろう。大石に、真にお家再興を目指されては、公儀としては困るのであるから……

 「儂からは堀部宛に手紙を出すこととしよう。当方とかくの存念なく、ただ大学様御為に宜しい様とのみ一筋である、と」

 そんな歌留の計算を知ってか知らずか、大石は早速手紙を書き始めた。

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