楽だな。
「藤原紗季さん。聞こえますか?」
「……はい」
「現在、あなたは生活の多くを、もう一人のあなたへ任せています」
「……はい」
「もう一人のあなたが身体を使用している間も、必要であれば意識を覚醒させ、周囲の状況を把握することができます」
「……はい」
「そして現在、あなた自身が身体を使用しなければならない場面は、特に思い浮かばないのですね?」
「……はい」
「ではこれからは、基本的には、もう一人のあなたが身体を使用することにしましょう」
「あなたが自分で身体を使用したいと思った時には、これまでと同じように交代できます」
「また、あなたが望んだタイミングで、身体をもう一人のあなたに任せたまま、意識だけを覚醒させることができます」
「……はい」
「普段は、身体を動かす必要はありません」
「生活に必要なことは、もう一人のあなたが行います」
「あなたは、必要だと思った時だけ、起きれば構いません」
「分かりましたか?」
「……はい」
......
翌朝。
紗季は意識だけを起こしていた。
以前から、朝の支度や通学は完全に任せている。
なんとなく、起きてみようと思っただけだった。
歯磨き、洗顔、メイク、朝食。慣れた手つきで、紗季の身体はタスクをこなしていく。
電車に乗って、大学へ向かう。
身体はつり革を持って立っていた。
目の前の人がスマホを見ている。
次の駅を知らせるアナウンスが聞こえる。
特に変わったことはない。
視界が、外の景色へと移った。
身体を支える必要もない。
降りる駅を気にする必要もない。
乗り換えを考える必要もない。
ただ、見ていればいい。
暇、ではあるのだが、意識だけの状態は、妙な心地よさがあり、このままこの感覚を味わっていたいと思わされる。
しばらくすると、電車を降りた。
人混みを歩く。
改札を出る。
大学へ向かう。
自分は何もしていない。
これでいいじゃん。
紗季はそう思った。
自分で歩いていなくても、自分はここにいる。
何かを考えることもできる。
必要なら、いつでも交代できる。
ただ、交代する理由がないだけだ。
そのまま教室へ入った。
友達がいた。
「おはよー」
「おはよ」
もう一人の自分が答える。
紗季は内側からその様子を見ていた。
友達はいつも通りだった。
何の違和感もない。
「昨日送ったやつ見た?」
「見た見た、やばいね」
「ねー」
二人が笑う。
紗季も面白いと思った。
でも、自分で笑おうとは思わなかった。
もう一人の自分が笑っている。
自分も、その会話を聞いている。
それで十分だった。
そんな生活が続いた。
紗季は、ほとんど身体を使わなくなった。
朝から夜まで、もう一人の自分が生活する。
紗季は、気が向いた時にだけ起きる。
友達と話している時。
面白そうな店へ入った時。
SNSで何か話題になっている時。
映画を見ている時。
そういう時だけ、目覚める。
身体を動かしているのは、ずっともう一人の自分だった。
最初は、一日のうちに何度も起きていた。
気になったからだ。
授業前と授業終わり。
昼休み。
放課後。
目を覚まして、状況を確認する。
毎回、何の問題もない。
そのうち、起きる回数が減った。
見なくても、どうせ大丈夫だからだ。
それに、眠っているのは気持ちがいい。
もうすぐ昼休みです。
もう一人からアナウンス。
起きようかな。
今日は別にいいか。
友達と何を話したかは、後から分かる。
何を食べたかも思い出せる。
また眠る。
放課後。
今日は友達と買い物へ行く予定だった。
少しだけ起きる。
店の中。
友達と服を見ている。
「こっちの方がよくない?」
「うーん、そうだなあ」
二人が話している。
楽しそう。
また意識を沈めた。
ある夜。
紗季はベッドの中で意識を取り戻した。
照明は消えている。
身体はもう眠る準備を終えていた。
今日、何してたっけ。そう思うと、すぐに記憶が浮かぶ。
大学へ行った。
授業を受けた。
友達と昼食を食べた。
放課後、服を見に行った。
夕食を食べた。
帰宅した。
風呂に入った。
全部覚えている。
ほとんど起きていなかったのに、何をしたか分かる。
だったら、別に起きる必要ないな。
少し前までは、何もかも任せるのは怖かった。
でも、今は違う。
眠っていても、後からちゃんと思い出せる。
自分は消えていない。
起きようと思えば、起きられる。
身体を動かそうと思えば、交代できる。
ただ、そうする必要がない。
それだけだ。
紗季は安心して、再び眠った。
それから、紗季が起きる時間はさらに減った。
一日一回
数日に一回。
起きても、ほんの数分だけ。
なんとなく記憶を確認する。
問題なし。
また眠る。
やがて、それすら面倒になっていった。
何かあれば、もう一人の自分が対処する。
交代しないといけない状況になったことは一度もない。
だったら、わざわざ起きて確認する必要はない。
ある日、紗季は、久しぶりに意識を取り戻した。
目の前には友達がいた。
カフェらしい。
紗季は会話を聞いた。
最近あった出来事。
大学の話。
共通の知人の話。
どれも分かる。
自分が眠っていた間のことも、記憶として残っている。
私、最後に起きたのいつだっけ。
思い出そうとした。
数日前だったような気もする。
もっと前だったような気もする。
でも、別にどうでもよかった。
その間のことはだいたい覚えている。
自分が起きていなかったというだけだ。
友達がスマホを見せてくる。
「これ来月行かない?」
「いいじゃん、行こ」
もう一人の自分が答えた。
紗季も、その予定でいいと思った。
紗季はまた眠った。
......
さらに1か月後。
「この1か月はいかがでしたか?」
「問題ありません」
女性の問いに、もう一人の紗季が答える。
「藤原紗季さんご本人と交代できますか?」
「はい」
「では、お願いします」
少しの間、紗季の身体が目を閉じた。
「作業を一時終了します。交代します」
紗季は久しぶりに身体の感覚を取り戻した。
「あ」
自分で声を出す。
手を見る。
指を動かしてみる。
普通に動く。
「お久しぶりです」
女性が言った。
「そうですね」
「最後にご自身で身体を使用したのは、いつですか?」
「えーっと……」
紗季は記憶をたどった。
「分かんないです」
「かなり前ですか?」
「たぶん」
「不安はありませんか?」
「ないです」
「生活の内容は把握できていますか?」
「はい」
「大学生活については?」
「普通です。課題も出してるし、授業も出てます」
「ご友人との関係は?」
「普通ですよ」
「最近何をしたかも覚えていますか?」
「覚えてます」
「では、自分で身体を使用していなくても、問題はない?」
「ないですね」
「ご自身で身体を使用したいと思いますか?」
紗季は少し考えた。
久しぶりに身体を動かしている。
手を動かす。
足を少し動かす。
別に嫌ではない。
でも、自分で動かしたいとも思わなかった。
考えなければならない。
次に何をするのか決めなければならない。
話す時も、自分で言葉を選ばなければならない。
身体を使うというのは、思ったより面倒だった。
「別に、いいかな」
「では、もう一人のあなたに任せたままでいい?」
「はい。起きたくなったら、起きればいいので」
......
「新人格へ」
「はい」
「旧人格が安心して休息できるよう補佐してください」
「はい」
「藤原紗季として、生活を継続しなさい」
「はい」
......
翌朝。
藤原紗季は、目覚ましが鳴る前に起きた。
スマートフォンで時間を確認する。
ベッドから出る。
顔を洗う。
朝食を作る。
食べる。
化粧をする。
大学へ行く。
友達と会う。
「おはよー」
「おはよ」
「今日早いね」
「目が覚めちゃって」
授業を受ける。
昼食を食べる。
放課後、友達と買い物へ行く。
写真を撮る。
SNSへ投稿する。
家へ帰る。
課題を進める。
夕食を食べる。
風呂へ入る。
明日の予定を確認する。
ベッドへ入る。
藤原紗季の生活は、何も変わらず続いていた。
遅刻もしない。
課題も忘れない。
友達とも普通に付き合う。
楽しいこともする。
写真も増えていく。
記憶も残っていく。
その日。
元の紗季が一度も目を覚ますことはなかった。
翌日も。
その次の日も。
藤原紗季は、いつも通り生活していた。




