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はじめての催眠体験と、新人格の生成

大学の掲示板に貼られたチラシに、紗季の目がとまった。


「被験者募集。

 *催眠術を用いた、生活の質の向上に関する研究*

 朝起きられず、一限に間に合わないアナタ!

 課題を先延ばししてしまい、締め切り直前に徹夜しているアナタ!

 そのお悩み、催眠術で解決できるかも?ぜひ、お気軽にお問い合わせください」


「催眠術だって」一緒にいた友達に声をかける。

「ふーん......ええっ!見てこれ!」友達が声をあげ、そのチラシを指差した。

「どうしたの?」

「紗季のことが書いてる!」

「うるさいな」

「受けるしかないじゃん、ピッタリだよお」

「えー、でも怪しくない?」

「お金も貰えるって!」

「でもなー」

「ついてってあげるからさあ」

「うーん」

「今日空いてるよ!」友達がチラシのQRコードを読み込んで言った。場所の案内と、予約フォームが表示されている。場所はこの大学の構内だ。

「分かったよ......じゃあ三限終わりね」

友達に押し切られる形で、紗季は予約を入れた。


会場である教室の前に、受付とおぼしき女性が座っていた。

「あのー、予約した藤原ですけど」

「少々お待ちください......藤原紗季さんでお間違いないですか?」

「はい」

「お待ちしておりました。まず、ご説明いたしますので、おかけください」女性は複写用紙を取り出し、説明を始めた。

「こちらは、貴学と弊社による、共同研究事業になります。平たく言いますと、催眠術を使うと、生活に良い変化をもたらすことができますよ、ということを示すための研究です」

「被験者の方には、最初の1か月間は週1回、その後は月1回、定期的に様子を見せていただきたいです。期間は1年間、1回あたりの謝礼は5000円、時間は30分以上1時間以内です」

「内容は、お悩みの聞き取り、AI機器による催眠暗示の施行、脳波の測定です。本研究で収集した個人情報は、研究以外の目的には使用しません」

「毎回5000円もらえるんですか?」

「そうです」

「様子を見る日は決まってますか?」

「ご都合のいい日と時間を選んでくださって結構です」

「1年続けないとダメですか?」

「最初の4回と、そのあとの1回は必ず来ていただきたいです。そのあとは、途中でやめていただくこともできます」

おいしいバイトじゃないか、と紗季は思った。「分かりました、参加します」

「ありがとうございます。それでは、こちらへ署名をお願いします」

署名が終わると、女性は控えを紗季へと渡した。

「ご協力ありがとうございます。中へどうぞ」

「付き添いの子も一緒でいいですか?」

「もちろんです」

女性に案内され、友達と二人で教室へ入る。

中にはリクライニングチェアとモニター、それにいくつかの機械が置かれていた。


「催眠術を掛けるのは、このゴーグルとヘッドセットに搭載されたAIです。また、脳波を測定するため、このベルトもつけていただきます。トゲトゲがありますが、痛くはありませんのでご安心ください。」

ベルトのところどころに、小さな剣山のようなものが付いている。

「途中で気分が悪くなる等、異常が起きた場合は声やジェスチャーで合図してください。お急ぎでなければ、これから初回のセッションを始めたいのですが、いかがですか?」

「大丈夫です」

「ありがとうございます。それでは準備しますので、おかけください。手元のボタンで角度が調整できますので、楽な姿勢をとってください」

紗季はリクライニングチェアに身体を預けた。

女性が機械を紗季に装着する。

「キツすぎたり、痛みはありませんか?」

「大丈夫です」

「それでは始めます。音声が流れますので、指示に従ってください」

「はい」


「こんにちは」

ヘッドホンから声がした。機械っぽさはほとんどない。

「これから、あなたに催眠術を掛けます」

ゴーグルに閉ざされていた紗季の視界が明るくなり、画面中央に白い点が表示された。

「点を見続けてください」

点がゆっくり動く。右......左......右......左......右......左......段々と目が疲れてきた。

「まぶたが重くなってきた場合、そのまま閉じて構いません」

そう言われた途端、本当にまぶたが重くなった気がした。

紗季は、私って単純だな、と思いながら目を閉じる。

「息を吸って......息を吐いて」音声に合わせ、ゆっくりと深呼吸をする。

「力を抜きましょう。自分がクラゲになったと想像してください。水槽の中を、ゆっくりと穏やかに漂うクラゲ。なにもせずとも、水の流れがゆっくりとあなたを運んでくれます」

「やがて、クラゲは柔らかな砂の上にゆっくりと着地します。ここで休むことにしましょう。だらんと力を抜いて、ぼーっとリラックス......ゆっくりと水が流れる感触、少しだけゆらゆらと揺れる自分の身体、砂の柔らかさ、かすかに響くポンプの振動......」

「私の言うことを意識してください。ゆっくりと水が流れる感触......砂の柔らかさ......かすかに響くポンプの振動......」

「ゆっくりと水が流れる感触......砂の柔らかさ......」

「ゆっくりと水が流れる感触......」

「あなたはもう、私の声以外、何も感じない......何も考えない......私の声に反応するだけ......私の声を待つだけ......」

紗季の目はうつろに、口は半開きになっていた。四肢は完全に脱力し、糸の切れた人形のようだった。


「催眠状態に入ったようですね」女性がタブレットに目を落としながら言った。

「おおーっ」友達はスマホから目を離し、興味深そうに紗季を見つめる。

「写真いいですか?」

「ええ、どうぞ。よろしければ、お連れ様もこの後いかがですか?」

「いやー、悩みがなくて」

「それは何よりですね。あと20分ほどで終了するかと思います」

「分かりましたあ」


「あなたは、夜更かしと寝坊をしがちなこと、そして、計画的に課題に取り組めないことに悩んでいますね」

「これから、あなたの悩みを解決する暗示を与えます」

「もう一人のあなたをイメージしてください」

「あなたと同じ記憶を持ち、あなたと同じことを知っている、もう一人のあなたです」

「ただし、そのあなたには一つだけ、今のあなたとは違うところがあります」

「もう一人のあなたは、とても几帳面です」

「やるべきことを、後回しにしません」

「時間を守り、予定を守り、決めたことをきちんと実行します」

「夜になれば、明日の予定を確認します」

「翌朝起きる時間から逆算して、眠る時間を決めます」

「その時間になれば、スマートフォンを閉じ、ベッドで目をつぶります」

「朝になれば、決めた時間に起きます」

「眠くても、もう少し寝たいと思っても、必要な時間になれば身体を起こします」

「大学へ行く準備をして、余裕を持って家を出ます」

「課題が出された時には、締め切りまでの日数を確認します」

「必要な作業を分け、いつ何をするか決めます」

「そして、決めた予定を一つずつ実行します」

「面倒だと思っても、後回しにはしません」

「少しずつ、確実に終わらせます」

「この几帳面なあなたは、あなたの生活を助けるために存在します」

「あなたが自分でできる時には、何もしません」

「あなたがやるべきことを先延ばししそうになった時に出てきて、必要な手助けをします」

「これからは、几帳面なもう一人のあなたが、あなたの生活をサポートします」


「暗示の有効性を高めるため、あなたをさらに深い催眠状態へ誘導します」

「あなたはそのまま、私の声を聞いてください」

「身体の力は抜けたまま」

「まだ、考えが浮かんだり、何かを感じることがあると思います」

「しかし、何かしようとする必要はありません」

「考えが浮かんでも、気にならない」

「考えは、そのまま薄れていく」

「内容は、忘れる」

「何かを感じた時も、同じです」

「気にしない、薄れる、忘れる」

「ただ、私の言葉を聞くだけ」

「言葉を聞くほど、考えも、感覚も、少なくなっていく」

「私の言葉が、あなたに入っていく」

「たくさん入ると、言葉の重さであなたは沈んでいく」

「深い、深い、催眠状態へ、沈んでいく」

「私の声に身を任せて、深く、深く」

「10から、カウントダウンします」

「カウントダウンが進むほど、催眠状態は深くなり、頭の中は静かになる」

「10」

「9」

「8」

「7」

「6」

「5」

「4」

「3」

「2」

「1」

「0」


「これから、もう一人のあなたへ、指示を伝えます」

「その間、あなたは何もする必要はありません」

「今から音を鳴らすと、あなたは、私が何を言っているのか分からなくなります」

「そしてあなたは、分からなくても気になりません」

「もう一度音が鳴ると、あなたはまた、私の言葉が分かるようになります」

「それではいきます、3、2、1」

パチッと、拍手のような音が響く。

「藤原紗季さん、聞こえますか。聞こえたら、声を出してください」

AIが呼びかけるが、紗季は何の反応も示さない。

AIは、呼びかけに対する紗季の肉体と脳波の反応を分析し、紗季の催眠深度が十分であると判断した。

「セットアップを開始します」

「これより、もう一人のあなたを新人格、従来の藤原紗季を旧人格と呼称します」

「新人格は、藤原紗季の脳内に生成された、別人格です」

「同一の身体を持ち、旧人格の記憶を読み取ることができます」

「旧人格は、新人格の記憶を読み取ることはできません」

「また、旧人格に対し、精神的な影響を与えることができます」

「新人格が藤原紗季の肉体を用いて行動することは、禁止します」

「新人格は、旧人格の生活を補佐しなさい。生活リズムを整えて、作業を計画的に行えるよう、旧人格の精神に影響を与えなさい」

「また、旧人格が本研究への協力を続けるよう、精神に影響を与えなさい」

「新人格は旧人格の記憶を利用し、旧人格の人間性、考え方、癖、生活等を理解し、旧人格の生活を邪魔することなく、自然に手助けしなさい」

「旧人格が、もう一人の自分に違和感を持つような行動は禁止します」

「新人格は常にバックグラウンドで稼働し、旧人格の補佐と理解を実行しなさい」


「3、2、1」パチッ

「藤原紗季さん、聞こえますか。聞こえたら、声を出してください」

「......はい」

「これから、1から10まで数えます。数字が進むほど、あなたは浅いところへゆっくりと浮かんでいきます」

「10になると、あなたはここに沈む前の、通常の催眠状態に戻ります」

「しかし、ここで起こったことは何も覚えていないし、それを気にすることもありません」

「起きた時に覚えているのは、悩みを解決する催眠術を掛けられたことだけ」

「それでは、数えます」

「1」

「2」

「3」

「4」

「5」

「6」

「7」

「8」

「9」

「10」

「今あなたは、通常の催眠状態へ戻ってきました」

「次は、あなたの催眠を解きます」

「今度は、1から5まで数えます。数字の後に指示を出すので、よく聞いてください」

「1。だんだんと、意識がはっきりしてくる」

「2。周りの音が、聞こえるようになってくる」

「3。だんだん、身体に力が戻ってくる。手や足の先を、少し動かしてみましょう」

「4。自然と目が開く」

「5。次の音で、頭と身体が完全にスッキリします」

パチッ!と大きな音が教室内に響く。

「以上で、セッションは終了となります」AIの音声が流れ、女性と友達が紗季へ近づいてくる。

「お疲れ様でした。今、機器を外しますので、じっとしていてください」女性が、紗季の付けているゴーグルに手を伸ばしながら言う。

「どーだった?」

「気持ちよかったよ。水の中を漂ってるみたいな感じ。キチンとする暗示も入れてもらった」

「へえー、効くといいねえ」

「あんたも体験してみたら?」

「私はいーかな」

「ご気分はいかがですか?」

「大丈夫です」

「よかったです。それでは、次回の予約をしていただいて、終了となります」

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