11-x fuckin' stay night
王立裁判所の判決が覆された──その第一報が王宮に届いたのは、夕日が西の空を染める黄昏時のことだった。
王宮は、深い静寂に包まれていた。
執務棟の最奥。重厚な扉の向こうでは、香木と墨汁の香りが室内に満ちている。
国王は、一枚の報告書を前に微動だにせず座していた。指先だけが、机の縁を規則正しく叩いている。コツ、コツ、コツ──その単調な音だけが、静寂を破っていた。顔に焦りの色はない。ただ、嵐の前の静けさだけがそこにあった。
扉が、叩きつけるように開かれた。
「へ、陛下! ご報告申し上げます!」
息を切らし、転がり込むように現れたのは、情報局の若い文官だった。顔は恐怖で青ざめ、足は小刻みに震えている。
国王は視線も上げず、低い声で促した。
「……落ち着け。何があった」
「は、はい! 例の裁判ですが──証人襲撃は失敗。裁判の場では、ベイル殿下が決闘の正当性を証言され……最終的に、生徒エインは完全無罪となりました!」
報告は支離滅裂で、声も上ずっていた。
国王はようやくペンを置き、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、深い海の底のように暗かった。
「……詳しく話せ」
「そ、それが……不明瞭な点ばかりで……。監視役の諜報員が任務の途中で不可解な行動を取り、記録を残さぬまま任務を放棄。正確な経緯は……把握できておりません」
「そうか」
国王の声色は変わらない。だが、その一言には室内の空気を凍らせるほどの冷たさがあった。
「……して、この茶番を監督していたルディ・ファーンは、どうした」
その問いに、文官の肩がびくりと跳ねた。額から汗が流れ落ちる。
「……ル、ルディ様は……『最低限の仕事は引き継いだ。あとは頼む』──それだけ言い残して、姿を消されました」
しばしの沈黙が落ちる。
文官が死を覚悟した、その瞬間だった。国王の唇が、薄く笑みを形作る。だが、そこに温かさは一片もない。
「……そうか。逃げたか」
国王は椅子の背もたれに身を預けた。
「愚かな男だ。“契約”を交わしておきながら、物理的な距離を取れば逃れられるとでも思ったか」
「け、契約……でございますか?」
「貴様の知ることではない」
その一言を浴びせられた文官は、喉を鳴らすことすらできず、背筋を凍らせた。
国王は立ち上がり、窓辺へと歩く。夕闇が、王城を包み始めていた。
「……例の平民についてだが」
「は、はい! 直ちに再拘束の手配を──」
「ならん」
王の声が、文官の言葉を断ち切った。
「続けて干渉すれば、こちらの存在が露呈する。奴は、まだ泳がせておけ」
窓の外の闇を見つめたまま、国王は静かに命じる。
「──ひとまずは監視を続けよ。だが、決して目を離すな。奴の髪の毛一本に至るまで、すべてを報告しろ」
「はっ! 直ちに!」
文官は安堵しながら、転がるようにして部屋を飛び出していった。
再び、静寂が戻る。
一人残された国王は、報告書を手に取り、深く思考に沈んだ。窓の外では夕日が地平線へと沈み、王宮を闇が包み込んでいく。
裏切り者には相応の報いを。
得体の知れぬ異物には、徹底した監視を。
彼の脳裏に、二つの異常事態が浮かび上がる。
入学式典における、王家の秘匿式への無自覚な干渉。
そして、法という国家の秩序そのものを崩壊させた、あの裁判の顛末。
手段は不明だ。報告は混沌と矛盾に満ちていた。
だが、結果だけは確かに残っている。
あの少年は、もはや単なる人間ではない。
国王が築き上げてきたこの国の秩序を、根底から覆しかねない「脅威」だった。
夜の闇に沈む王都を見下ろしながら、国王は冷徹に、次なる一手を思案していた。
◆
【速報】ワイを監視してたやつ捕まえたったwww
◇1:名無しの元引きこもり
ストーカーの罪で現行犯逮捕したで!
悪は許したらアカンよな!
2:名無しの転生者
悪ってお前のことじゃん
3:名無しの転生者
お前ももう一度逮捕されろ
4:名無しの転生者
あぁ……またイッチの凶行による被害者が……
◇5:名無しの元引きこもり
>>4
被害者はストーカーされてたワイの方やろ
ちょっと捕まえて職務質問しただけや
6:名無しの転生者
「ちょっと」ってのが怖いんだよ
7:名無しの転生者
その職務質問って拒否できないやつ?
8:名無しの転生者
ていうかイッチをストーキングするとかどんな趣味やねん
◇9:名無しの元引きこもり
>>8
なんと、そいつは国からの命令で監視してたらしい
国家公認レベルの存在になるとは……ワイも出世したなぁ
10:名無しの転生者
まぁ、悪党としては順調に出世しとるな
11:名無しの転生者
スパイもスパイで開始初日に見つかるのガバすぎて草
12:名無しの転生者
てかなんでそいつがスパイって分かったん?
普通そんな簡単にゲロらんやろ
◇13:名無しの元引きこもり
>>12
どうやったか知りたい?
14:名無しの転生者
>>13
言わなくても分かるんで大丈夫っす
15:名無しの転生者
国が監視つけるのも納得すぎるわマジで
16:名無しの転生者
何でまだ暗殺されてないのこの人
◇17:名無しの元引きこもり
で、捕まえたはいいんやけど……野郎を飼う趣味はないんよなぁ。
このまま元いたところに捨てちゃおうかな?
18:名無しの転生者
拾ったのはお前なんだから責任持って飼え
19:名無しの転生者
そもそも人間をペット扱いするな
20:名無しの転生者
捨てたら捨てたでまた別のスパイ送られてくるだけでは?
◇21:名無しの元引きこもり
>>20
それは困るなぁ……
監視に四六時中見張られるとか、さすがにプライバシーの侵害やろ……
ワイの自由はどこへ行ったんや……
22:名無しの転生者
お前はプライバシーどころか人権を侵害しまくってるだろ
23:名無しの転生者
今までが自由すぎたんだよ、監視が付くくらいでちょうどええわ
24:名無しの転生者
まあでも、せっかく捕まえたんなら味方にしちゃえばいいんじゃね?
説得して懐柔とかできんの?
◇25:名無しの元引きこもり
>>24
おお、それや! 早速説得して、大した報告せんようにしてもらったで!
仲間も増えたし、リサイクルって大事なんやなぁ。
26:名無しの転生者
説得っつーか命令では?
27:名無しの転生者
最初から洗脳済みのくせに、なにが説得やねん
28:名無しの転生者
最悪なエコロジーの思想だ
◇29:名無しの元引きこもり
ついでにワイと、大家の王女さんの命令も聞くようになってもらった。
部屋代の代わりにちょうどええか?
30:名無しの転生者
よくねーよ
31:名無しの転生者
家賃を人身売買で支払うやつがあるか
32:名無しの転生者
仲間にする扱いか?これが?
◆
セレナたちに拾われ、ひとまずの拠点を確保したエイン。だが、退学処分はまだ覆っていない。
交流棟の茶室では、エイン、セレナ、イレーネの三人が、ランプの温かな光に包まれていた。夜も更け、そろそろ今後のことを話し合うべき時間だった。
「それで……エイン様は、これからどうなさるおつもりですの?」
セレナが、不安を隠しきれない声で尋ねる。白い指先が、ティーカップの縁を落ち着きなくなぞっていた。
エインはソファーに深く身を沈めたまま、どこか能天気に答える。
「んー、どうしようかな。まあ、当分はここにいようかなぁ。お菓子も美味いし」
お菓子を褒められたこと、そして「当分はここに」という言葉。その二つに、セレナの頬がほんのりと赤く染まった。
「そ、それは構いませんけれど……! そういう問題では……!」
要領を得ない返答と、セレナのわずかな狼狽ぶりに、イレーネは心底うんざりしたような表情を浮かべた。
不意に、エインが「あ」と声を上げた。
何かを思いついたように、ソファーから身を起こす。
「そうだ。ちょっと行ってくるとこ思い出したわ」
「えっ、どちらへ……?」
「ん、まあ、ちょっとね。いい方法思いついたから、もう大丈夫」
そう言うと、エインはセレナの心配を置き去りにしたまま、ひょいと立ち上がった。
「部屋貸してくれてありがとね。もう自分の部屋に戻ってくれていいよー」
それだけを言い残し、手をひらひら振りながら、あっさりと部屋を出ていってしまう。
残されたセレナは、イレーネを振り返り、懇願するように口を開いた。
「イレーネ、わたくし……エイン様が戻られるまで、ここでお待ちします」
「殿下、なりません。夜も更けております。あの男の言う通り、お戻りになった方が……」
「いいえ。……だって、今のエイン様には、ここしかお戻りになる場所がないのですから。わたくしまでいなくなってしまったら、あの方は本当に一人になってしまわれます」
イレーネは小さくため息をついた。主君のこの頑なさは、今に始まったことではない。セレナの美点であり、同時に心配の種でもある。
セレナ殿下との付き合いは長い。もはや単なる主従ではなく、姉妹であり、親友にも等しい。だからこそ、今回の変化が気がかりだった。いつの間にエインにここまで入れ込むようになってしまったのか。よりにもよって、相手があの男では。
エインは危険すぎる。常識も、倫理観も、そしておそらく人間性すら欠けている。そんな得体の知れない劇薬に、純粋な殿下が心を惹かれている現状は、護衛としても、友人としても、到底看過できるものではなかった。
(私が、もっと早く、殿下に男というものを教えておくべきだったのではないか……)
そんな後悔が、イレーネの胸をわずかに締めつけた。
時間が経つにつれ、セレナの瞼は次第に重くなっていった。エインがひとまず学校へ戻ってきたことへの安心感に、深夜という時間も重なる。やがて彼女はテーブルに突っ伏し、穏やかな寝息を立てながら、静かに肩を揺らし始めた。
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、扉の外から軽い足音が近づいてきた。
満足げな足取りで戻ってきたエインが、何気なくノブに手をかけようとした、その瞬間。
「お待ちください」
イレーネが、すっとその手を制した。
「うわっ!?」
突然のことに、エインは素っ頓狂な声を上げる。壁の闇に溶け込むように佇んでいたイレーネは、彼の口元に人差し指を立て、静かに首を横に振った。
「お静かに。──殿下は、お休みになられています」
そう囁くと、イレーネは扉をわずかに開けて中を示す。ブランケットに包まれたセレナが、静かに眠っていた。
エインも声を潜めて尋ねる。
「……なんでここで寝てるんだ? 自分の部屋に戻ったんじゃないのか」
「あなたが戻られるまで待つと仰って。殿下は、あなたのことをずっと案じておられたのです」
「そう」
エインは、小声でそれだけ返した。そこにどんな感情があるのかは、まるで読み取れない。
その直後、イレーネの視線が鋭さを増した。
「エイン」
その声に、敬意の欠片はない。ただ事実を告げるためだけの、冷たい響きだった。
「我々は監視されています。おそらく、貴方が原因でしょう」
イレーネは、エインを茶室に運び込んだあの夜から、ずっと執拗な視線の気配を感じていた。そしてそれは、今もなお、この近くに潜んでいる。
(いっそ、この監視者に殺されてしまえばよかったものを……)
そんな物騒な思考はおくびにも出さず、イレーネは冷静を装う。
「あー……またかよ、ストーカー」
エインは心底うんざりしたようにため息をついた。その反応からすると、以前にも同じようなことがあったらしい。
(この男は、自分がどれほど厄介な存在か、本当に理解していないのか……!)
イレーネは内心で舌打ちした。
「なあ、イレーネさん、だっけ? そのストーカーを捕まえるの、手伝ってくんない? 俺一人だと面倒だから」
「……私が、ですか」
「そう。俺が罠を張るから、そこまで誘導してきて」
あまりにも軽い調子の依頼だった。だが、イレーネは一瞬だけ考え、すぐにプロとしての判断を下す。
「……承知しました。殿下の安全確保のため、協力しましょう」
渋々ながらも明確に頷いた彼女を見て、エインは満足げに笑った。
「よしきた。じゃあ、まずは場所探しから」
エインは目を閉じ、意識を集中させる。
「【隠形看破】」
彼の周囲から、ごく微弱な魔力が波紋のように広がった。目を閉じたまま、何かを探るようにじっと感覚を研ぎ澄ませている。
数秒後、目を開けたエインの表情には確信があった。
「見っけ。階段のあたりに一人だけ。それじゃ、よろしく」
その異常なまでの探知能力に戦慄を覚えつつも、イレーネは無言で頷き、音もなく闇へと溶けていった。
◆
イレーネは階段へ向かいながら、周囲の気配を探った。そして、すぐにそれを見つける。
二階の踊り場。柱の死角に、黒い影が身を潜めていた。
音もなく階段を上がり、背後へと回り込む。相手が気配に気づいた時には、もう遅い。
「──っ!?」
振り返ろうとした男の首筋に、イレーネの手刀が正確に叩き込まれた。だが、男は予想以上に訓練を積んでいたらしく、完全には気絶せず、そのまま反撃に転じる。
短剣を抜き放ち、イレーネへ斬りかかる。だが、その動きはイレーネにとってあまりにも遅かった。
イレーネは男の手首を掴み、そのまま関節を逆に捻り上げる。短剣が宙を舞い、階段に甲高い金属音を響かせて落ちた。
「ぐっ……!」
苦痛の声を漏らす男に、イレーネは一切容赦しない。そのまま背中に膝を当て、完全に動きを封じ込める。数秒の格闘の末、男はついに意識を失い、ぐったりと力を抜いた。
イレーネは気絶した男を軽々と担ぎ上げ、エインの元へ戻る。
◆
エインはすでに、廊下の中央に魔法の罠を仕掛け終えていた。派手な魔法陣を描くでもない。ただ空間にいくつかの術式を編み込んだだけの、ひどく地味な仕掛けだ。
戻ってきたイレーネと、その肩に担がれた男を見て、エインが意外そうに目を丸くする。
「あー、気絶させちゃった? まあいいや。もう罠は仕掛けてあるから、そこに投げ込んどいて」
エインが指さした先には、一見して何もない空間があるだけだった。
「……ここに、ですか?」
「そそ。適当にポイっと」
イレーネは一瞬だけ躊躇したが、指示通り、気絶した男をその空間へ放り込んだ。
男の身体が罠に触れた、その瞬間──
「──ッ!?」
意識を取り戻した男は、何の前触れもなく、その場でぴたりと動きを止めた。
糸の切れた人形のように全身から力が抜け、そのまま崩れ落ちる。
黒衣の男の瞳からは、完全に光が消え失せていた。
その光景を見たイレーネは、もはや驚きを通り越し、ある種の畏怖すら覚えていた。
(これは……単なる物理的な拘束ではない。精神そのものを、一瞬で支配したというのか)
エインの仕掛けた罠は、対象の精神を強制的に操る 【精神支配】 の術式だった。
エインは倒れた男の前にしゃがみ込み、感情のない声で、よどみなく自白を引き出していく。
名はマーカス。一年Eクラスに在籍する、王宮直轄の諜報員。
学園に潜入し、貴族たちの情報を集める任務に就いており、そこへ急遽、エインの監視命令も追加されていた。
尋問を終えたエインは立ち上がると、しばらく考え込んだ。どう処分するべきか、悩んでいるらしい。
やがて何かを決めたように、洗脳下の生徒へ命令を下す。
「お前の任務は今日から変更だ。俺のことは『特に問題なし』とだけ報告しとけ。いいね?」
「……了解」
「よし。じゃあ、一件落着」
エインが満足げに頷いた、その時だった。
彼は何かを思い出したように、ぽんと手を打つ。
「そうだ。家賃代わりに、お前、ここの人たちの手伝いでもしとけ。セレナ王女と、イレーネさんの言うことも、ちゃんと聞くように」
そしてイレーネに向き直り、満足げに笑いかけた。
「というわけで、泊めてくれたお礼として、この男を差し上げます」
あまりにも突飛で、あまりにも不謹慎な発想に、イレーネは絶句した。
(……家賃、だと?)
この男の底なしの倫理観の欠如と、圧倒的なまでの魔法の腕前。そのあまりにも歪な釣り合いに、戦慄を覚える。
「何? いらないの?」
エインが首を傾げる。
その問いに、イレーネは冷徹なプロとして思考を巡らせた。
(……確かに、この駒は使える)
完全に忠実で、王宮や貴族たちの情報を持ち、なおかつ学校に籍を置く諜報員。セレナ殿下を守る上で、これほど都合のいい手駒はない。
この男は、自らが手にした力の価値を、まるで理解していない。
「……いいえ」
イレーネはゆっくりと首を横に振った。
「その“家賃”、ありがたく頂戴いたします」
イレーネは、エインという理解不能な劇薬を最大限に警戒しつつも、同時に手に入った新たな力に、護衛として、そして一人の策略家として、複雑な満足感を抱くのだった。




