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9-1 走らなくていいよフレッド君

 朝焼けの色がまだ空に滲む頃、僕は再び、王立裁判所の石門をくぐった。空気は冷え切り、灰色の建物が静かに朝を迎えている。面会受付で手続きを済ませると、昨夜と同じ面会室へと通された。鉄扉が軋みながら開く。その音だけで、胸の奥がざわめいた。


 格子の向こうに、エイン君が座っている。


 目の下には濃い隈が刻まれ、唇は乾いてひび割れていた。姿勢は保っているが、どこか力の入りきらない感じがある。それでも、こちらに気づくと、彼は軽く手を上げた。


「おはよう、フレッド。早起きだな」


 声は少し掠れていたが、調子そのものは変わらない。そのことが、かえって痛々しかった。


「エイン君……寝てないの?」


「はは。ちょっとね。条文、全部読んでた」


 そう言って、彼は手元の法典を示す。ページをめくる指先はゆっくりで、慎重すぎるほどだったが、そこに焦りは見えなかった。


「また来てくれてありがとう、フレッド。悪いんだけど──もうひと仕事、頼める?」


 頼みごとを切り出す口調は、いつもと同じだ。今が牢の中で、今日が裁判だという事実だけが、そこから浮いている。


「うん。何でも言って」


 エイン君は少しの間、目を閉じた。それから、いつもの調子で言う。


「ベイルと、スザンナ教授。決闘の関係者だ。……ふたりとも、裁判所まで連れてきてほしい」


「そうか……その二人が来てくれれば、きっと〝あの決闘は正当だった〟って証明できる。だから……!」


「そうだ。俺が助かるには、それを証明するしかないな」


 軽く言ってのけたが、目は逸れなかった。冗談めかした調子の奥で、考えるべきことはすべて終えている、そんな目だった。


 一瞬、言葉が喉に詰まる。けれど、その視線を受け止めた瞬間、迷う理由は消えた。


「……わかった。任せて!」


 言い終えるより早く、僕は立ち上がった。


「あっ、ちょっと待ってくれ。実はもう一つ、頼みがあるんだ」


    ◆


 校舎へ戻ったのは、朝の授業が始まる少し前だった。研究棟の一室──スザンナ教授の研究室には、すでに明かりが灯り、紙とインクの匂いが静かに満ちている。


 教授は書類をめくる手を止め、僕を見る。眉が、ほんのわずかに動いた。


「……何か、問題でも?」


「お願いします、教授。今すぐ、エイン君の裁判に証人として出てください!」


 息を整える間もなく、昨日からの出来事を要点だけ伝える。教授は遮らずに聞き終えると、深く、長いため息をついた。


「はぁ……朝から厄介な話を持ち込んでくれるわね」


 口調は投げやりだが、拒絶の色はない。


「でも、決闘の審判をした以上、責任もある。……いいわ。今日の講義は休講にする。準備ができ次第、すぐに出発しましょう」


 そう言うと、教授は外套を取り、必要な書類だけを手早くまとめた。その動きに、ためらいは一切ない。


 その背中を見て、僕は少しだけ肩の力を抜いた。礼の言葉より先に、胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけほどける。


 ……どこか、不思議な頼もしさがあった。


    ◆


 救護室の扉をノックすると、少し間を置いて、微かな声が返ってきた。


「……開いている」


 僕はそっと扉を押し開け、中へ足を踏み入れる。


 白いカーテンが微かに揺れ、薬品の匂いが静かに漂っていた。その中心で、ベイル・ドラン・エルディスは、覇気の抜けた顔のまま天井を見つめている。


「……起きてたんだね」


 僕が声をかけても、彼は視線をほんの少しだけこちらへ向けただけだった。体はほとんど動かない。


「……お前か、何の用だ」


 その声に棘はない。怒気もない。ただ、言葉の底に沈んだ重さだけが、はっきりと伝わってきた。


 僕はベッドの脇に腰を下ろし、視線の高さを彼に合わせる。


「お願いがある。今日、エイン君の裁判があるんだ。君には、証人として来てほしい」


「……断る」


 間髪を容れずに返ってきた答えだった。それでも、僕は言葉を続ける。


「でも、決闘の正当性を証明しなきゃ、エイン君は有罪になってしまう。スザンナ教授も証人になってくれるって言ってた。君が来てくれれば、きっと──」


「ふざけるな」


 ベイルが、静かに言葉を遮った。


「俺が……あんな平民に敗北したことを、大勢の前で〝認めろ〟と言うのか」


 怒鳴っているわけじゃない。それでも、その抑えた声音が、胸の奥を締めつけてくる。


「違う。ただ、君があの決闘を〝正当だった〟って認めてくれるだけでいい。それで、エイン君は──」


「……お前なら、もう知っているかもしれんが」


 ベイルの視線は、僕を通り越して、どこか虚空を見ていた。


「俺は……あの場で負けただけじゃない」


 一拍、沈黙が落ちる。


「父上にも、見放された」


 その言葉に、僕は言葉を失った。


「昨日、密かに来ていた文官に聞いた。もう……期待も、信頼も、終わったとさ」


 ベイルの手が、薄いシーツの上でわずかに動いた。


「〝王〟が認めたんだ。俺はもう、〝示す側〟じゃないとな。今の俺に残っているのは、〝王族である〟という肩書きだけだ」


 短く息をつく。


「……だから無理だ。俺は、王族であろうとした、その最後の誇りまで削ることは出来ない」


「でも君の誇りは、そんなことで壊れるようなものじゃないよ」


「そう思うか?」


 ベイルは初めて、はっきりと僕を見た。


「力を示す場で負けた。名誉を懸けた決闘で、地に伏した。それでもなお、王族の顔をしていろと言うのか?」


 その目に、かつての炎はなかった。静かにくすぶる残り火のような光が、揺れている。


「……どう負けたのか。どうして、あんなふうになったのか──それすら、まだ自分の中で整理がついていない」


 ベイルの声は低く、その奥に苦味が滲んでいた。


「曖昧なまま、敗北を認めるのは……ただの屈服だ。俺は、自分の中に納得がないまま膝をつくような真似はしない」


 その静かな言葉は、理屈で固めた拒絶だった。


「……わかった」


 僕は立ち上がった。


「でも、もし君がその言葉を変えたくなったら……間に合ううちは、僕は待ってるよ」


 ベイルは何も答えない。ただ、天井の一点を見つめたまま、まばたきを一つだけ落とした。


 救護室の扉を引いて外に出ると、廊下の陰に佇んでいたのは、セレナ王女付きのメイド──イレーネだった。彼女は視線を伏せたまま、こちらに一瞥もくれず、音もなくその場を後にする。


 今の僕には、声をかける余裕はなかった。そのまま踵を返し、校門へ向かう。スザンナ教授は、すでに待っているはずだ。


 時間は、ほとんど残されていなかった。


    ◆


 ベイルが目を閉じて静かに沈黙していた頃、救護室の扉が再び軋む音を立てて開いた。入ってきたのは、第四王女──セレナ。


「……ベイル兄様」


 ベイルは微かに視線を向けるだけで、身じろぎもしない。フレッドとの会話にすら応じきれなかった様子から、沈黙はなお深く続く。それでも、セレナはためらうことなく彼のそばへ進み、椅子を引いて腰を下ろす。


「お願いがあって、来ました」


 静かに告げられた言葉に、ベイルの眉がぴくりと動いた。


「エインさんを……助けてあげてほしいんです」


 ベイルは短く息をつき、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。


「はっ……笑いに来たのか?」


「え?」


「見ろよ、この様を」


 ベイルは天井を見上げたまま、自嘲的に続ける。


「平民に負け、父上に見捨てられ……今の俺は、お前と同じだ」


 一拍。


「いや、それ以下かもな」


「……」


「第一王子? 冗談だろ。もう何の価値もない」


 その言葉に、セレナは一瞬目を伏せる。しかし、すぐに顔を上げた。


「だから、何だというのです」


 ベイルの視線が、初めて揺いだ。


「……何?」


「王に否定された? 決闘で負けた? それが、どうかしましたか?」


 セレナの声に、今までにない強さがあった。


「お前……」


「兄様の〝王族としての誇り〟は、その程度のものだったのですか?」


 ベイルが息を呑む。


「王が認めなかったら、消えてしまう。決闘一つ負けただけで、何も残らない」


 セレナはまっすぐベイルを見つめる。


「そんな脆いものに、兄様はずっと縛られていたのですか?」


「……何を言っている」


「私、あの人を見て気づいたんです。あの人は、誰にも従っていません」


「……それが何だ」


「王族にも、貴族にも、誰にも。自分で決めて動いているんです」


 ベイルは黙って聞いている。


「兄様は違います。ずっと父様の期待に応えるために生きてきた。王族の誇りを守るために」


「……当然だろう。それが──」


「でも、それは兄様自身の誇りですか?」


 沈黙。


「父様に言われたから持った誇り。周りに期待されたから守ってきた誇り」


 セレナは一歩近づく。


「それは本当に、兄様のものなんですか?」


 ベイルは答えられない。


「……お前は、変わったな」


「はい」


「あの男が、原因か」


「……きっかけは、あの人でした。でも、決めたのは──私です」


 ベイルは視線を伏せたまま、答えなかった。


「ただ……あの人を見ていて、わかったんです」


 セレナは、静かに微笑んだ。


「自分で決めていい、って」


「兄様。兄様自身は、どうしたいんですか?」


 ベイルは目を閉じた。


 長い沈黙が、救護室を包む。セレナは何も言わず、ただ静かに兄の答えを待っている。


(俺自身が、どうしたいか……)


 その問いが、ベイルの胸の奥で静かに響いていた。


    ◆


 スザンナ教授は、学校の正門のすぐ外で待っていた。


 片手に手帳、もう片方に懐中時計。時間を測るようにそれらを行き来させる姿は、授業開始前のそれと何ら変わらない。


「ギリギリね。何とか、時間には間に合いそう」


 そう言って手帳を閉じ、すぐ近くに停められていた一台の馬車を顎で示す。


「馬車はこちらで用意しておいたわ。さっさと乗って。余計な時間は使わないこと」


 ……しまった。

 本来なら、馬車の手配まで含めて、僕が考えるべきだった。言われてみれば当然のことだ。それが分かっているのに、そこまで頭が回っていなかった。

 自分の甘さか。それとも──焦りすぎているせいか。


「ありがとうございます……」


 そう呟いたが、教授はこちらを見なかった。


「礼は裁判が終わってから」


 それだけ言って、先に馬車へ乗り込む。

 促されるまま、僕も後に続いた。車内は意外なほど静かで、革張りの座席は身体を預けると自然に沈み込む。振動も少なく、よく整備されているのが分かった。

 窓の外で、見慣れた校舎がゆっくりと後退していく。


「ベイル君は?」

 しばらくしてから、スザンナ教授がふいに問いかけた。


「……ダメでした。説得しようとしましたけど……まだ、答えを出せていないみたいで」


 教授は「そう」とだけ短く頷いた。

 それ以上は何も言わない。問い返しも、表情の変化もなかったが、その目には何かを静かに見通すような光があった。


 やがて馬車は街道を外れ、細く曲がりくねった林道へ入っていく。

 両脇には背の高い木々が立ち並び、人影はない。響くのは、蹄の音と車輪の軋みだけ。

 静けさが、途切れることなく続いていた。


 その瞬間だった。


「──伏せなさい!」

 スザンナ教授の鋭い声が弾ける。


 何が起きたのか考える暇もなく、体が先に動いた。反射的に、僕は座席の下へ滑り込んでいた。


 直後──


 ゴシャッ!


 馬車の側面が砕け、何かが叩きつけられる衝撃が車体を揺さぶる。裂けた帆布の隙間から光が差し込み、天井材が崩れ落ちる音が重なった。


「な……何だ、これ……!」

 動揺と混乱が一気に胸を打つ。上部が破れ、車体が大きく傾いた。


「降りなさい、フレッド!」

 声の主を見れば、スザンナ教授はすでに扉を開き、外へ降り立っていた。


 その動きに、迷いは一切ない。まるで──最初から、こうなると知っていたかのようだった。


 僕も慌てて後を追い、地面へ飛び出す。


 車輪の片側は完全に砕け、馬車の右側が無残に地面へ沈み込んでいた。


 そして──


 林道の先に、男たちが現れた。


 黒い外套。覆面。無言。


 こちらを囲むように位置を取り、人数は六人。構えに乱れはなく、足運びも無駄がない。


 ……訓練された戦闘部隊だ。


「目的は何?」


 スザンナ教授が、はっきりと問いかける。


 返答はなかった。


 代わりに、男たちが同時に武器を構えた──それ自体が、十分すぎる答えだった。

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