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23-2

 エイン君が「ステイン」として学校に戻ってきて、しばらく経つ。


 色々あった。本当に色々あった。思い出すだけで頭が痛くなることばかりだった。

 それでも、ようやく日常は戻ってきた。


 少なくとも、こうして放課後に僕の部屋でチェスができるくらいには。


 廊下を歩く足音は、昼間より間延びしている。窓の外からは、訓練場で魔法を撃つ音がかすかに聞こえていた。


 向かい合った盤の上で、エイン君が駒を動かす。

 僕はしばらく考えてから、手を打った。

 彼は、すぐに次の手を指す。


 こういう時間が戻ってきたことを、僕はまだ少し不思議に思っている。


 以前と同じようで、まったく同じではない。

 けれど、その違いが何なのかは、まだうまく言葉にできなかった。


「そういえば、帝国の代表って、君のことなんだよね」


「なんかそうらしい」


「なんか、で済む話なのかな」


「最初は大変だとは思ったんだけどな。よく考えたら、ちょっと試合するだけだろ? だったら別にいいかなって」


「ちょっと試合するだけ……」


 国同士の面子がかかっているとか、各校の代表が集まるとか、そういう話は聞いていた。

 でも、エイン君の中では大したことではないらしい。いや、どうでもいいのだろう。


「だけど、本当に大丈夫?」


「何が?」


「対抗戦って、決闘に近い形式なんだよ。先に言っておくけど、いつもみたいな魔法は使えないからね」


「ああ、そういえばそうだったな」


 エイン君は、盤面を眺めたまま少しだけ考え込んだ。


 彼の魔力量は、同年代の中でも底辺に近い。だから炎の槍を撃つとか、大きな雷を落とすとか、そういう分かりやすい攻撃魔法は満足に扱えない。

 その代わりに使うのが、記憶を消したり、精神を支配したり、痛みだけを与えたりする魔法だ。


 決闘や試合では、まず使えない。

 物騒なものばかりだった。


 普通に考えると、そちらの方が難しくて、魔力も使いそうに思える。けれどエイン君に言わせると、そういった魔法は攻撃魔法に比べて発生させるエネルギー量が少ないので、効率化すれば魔力もほとんど使わないで済むらしい。


 最初に聞いた時は意味が分からなかった。今でも半分くらいは分からない。


「でも大丈夫、たった今いい方法を思いついた」


「それ、君から聞きたくない言葉の上位に入ってるよ」


「大丈夫。ルール上はたぶん問題ない」


「その大丈夫ってのも不安なんだけど。一体どうするつもりなの?」


 僕の問いかけにエイン君が口を開こうとした、その時だった。


「おい! ステイン! 出てこい!」


 隣の部屋の方から、怒鳴り声が響いた。


 隣は、エイン君の部屋だ。正確には、留学生ステインとして使っている部屋である。

 ただし、その本人は今、僕の部屋でチェスをしている。


「ステインって誰だろうね」


「君のことでしょ」


「……そういえばそうだった」


「忘れないでよ。今はそういうことになってるんだから」


 エイン君は立ち上がり、廊下へ向かった。

 扉を開けると、さっきより大きな声が飛んでくる。


「ステイン! 聞こえているのか!」


「うるさいぞ」


 エイン君は、なぜか注意する側の声で言った。


「ステインは俺だ。廊下で怒鳴り散らして、人に迷惑をかけるんじゃない」


 短い沈黙があった。


「……お前か。お前がステインか……」


 低く押し殺した声が返ってくる。


 廊下に立っていたのは、見慣れない制服を着た少年だった。年は僕たちと同じくらい。背筋は真っ直ぐで、身なりも整っている。

 ただ、その顔には怒りが浮かんでいた。


「選手団が到着したから、お前も帝国代表として集合するよう連絡しておいただろうが!」


「あー、そういえばそんなことを言われていた気がするなぁ」


「気がする、ではない!」


「でも今、チェスがいいところなんだよ。終わるまで待ってくれないか?」


「待てるか!」


 僕は立ち上がり、エイン君の後ろから声をかけた。


「……エイン君、さすがに行った方がいいんじゃないかな。待たせるほど面倒になると思う」


「そうか?」


「うん。チェスなら後でいくらでもできるでしょ」


 エイン君は少し考えた。それから、名残惜しそうに盤を見た。


「じゃあ行くか。続きは後でな」


「うん」


 エイン君は廊下に出た。

 帝国の少年は、まだ怒っている。


 僕も上着を持って、後に続いた。


 行かせて終わり、というわけにもいかない気がして。


 部屋の扉を閉める直前、盤の方に目が行った。

 どちらの手番かも分からないまま、駒が止まっている。


    ◆


 訓練場は広かった。


 土の床には、魔法で焼けた跡や抉れた痕が残っている。授業でも使われる場所だが、今この時間、他の生徒の姿はなかった。

 代わりにいるのは、帝国の制服を着た生徒たちだ。


 ジークを含めて三人。二年生と三年生が一人ずつ、彼の後ろに控えている。

 全員がエイン君を見ていた。目に好意はない。


「――というわけだ。俺と勝負しろ」


 ジークと名乗った少年は、そう言い放った。


 彼だけではない。後ろに控えた帝国の上級生たちも、同じようにエイン君を見ている。

 王国の生徒で、帝国の魔法学校に通っているわけでもなく、それどころか留学生としての身分すらかなり怪しい。そんな彼が、なぜか帝国一年代表として扱われている。


 納得できるはずがない。

 ジークの怒りは、彼らの不満を代表しているようにも見えた。


「えー……」


 だが、当のエイン君には、まるで響いていなかった。


 訓練場の天井を眺め、ジークを見て、後ろに並んだ帝国の上級生たちを見て、それからまたジークに視線を戻す。


「ジーク君って、強い?」


「……何が言いたい」


「いや、どう見てもジーク君の方が強そうだよ。俺より全然」


 エイン君は、困ったように手を振った。


「ヴォルフ将軍が俺の方が強いって言ったなら、それは見込み違いだよ」


 ジークの眉が動いた。


「だからさ、俺、代表とか別に興味ないし。俺の代わりに試合に出ていいよ」


「……」


「ジーク最強! ジーク最強!」


 僕は思わず目を閉じた。


 いや、たぶんエイン君に悪気はない。

 本当に代表に興味がなくて、本当に戦いたくなくて、本当にそれで丸く収まると思っているのだろう。


 でも、それで済む相手ではない。


 ジークの表情が、さらに険しくなる。


「違う」


 低い声だった。


「俺は代表の座が欲しいんじゃない。お前が辞退すれば済む話ではない」


 ジークは、拳を握りしめていた。


「父上は、お前の方が俺より強いと判断した。ならば、それを覆さなければ意味がない」


「いや、だから見込み違いだって」


「返された代表の座など、俺が欲しいのはそんなものではない!」


 空気が震えるような声だった。

 周囲にいた帝国の上級生たちも、黙ったままジークを見ている。


 これは、単なる代表枠の話ではないのだ。

 ジークは、ずっとそのために努力してきたのだろう。父に認められ、帝国の代表として立つために。


 それを、突然現れたエイン君に奪われた。

 しかも彼は、その重みをまるで分かっていない。


「俺はお前に勝って、俺の実力を証明する」


 ジークは、エイン君を睨みつけた。


「だから戦え」


「あー……」


 エイン君は、少しだけ面倒そうな顔をした。

 その表情を見た瞬間、僕は嫌な予感がした。


「面倒くさいなぁ。もう洗脳して済ませようかな」


 訓練場が、静かになった。

 風もない。魔法の音もない。エイン君の言葉だけが、訓練場の壁に吸い込まれた。


「エイン君、それは……」


 声が出た。

 自分のものだと気づいた時には、もう言っていた。


 言葉はそこで止まった。

 駄目だ、とも、やめろ、とも続かなかった。


 ただ、今の一言を流してはいけないという感覚だけが、先に来た。


「ああ」


 エイン君は僕を見て、軽く頷いた。


「そういえば、フレッドはそういうの嫌だったよね」


「……」


「じゃあ、やめとく」


 あっさりだった。

 あまりにも、あっさりだった。


 僕が止めなければ、彼は間違いなく使っていたのだろう。

 そして、やめた理由は、僕が嫌がったから。


 そのことが、遠いところに刺さった棘のように引っかかった。


「洗脳、だと?」


 ジークが、低く唸るように言った。


「今、俺に精神魔法を使おうとしたのか」


「使ってないだろ」


「使おうとしたのかと聞いている!」


 ジークの怒りが、さらに強まった。

 当然だった。勝負を求めた相手に、戦う前から精神を弄られそうになったのだ。


 周囲の上級生たちもざわつき始めた。

 このままだと、本当に面倒なことになる。


 そう思ったのは、僕だけではなかったらしい。


「分かった分かった」


 エイン君は、ため息混じりに手を上げた。


「勝負も代表も受けるよ」


 それで終われば、まだよかった。

 けれど、彼は続けた。


「俺はチェスの続きがやりたいんだ」


 ジークの眉が跳ねる。


「だから、すぐに俺が勝って終わらせる。さっさと始めようぜ」


 悪意はない。

 たぶん、本当に早く終わらせたいだけだ。


 でも、それはジークの努力も、誇りも、父親に認められたいという気持ちも、全部まとめて軽く扱う言葉だった。


「……後悔するなよ」


 ジークはそう言って、訓練場の中央へ向かった。

 エイン君は、軽く肩をすくめてその後に続く。


 帝国の三年代表が、審判を務めることになった。


 二人が訓練場の対角に立つ。土の床の上、十分な距離を取って向かい合う形だ。

 ジークは、油断せず構えている。魔法使いとしての正面対決を選んでいるのだろう。腰を落とし、重心を整え、全身でエイン君を見ていた。


 一方で、エイン君は立っていた。

 それだけだった。


 特に構えるでもなく、ただ立っている。


 審判役の三年代表が、短く息を吸った。


「始め!」


 合図の声が消えるより早かった。


 エイン君が動いた。

 いや、動いたというほどでもない。


 指先が、少し動いた。

 それだけだった。


 ジークは警戒していた。開始直後の奇襲も想定していたはずだ。

 けれど、【防壁】(シールド)を展開するより早く、エイン君の魔法がジークに命中した。


「が、あ――」


 ジークは膝から崩れ落ち、土の床に伏した。

 けれど、指先はまだ土を掻いている。呼吸だけが浅く乱れ、体の奥で何かと戦っているのが分かった。


 僕はすぐに我に返った。

 ジークはまだ苦しんでいる。このまま放っておけるはずがなかった。


 エイン君が使った魔法には、見覚えがあった。

 盗賊相手に使っていた、あの魔法。微細な電流で痛覚だけを刺激すると、彼は言っていた。


 なら、それを打ち消すには――より大きな電流で、神経への刺激を上書きするしかない。


【電撃】(ライトニング)!」


 ジークの体が、一瞬だけ強く痙攣した。

 直後、土を掻く指が止まる。呼吸の乱れが、わずかに整い始めた。


 どうやら、少なくとも痛みは収まったようだ。


「フレッド……」


 エイン君が、少し引いたような顔で僕を見ていた。


「勝負はもうついたのに、外野のお前が追撃するなんて何考えてるんだ?」


 言葉が詰まった。


 追撃じゃない。

 でも、エイン君にはそう見えている。


 そのズレに、喉の奥が詰まるような感覚がした。


 それでも、先に聞かなければならないことがあった。


「エイン君」


 僕は、声を抑えて言った。


「今使った魔法は、何?」


「何って、見たことあるだろ? 盗賊に使ったやつだよ」


 そして、当然のように言う。


【痛覚刺激】(ペインシグナル)。対象の神経信号に魔力で電流を流して、物理的に痛覚だけを刺激する。ただのちゃちい魔法だよ」


「そういうことを聞いているんじゃない」


 僕は、なるべく声を荒げないようにした。


「なんで、【痛覚刺激】(ペインシグナル)を使ったのか、と聞いてるんだ」


「なんでって……言われても」


 エイン君は、本当に分からないという顔をした。

 少し考え込む。


 そして、何かに気づいたように頷いた。


「ああ、そういうことか」


 その瞬間、僕は少しだけ期待してしまった。

 もしかしたら、分かってくれたのかもしれないと。


 でも、それは間違いだった。


「たしかに、今のは試合みたいなものだからな。通常版の【痛覚刺激】(ペインシグナル)を使ったのは間違いだった」


「……通常版?」


 嫌な予感がした。


「ああ。心配するな、フレッド。本番では改良版を使うつもりなんだ」


【痛覚体験】ペインエクスペリエンスっていう発展形があって、対象の時間感覚を限界まで引き延ばして、痛みを味わわせる。外からは一瞬で気絶したようにしか見えないから、これならルール違反もバレない」


「エイン君」


「うん」


「そういう魔法は、使わないでくれ」


 エイン君は、不思議そうに目を細めた。


「こういうのも嫌なの?」


 まただ。

 また、それだ。


「まあ、親友のお前が嫌だって言うなら、使うのはやめるけど」


 その言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが切れた。


「いい加減にしてくれ!」


 僕の声が、訓練場に響いた。


 言った直後に、自分でも驚くくらい大きな声だった。

 けれど、僕が驚くより先に、周囲が動き出した。


「おい、何を言い争っている!」


「それより、ジークに何をした!」


「今のは試合なのか!? あんなもの、ただの――」


 帝国の上級生たちが、こちらへ詰め寄ってくる。

 ジークのことは目に入っている。まだ床に伏したままだ。呼吸は整い始めているが、立てる状態ではない。


「うるさい!」


 気づいたら、声が出ていた。


「今は、大事な話をしてるんだ」


『さっきまでのことは忘れて、ジークを連れて戻れ』


 上級生たちの動きが、一瞬止まった。


 それから彼らは何事もなかったように向き直り、ジークを抱き起こして訓練場の出口へ向かった。

 足音が遠ざかる。扉が閉まる。


 静かになった。


 訓練場には、僕とエイン君だけが残された。


「……フレッド」


「何」


「今の、無詠唱の【精神支配】(ブレインウォッシュ)だろ? 精神魔法、嫌いじゃなかったのか?」


「嫌いだよ」


 答えは、すぐに出た。


 嫌いだ。今も嫌いだ。

 それは変わらない。


 でも、使った。

 僕が使うと決めた。その結果も、僕が背負う。


 それだけの話だ。


「それより」


 僕は話を戻した。


「さっき、君は【痛覚体験】ペインエクスペリエンスを使うのをやめるって言ったよね」


「言ったけど」


「やめなくていい」


「……え?」


 エイン君が瞬きをする。

 その反応を見て、胸の奥が少し痛んだ。


 本当に、分かっていないのだ。


「君が僕のためにやめても、何も変わらない」


 声は、思ったより静かに出た。


「僕がいないところで、君は同じことをするだけだから」


 エイン君は黙った。

 けれど、その顔は反省しているというより、まだ意味を探している顔だった。


「じゃあ、遠慮なく【痛覚体験】ペインエクスペリエンスを使えばいいの?」


 その言葉を聞いて、僕は小さく息を吐いた。


 怒りではなかった。

 僕の中にあったのは、もう少し重いものだった。


「……なんでそんな顔してるの」


「別に。対抗戦当日は、よろしくね」


「え? フレッドが、どうよろしくなの」


「王立魔法学校の一年代表は、僕だよ」


 エイン君の表情が止まった。

 ほんの一瞬だった。


 けれど、今までの軽さが、その瞬間だけ消えた。


「だから、本戦で君と当たる可能性がある。その時は、僕にも遠慮なく【痛覚体験】ペインエクスペリエンスを撃てばいい」


「……」


 エイン君は、すぐには答えなかった。

 いつものように軽く笑って流すことも、冗談にすることもなかった。


 ただ、困ったように眉を寄せた。


「……それは、できない」


「どうして?」


 僕は聞いた。

 答えは分かっていた。


 それでも、聞かなければならなかった。


「親友だからだ」


 エイン君は、そう言った。


「フレッドには、痛い目に遭ってほしくない」


 それは、たぶん本心だった。

 彼は、僕を大事に思ってくれている。


 それは分かる。

 分かってしまう。


 だからこそ、余計に苦しかった。


「僕も同じだよ」


 今度は、エイン君が僕を見る番だった。


「僕も、エイン君には痛い目に遭ってほしくない」


 僕はゆっくりと言った。


「君は、僕の親友だから、痛い目に遭ってほしくない」


 エイン君の目が、わずかに揺れた。


「だから言う」


 僕は続けた。


「君が他人を顧みないやり方は、いつか必ず君自身に返ってくる。いや……もう、何度も返ってきてるよね」


 エイン君は、何も言わなかった。

 否定もしなかった。


「今度は、君だけの問題じゃ済まないかもしれない。君が大切にしている人にまで、被害が行くかもしれない」


 声が、わずかに揺れた。


「君がずっとそのままでいるなら……僕は、君の親友ではいられない」

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