第五話
幸せに向かっていると思われたベクトルが向きを変え始めたのは、それから間もなくのことだった。ある日を境に茜の精神はまた不安定になり、度々ふさぎ込むようになった。スミレに尋ねても、最近は部屋に籠って出てこないことが多いという。雨が続いたせいだろうか。仕事は続けているが、家に帰るとスイッチが切れたように表情がなくなる。いったん希望が見えた後の後退は聡司にとってもダメージが大きく、少しずつ煙草の本数が増えた。
当直明けで昼前に自宅に戻った聡司は、玄関のドアを開けた途端に聞こえてきた茜の声に驚いて家の中へと走った。
「勝手に入らないでって言ったでしょう。何をしていたの!」
ヒステリーを起こしているような茜の前で、うなだれているスミレの姿があった。
「どうしたんだ」
聡司の声にハッとしたように茜が顔を上げた。
「何があった」
茜にではなくスミレにそう尋ねると、スミレは少し口ごもった。
「洗濯物を持って来たんです。結婚式の写真があったから、つい。アカさんが居ないときは寝室に入らないように言われてたのに。ごめんなさい」
ベッドの上には確かに、綺麗にアイロンを掛けられたシャツがあった。肩を落とすスミレに向かい、聡司は頭を下げた。
「すまなかった。君は何も悪くない。茜、どうしたんだよ、いったい」
茜の顔からすっと怒りが消え、我に返ったように見えた。
「聡司さん。……ごめんなさい、スミレちゃん。私どうかしてた。ごめんね、ごめんね」
そう言って涙を零す茜を見ながら、聡司はふと己の不幸を呪いたくなった。
新留香織から飲みに誘われたのは、翌週の金曜日だった。明日の土曜は茜の出勤日のため家で一人で寝ていられるという安心感もあって、聡司はそれに応じた。
「乾杯」
グラスを合わせ、微笑む香織は綺麗だった。自分の魅力を最大限引き出すように美しく装い、そして艶やかに微笑む様子は、茜には久しく感じなかった女を意識させた。仕事の話から始まり、院内の噂話に芸能ニュース、社会情勢まで、香織の話題は豊富だった。上手に聡司を楽しませ、知識をひけらかすことなく相手を立てる。一流のホステスになれそうだ。そう言いそうになって、これはセクハラかなと思い、聡司は言葉を飲み込んだ。
「女同士って仲がいいのか悪いのか分からない処があるね」
院内の人間関係の話になった時だった。そう言った聡司を横目で見て、「今泉さんは、そういう事に疎いから」と香織は言った。
「君はどうなの。嫌いな人はいる?」
聡司が尋ねると、「ストレートですね」と香織は笑った。
「そうねえ。不幸になって欲しいとは思わないけど、幸せになって欲しくない人はいるかも」
人当たりが良く円転滑脱な女性の口から出た言葉に驚く聡司に向かい、「女なんて皆、そんなものですよ」と香織は笑った。
夜遅く酔って帰宅した聡司は、寝室には入らずにソファに横になった。茜は寝てしまったのだろう。寝室からは物音ひとつしない。
何故こんな事になってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。一度違えてしまった歯車は、もう元には戻らないのか。毛布の代わりにコートを被り、聡司はどんよりした気持ちのまま眠りに落ちた。




