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猫になった大魔導師、暴食魔女を弟子にする

 よく晴れた昼下がり、宮廷魔導師長の執務室。




 羽根ペンが書類の束の上をひとりでに滑っている。一通り空欄が埋まると書類から降り、羽毛の部分で紙をめくって、また次の書類の上を滑る。




(なんて勤勉なペンだ。これで頭さえあればな)




 羽根ペンがせかせか動き回るのを、ブランシュはチョコレート片手にぼうっと眺めている。




 書類の形式や差出人、紙質から最も適当と思われる文章を記入していくブランシュお手製魔法の羽根ペン。


 しかしペンは考えて文字を書いているわけではない。あくまで書類の雰囲気に合った「それっぽいこと」を書いているだけなのだ。


 当然チグハグな文を書いてしまう事も多く、ブランシュはこの便利なペンの使用を禁じられている。


 しかし幸運にも部下は全員出払っていて執務室には彼一人しかいない。




 窓から射し込む暖かな光。チョコレートの甘い香り。羽ペンが紙を引っかく音。ブランシュの瞼が徐々に重くなる。




(あの書類、どこにやったかな。締切が今日だったような。でも、まぁ、別に良いか――)




 自制心と共に意識が薄れていく。


 ふかふかの椅子に体を預け、ブランシュはゆっくりと瞼を閉じる。




 だが影に紛れ忍び込んだ者の存在に気付かぬほど、ブランシュの体は鈍っていない。




 ブランシュの目が開く。既にその手には身の丈ほどもある杖が握られていた。


 己の勝利を確信しているためだろう。彼の端正な顔はチョコレートを含んだ時と同じ穏やかな表情のままだ。




 しかし刺客の姿を捉えた瞬間、彼の顔から表情が消えた。




 影から現れたのは金髪の少女。宮廷魔導師の制服である水色のローブを纏い、杖をブランシュに向けている。


 白樺の枝から削り出した、黄色い宝玉の輝く杖。魔法学校卒業の祝いにブランシュが贈ったものだ。立派な魔導師になれるよう願いが込められたその杖から、今、呪いが放たれようとしていた。




 彼女はブランシュのたった一人の弟子である。




「ジョーヌ、どうして」




 弟子の名を呼びながら、ブランシュは構えた杖をわずかに右へそらした。既に発動させていた白い炎の弾がジョーヌの左腕をかすめる。


 杖を動かさなければ、放たれた呪いをジョーヌ諸共灰にすることができただろう。


 しかし彼にはできなかった。


 数多の戦いに勝利し、国の英雄に上り詰めた魔導師も、可愛い弟子の前では情けないほどに無力であった。




「ぐっ――」




 呪いをその身に受けながら、ブランシュは転移魔法を発動する。


 場所を指定する余裕などない。とにかく、ここではないどこかへ。




「――――」




 ジョーヌが何か声を上げるが、もはやブランシュには届かない。


 ブランシュが最後に見たジョーヌの顔には、いつも彼に向けていた可愛らしい笑顔はなく、ただただ歪んだ笑みが浮かんでいるばかりであった。








*****








『情けない話だ』




 湿った土の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ブランシュはそれを溜息として吐き出す。しかし何度繰り返しても、彼の心はちっとも軽くならない。




『弟子に裏切られて、尻尾を巻いて宮廷を逃げ出して、挙句本当に尻尾が生えてしまった』




 ブランシュは歩きながら「にゃごにゃご」と呟く。




 白銀の髪、そして宮廷魔導師長の証である純白のローブは、白いふわふわの毛皮となって彼を覆っている。


 色こそは以前と同じ青であるが、切れ長だった目はクリクリと丸く、顔の三分の一を占めるほどに大きくなった。


 今まで見下ろしていた草花が視界を覆ってしまうほどに大きく、木などは見上げるほどに高い。




 ブランシュが受けたのは「変身の呪い」。


 それも醜いカエルや恐ろしい野獣、おぞましい毒虫などではなく、美しく愛らしい白猫に姿を変える呪いだった。




『なんで猫なんかに。殺すことだってできたろうに。いや、苦しんで野垂れ死ねってことか。はは……』




 尻尾を垂れ下げ、どことも分からない森の中をとぼとぼ進んでいく。


 呪いの影響か、頭が上手く働かない。靄のかかったような頭でブランシュは漠然と考える。




『最近忙しくてあまり話をしてやれなかったのが悪かったか……遊びたい盛りだろうに仕事を割り振りすぎたか……あるいは、体に悪いからやめろと言われていたチョコレートの爆買いがバレたか……』




 考えても考えても正解など分からない。考えれば考えるほど弟子に裏切られたという事実が重くのしかかる。


 かといって考えることをやめるには、この森は少し静かすぎた。






 取り留めのない思考が頭を何周かした頃。


 ブランシュは突然、頭の中の靄が晴れていくような感覚を覚えた。と同時に襲う、体の力が抜けていくような不快感。


 何者かに魔力を吸われているのだと、ブランシュはすぐに気が付いた。




『……どこのどいつだ。猫にドレインなんてする変態は』




 呟きながらふと顔を上げる。


 木々の隙間から見える光景に、ブランシュはますます困惑することになった。




 魔力が流れていく先にいたのは、まだ幼い少女だ。


 長い髪は今にも泣き出しそうな空の色をしている。彼女自身も目に涙を溜めて、それをこぼさないよう必死に堪えてるように見える。


 十歳そこそこの子供が杖もなしにドレインしている事も気になったが、ブランシュが最も気になったのは、彼女が巨大なカエルに踏み付けられ、粘液まみれになっている事だ。




「なにが暴食の魔女よ、あんたなんか何にも恐くないわ。さぁポイズンフロッグ、その魔女をぺしぺししなさい!」




 切株の上に立ち、カエルを見下ろすもう一人の少女。


 翡翠のような美しい緑の髪とは対照的に、その声はどす黒い悪意に満ちている。


 彼女の指示によってカエルが口を開け、鞭のような舌で少女の頭をリズミカルに小突き回す。


 その度、ブランシュの体から奪われる魔力が増えていった。彼女が吸収した魔力の総量は、既に並の魔法使いが持てるそれを超えているはず。




『暴食の魔女、か。上手いことを言うやつがいたものだ』




 ブランシュは呟くと、カエルに向かって尻尾を一振り。白いふわふわの尻尾の先から、赤々と燃える蝶が現れた。


 猫の口では呪文の詠唱ができないものの、幸いブランシュは無詠唱でもある程度の魔法を使うことができる。




「……?」




 蝶はブランシュの尻尾を飛び立ち、下敷きになった少女の周りをひらりひらりと舞う。少女は蝶を不思議そうに目で追う。


 しかし蝶に気付いたのは少女だけではない。


 カエルの黄色い目が蝶を捕捉する。ひらひら舞う蝶が食欲を刺激したのだろう。その舌で素早く蝶を絡め取り、飲み込んだ。




 しめしめ、とばかりにブランシュは目を細める。




 次の瞬間、派手な光と爆音をもって、カエルが爆ぜた。




「キャアッ!?」




 緑髪の少女がその衝撃に尻もちをつく。四散したカエルの臓物やら肉塊やらが、悪意と敵意に歪んだ少女の顔を赤く染めていた。


 反撃される事など微塵も考えていなかったのだろう。少女は口を半開きにして辺りを見回す。




『ははは、愉快愉快……少しやりすぎたか?』




 少女の血に濡れた顔が、みるみる憎悪に歪んでいく。


 しかしカエルが肉片となった今、彼女にできることなどない。




「これで勝ったつもりなら大間違いよ。きっと後悔するわ」




 吐き捨てると、緑髪の少女は逃げるようにして去っていく。


 その姿が見えなくなるのを待って、ブランシュは残された少女の元へ駆け寄った。魔力を奪う力は既になくなっていた。




『君、大丈夫? 怪我はなかったか?』


「……うん」




 少女が頷くのを見て、ブランシュは硝子玉のような目をますます丸く大きく見開く。


 話しかけてはみたが、まさか言葉が通じると思っていなかったのだ。




『そうか、君も動物の言葉が分かるのか』




 ジョーヌもそうだった。ブランシュはその言葉を飲み込む。


 ジョーヌの歪な笑顔がフラッシュバックし、彼の胸を再び鉛のように重くした。




 しかし目の前の少女はブランシュがジョーヌとの思い出に浸る余裕を与えなかった。


 少女はブランシュのふわふわした脇の下に手を滑り込ませ、彼を素早く抱き上げる。




『うわっ!?』




 それは少女にとってはごく自然な動作であったが、ブランシュにとっては違っていた。


 彼はついさっきまで大の大人で、しかも宮廷魔導師長という高い地位に就いていたのだ。少女に抱きかかえられるなど、彼の記憶にある限りでは初めての経験であった。




 少女は体を硬直させたブランシュの青い瞳を覗き込み、内緒話でもするかのように声を潜める。




「あなた魔法が使えるの?」


『まぁ、普通の猫よりは多少ね』




 少女は灰色の瞳を輝かせる。その目にはもう涙など浮かんではいなかった。


 彼女は巣に帰る小動物のように辺りを見回し、このやり取りが誰にも見られていないことを確認する。それが済むと、彼女と共にカエルに踏まれていたらしい潰れた買い物かごをひっつかみ、そこにブランシュを放り込んだ。




『な、なにをするんだ』


「ごめんね。ちょっとそこで待ってて」


『そう言われても――ひえっ!?』




 困惑の声は、すぐさま短い悲鳴へと変わった。


 頭上から降ってきたカエルの肉片がブランシュの狭い額に張り付いたからである。


 続々と降ってくる粘液と血に塗れたカエル肉が、ブランシュをかごの隅へと追い詰める。




『なんでカエルなんか拾っているんだ!』


「食べるの」


『た、食べる? カエルを!?』




 ブランシュは素っ頓狂な声を上げる。


 と同時に、嫌な考えが彼の脳裏をよぎった。




(まさか私の事も食べるつもりじゃないだろうね……?)

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