第43話 中京王国、王宮にて
女官達がこちらを伺い、頬を赤らめながら袖で口元を隠す。
すれ違う官僚達が尊敬と畏怖を籠めた眼差しで立礼する。
廊下を歩けば自然と道が開き、両側に人垣が出来ていく。
いつもと変わらない光景の一幕、そして――。
「来たか」
扉を開けた先で玄悠様が読書に耽っているのも、いつもの事。
こちらを見るわけでもなく、けれどもその意識はこちらに向いている。
「氏雅、どうなった?」
「万事、ご指示通りに」
書物から目を離さず、玄悠様は満足そうにその口端を歪める。
長年仕えて分かった事は玄悠様は先見性に優れる一方、何処か幼さを残しているようでもある。
もっとも、その無邪気さも悉くが国益に繋がる計算上の振舞いなのだろう。
それ程までに、玄悠様は余人の想像を超えた先を生きている。
「悠雲様は動くでしょうか?」
「動かんだろう」
短く答えると玄悠様は側に置いてある湯呑みへと手を伸ばし、その中身を一息に飲み干す。
そして、読んでいた書物を閉じてこちらへと向き直る。
その眼光は非常に鋭く、どれだけ年月を重ねても曇る事は無い。
触れれば切れると言われる所以は強靭な意志と、それを包み隠す事もしない眼光の鋭さによるもの。
「悠雲はこの程度で逃げ出す程、肝の座りが悪い男ではない」
「はぁ⋯⋯」
そういった問題ではない。
北陸の竜臣殿の準備が整い次第、まもなく近衛軍が動き出す。
いつまでも尾張に留まっていれば近衛軍によって踏み潰されるだけ。
勝ち目のない戦は国力を損なうだけで、悠雲様ならそれくらい分かるはず。
「⋯⋯氏雅よ、雅楽の教育には気を遣え」
玄悠様はこちらの困惑を見透かしたかのように笑っているが、ますます以て分からない。
なぜ今ここで雅楽の名前が出てくるのか。
雅楽は既に帰国しており、今もあやめ君のところで修練に勤しんでいる。
その教育環境には細心の注意を払っており、これ以上に何に気を遣えばいいのか。
こちらの更なる困惑を見て取ったのか。
笑みを浮かべる玄悠様の表情、その口端に苦さが溜まる。
「氏雅も大分染まってきたか⋯⋯。ひとつ問うが、国において最も大事な物は何だ?」
「それは、安定した政治と⋯⋯」
「違うな。最も大事な物、それは決意と覚悟だ」
「⋯⋯は?」
ただでさえ鋭いその眼光が、一層に鋭さを増していく。
それは絶対的な強者に、出会ってはならない存在に出会ってしまったかと錯覚させるほど。
「豊かになった時、人は何を目指す?何を教えとする?」
「それは⋯⋯」
「答えは我慢する事だ。足を踏まれても我慢しろ、殴られても殴り返すな、無用な争いを避けるために歯を食い縛って耐えろ。己の決意と覚悟を何重にも包み隠し、争わずに平穏に生きる事を是とする。これを衣食足りて礼節を知ると言う」
「それの、何が問題なのでしょうか?」
「氏雅よ、そなたは曲がりなりにも苦労をしてきた。弱小王族の家に生まれ、その家をここまで大きくしてきた。そなたはその辛さが、苦労が、悲しみが分かる。だが、雅楽はどうだ?」
⋯⋯言葉が出てこない。
玄悠様の言わんとしている事、それが何を示しているのかが何となく分かってしまった。
「雅楽にとっては今が当たり前なのだ。全てがあり豊かである今が当たり前。それらが失われる事は想像出来たとしても、その先で何が起こり得るのか、それは想像出来ないだろう」
「そのような事は⋯⋯」
「豊かさが根底にあるからこそ、我慢が出来る。失った先が実感として想像出来ないからこそ、我慢が出来る。人はそうして我慢を覚え、軟弱になり、傷つく事を恐れ、迫り来る脅威から目を逸らし、絵空事を宣いながら――やがて全てを失うのだ」
「⋯⋯」
「悠雲は本当に何もない所から始めた。王族でありながら他国に渡り、艱難辛苦をつぶさに舐めた。だからこそ、足を踏まれて声すら上げずに我慢する事。その危うさが分かる。もっとも、それが儂ら兄弟の道を別つ事になったのだがな⋯⋯」
玄悠様が自嘲気味に笑うそれは、中京王国史において抹消された過去。
口に出す事すら憚られる、悠雲様が出奔する原因となった出来事。
自分はまだ幼かったが、あの時に国は壊れるという事実を垣間見た。
一族は離散し、襤褸を纏って路傍に転がり、明日も知れない生活を送る。
その恐怖は今でも鮮明に覚えている。
たしかに雅楽を始め豊かな中で生まれ育った次の世代には想像出来ないだろう。
「全盛を生きる者は総じて荒事を嫌う。拳を振り上げれば相手も反撃してくるという痛みを嫌う。一つが駄目であったとしても選択肢は無限にある。だから、己が決意と覚悟を示して立ち向かう恐怖から逃げてしまう」
「⋯⋯」
「だが、全盛というのは荒事の上に成り立っている。何十、何百、何千、何万、何十万という人間の、血と、汗と、涙と、命の上に成り立っているのだ」
「⋯⋯」
「今を生きる者は礎となった者達の努力に、その負託に応える義務がある。己の命を脅かされようとも敢然と立ち向かい、託された物を次の世代へと繋ぐ責任がある。だから、悠雲は動かない」
悠雲様の元には1万8千の将兵がいる。
多いとは言えずとも少なくない兵力であり、それらを無為に失えば後に影響が出る。
失った兵力の分だけ国内・国外に対する国家の影響力は減少するもの。
影響力を維持出来なくなった先で待つのは破綻だけ。
それでも侵略行為に対して敢然と立ち向かい、それを許さないという姿勢を示す。
拳を振り上げた相手に、足を踏んできた相手に対して黙って我慢するのではなく、相手の不当性を示す。
決意を示せば、覚悟を示せば、それは鋭い刃となって放たれる。
相手が退かずに応戦して来たとしても、認められないものは認められない。
国家においても人が生きる上でもそれは非常に重要な事であり、悠雲様が成そうとしている事は正にそれだろう。
仮に1万8千の大京兵が戦場の露と消えようとも、大京国には上軍12,500と遠征している10万規模の国軍が残っている。
自国の上卿を殺された大京国に徹底抗戦の構えを取られれば、いかに勇猛な中京軍といえども迂闊に手出し出来なくなる。
最終的に中京軍が負ける事は無くとも列島西部の覇権はまだまだ不安定であり、大京国に掛かり切りになる事は避けねばならないからだ。
国家の威信を守る事は次の世代における豊かさを守る事に繋がる。
その礎となるべき死には、犬死だとしても意味がある。
悠雲様はそこまでを見切った上で動かないのだろう。
1万8千という兵力だけを見れば無駄な損耗だとしても、その決意と覚悟が無為に失われる事は無い。
「分かったのであれば雅楽の教育には気を遣う事だ」
はっと顔を上げれば既に玄悠様は玉座から立ち上がり、自身の愛刀を手にしている。
素早く宮中装束の帯を解いて表れたのは軍装。
「悠雲を殺しては後が面倒だ。近衛の指揮は儂自ら執る」
「お、お待ちください。玄悠様が自ら戦場に立つなど⋯⋯」
「氏雅。大京国は血の滲むような努力で手にした豊かさを、全盛しか知らん一人の馬鹿のせいで失った。だが、悠雲の次は悠月だ。彼の国は今さえ凌げば化けるだろう。それこそ雅楽達の時には優劣が逆転しているかもしれん」
それだけ言うと玄悠様は扉の向こうへと消えていく。
廊下を歩く足音が徐々に小さくなっていき、やがて静寂へと変わる。
あの時――。
悠月殿を送り届けさせた決断は、間違っていなかったはず。
だが、それは自国と大京国の関係が今のままである事を想定した上での行動だった。
大京国がかつての強国へと立ち戻るのは長い年月がかかる。
それこそ、悠月殿の次の世代までかかるかもしれない。
だからこそ大京国は飼い慣らす価値があり、決してこちらの手を噛むものでは無い筈だった。
対華国の都合の良い駒として使い、そうすれば列島西部の覇権は盤石となり、中京国は列島における地位を不動の物とする事が出来る。
そう判断したからこそ、雅楽達世代の為に危険を冒して送り届けさせたのだ。
だが、もし玄悠様の言うように中京国が大京国の風下に立つ日が来るとしたら?
それが、雅楽達世代で起こり得るとしたら?
その可能性が限りなく低い事は分かっている。
今回の内乱で大京国は国力を更に低下させ、経済基盤である東海地方一帯を失う。
その現実は変わらない、変わらない⋯⋯はずだ。
人智を超えた先見性を持つ玄悠様でも予測を見誤る事はあるだろう。
この豊かさを雅楽に渡す為であれば。
ここに来るまでに見た光景が、雅楽の時にも変わらない為であれば。
躊躇う事はしない。
それが、誰であったとしても――。