裏話 彼岸⇔此岸を分かつ川の岸辺
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目が覚めたとき、目の前は一様に赤く見えた。草が顔に当たる擽ったさと固い地面に、私は土の上にそのまま寝ていたと知る。頭をあげると辺り一面に曼珠沙華が咲いていた。
知らない川の土手。岸辺には赤い曼珠沙華。川は黒く濁っている。向こう岸はまるで見えないくらい遠い。私は今まで何をしていたのか分からなくなってしまった。たしか自分の部屋で眠っていたはずだったのに。
妙に頭が重い。ぼんやりする。首も息苦しく感じる。じっとしているとますます息が詰まりそうで、理由もなく恐怖して泣きだした。一人でここにいるのは、怖い。
足音が聞こえる。足元の草が踏みつけられる音。散った赤い花びらが緩い風に乗って宙を舞う。
「なぜあなたも来てしまったのですか」
その人は背はお父様より高く、しかしお父様のように相撲取りのような脂肪がついているわけでもなく、ひょろりと伸びた手足をした男の人だった。
その人は私の目線に合わせるように目の前にしゃがみこむ。泣いている私をあやすように丁寧に、低い声で語りかけた。
その人の顔を初めて見る。綺麗な灰色の目をした人だ。不思議と何処かであったような、奇妙な安心感があった。お兄様と年齢が近そうに見えるからだろうか?
「泣かないで下さい。さもなければ……私も、泣いてしまいますから。」
みるみるうちにその人は涙を流す。見るに耐えない位涙で濡れてくると俯いて、三角座りし始めた。どうしてこの人はこんなに泣いているんだろう。よくわからない。呆気にとられて自分の涙は止まっていた。
「その、大丈夫ですか?」
「……っ、ええ、ええ、大丈夫です、あなたが私の前で涙を流しているよりは私が恥ずかしいだけなので。できれば手とか握ってくだされば良いのにだなんて思ってませんから。」
それは普通に嫌だ。汗とか涙とかでべとべとしてそうだし。
そんな事を考えていると自分よりはるかに大きなその人がなんだか大きな弟のように思えてきて、ついついいつも弟にしているように背中を撫で擦る。ヒロくんは泣いているとき大概こうすると落ち着くのだ。
「このまま、」
「え?」
「私が、落ち着くまで続けてくれますか?」
そっと、背中を撫でる。手のひら越しに伝わる体温は生温く、息をする度に上下する。お兄様にもしたことがないかもしれない。
けれどこうして広い背中を撫でるのは懐かしい気がした。
そう、懐かしい。
「なんだが懐かしいような気がします。あなたのことは知らないはずなのに、知っているような気がする。初めてあったのに家族と同じくらいの距離感のような、長い間一緒にいたような、そんな気がするんです。」
「……私も。私もそうですよ。ここで会えたのが、あなたで良かった。」
そのまま長い時間が過ぎたような気がした。実際はもっと短かったのかもしれないしもっと思っていたより長かったのかもしれない。けれど、お互いこの時間を名残惜しいと思っていたことは確かだと思う。泣いたら思いの外すっきりして、もうどこも苦しくない。
「あなたは、あなたはどうしてここにいるんですか?」
そういえば、どうしてここにいるんだったか。全く覚えがない。自分の部屋で寝ていたのは知っている。けど、今着ているのは学校の制服だ。思えばここも随分と現実味がない。こうして知らない人と親しげに会話なんてできるはずがないのに、体に触ってすらいる。これは夢だ。夢に違いない。
「さあ?夢じゃないかな。」
「……私はこれが夢なら、覚めないでほしい。」
「そう?」
なんだか、とても体が浮き足立ってきた。ふわふわしたいい気分。このままどこへでも行けそうな気がしてきた。だって夢なんだから。これは夢。今なら目の前に広がる川だって渡れそうなくらい。この突拍子のなさこそ、夢の証明でしょう?
岸辺に近付くと、あんなに黒く濁っていた川が、底が見えるほど透明な水になっていた。気分によってこんなに見方が変わるなんて。邪魔な靴や靴下を脱ぎ捨てて裸足になる。一歩足を川に踏み入れた。水は冷たくも熱くもない。ずっと浸かれば現実の水の冷たさも忘れてしまいそう。残った片足も入水する。
風を切る音、花が散る音。制止の声。
「この川の先に、行ってはなりません。」
その先に行こうとした私を、腕を引っ張って岸辺に連れ戻したのは矢張りあの人だ。目元は涙で腫れていて、顔も赤くなっている。
「でも、私は行かなくちゃ。」
強くそのまま腕を引っ張られる。背中に回る腕。目の前にはこの人の胸板。私は訳もわからずこの人に抱き締められていた。
「あなたは、生きているのだから。渡るのは、あと数十年経ってからがいい。たとえその間に私がいなくても。愛した人が死を選ぶのは見たくない。」
「あなたは、一体誰なの?」
「これは、夢です。夢だからこそ、目覚めなければならない。あなたは目が覚めたら学校に行く。いつもと変わらない、幸せな日々を過ごすんです。」
目の前は、赤い。赤い花が埋め尽くしているから、それらがぼやけて見えるから、赤い。
体はどこか、上の方に引っ張られていた。それに抗うように少しだけ抱きしめる力が強くなったけれど、やがてそれも消えてなくなった。残った熱量も、目の前の存在も消えていく。最後に残ったのは、声だけだった。
「この先あなたは、きっと私の顔をした私に逢うでしょう。ですがこれから出会う私に騙されないで。あなたはきっと、私がいなくても生きていける。忘れないで。」
*
「……行ってしまいましたか。」
無惨に散った曼珠沙華。その跡からまた新しい花が咲く。ここは何時だって生に偏る。生と死の間の通り道。
「ここから出られたら、今度は現実で会えるだろうか。」
かつての自分の行いの愚かさにこうして一人きりで閉じ込められて何年経っている?
「いえ、きっともう会えない。ここで会えただけでも奇跡なこと。」
恐らく現実の自分が死なない限り現実に戻ることは不可能だろう。表の介入なく会えたのは奇跡としか言いようがない。そもそもここに人が来たこと事態がおかしい。
「でも、あのままでは首を絞められて死んでしまう。」
制服の隙間から見えたあの首を絞められた跡。ここに来たということは、生かさず殺さずの目に遭ったということだろう。
もちろんここを追い返してしまった以上、肉体は死に向かっている。ここに来る間もなく、次は向こう岸に行くだろう。無駄な延命措置と知っていながら、僅かな希望に全てをかけた。
「書き換えればいい。」
風が吹き抜ける音の中に何かが混ざる。
私の他には誰もいないはず。
川から何かが辿り着く。
拾い上げた汚れた本。濡れてしまってその機能は失われた。
タイトルはない。
この場には私以外、誰もいなかった?