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第16話 領都への誘い

 森を抜けて村へ戻る頃には、空はすっかり暮れかけていた。


 夕靄の中を歩きながら、クランは何度もあのオーガの死体を思い返していた。

 一度は確かに倒れたはずの魔物。


 それが再び動き、胸元には不自然な紋様が刻まれていた。

 あれは、ただの魔物ではなかった。


 借りている空き家へ戻ると、アリシアは戸口をくぐった途端に力が切れたようだった。

 ベッドへ腰を下ろしたかと思えば、そのまま小さく身体を丸め、すぐに眠ってしまう。

 リアはそんな寝顔を見つめ、わずかに目元を和らげた。


「よほど疲れていたのですね」

「ああ」


 クランも短く答える。


 疲れているのは自分も同じはずだった。

 だが、頭の中だけは妙に冴えていた。


 焼けた村。

 黒い剣。

 紋様の刻まれたオーガ。


 どれも繋がっているのか、いないのか。

 考えても、答えは出ない。

 リアは小さな袋を取り出し、静かに差し出した。


「今日はお疲れ様でした。ささやかではありますが、報酬です」


 クランは袋を受け取る。

 見た目より重かった。


 中を改めるのは気が引けたが、感触だけで分かる。

 これは、ただのオーガ討伐の礼としては多い。


「……多くないか?」


 リアは少しだけ困ったように微笑んだ。


「もしそう思われるのでしたら、アリシアの身の回りのものを揃えてあげてください」


 そう言われ、クランは思わずベッドの上へ目を向けた。


 昨夜リアから渡された替え衣に身を包んだ少女は、小さな寝息まで年相応に幼い。

 白い髪は頬にかかり、耳元を隠している。


 何も知らなければ、ただ疲れて眠っている子どもにしか見えなかった。

 その姿に、クランは小さく息を吐く。


「……助かる」


 そこで、言葉が止まった。

 昨夜、リアに言われたことを思い出す。


 助かった、でも十分に伝わる。

 けれど、私は“ありがとう”の方が好きです。


 クランは一度口を閉じ、少しだけ視線を逸らした。


「……ありがとう」


 ぎこちない声だった。

 リアは少し驚いたように目を瞬かせ、それからやわらかく微笑む。


「どういたしまして」


 その笑みは、何かを勝ち取った者のものではない。

 ただ、クランが選んだ言葉を素直に受け取る。


 それだけの顔だった。

 リアはすぐに表情を引き締める。


「明日、私は領都マルムへ戻ります」

「領都に?」

「ええ。今日の討伐結果を本部へ報告しなければなりません」


 そこで、リアは声を少し落とした。


「特に、あの紋章については早めに確認を取る必要があります」


 やはり、リアも軽くは見ていない。

 クランの胸に残っていた違和感が、少しだけ輪郭を持つ。


「この家も、私が村に滞在している間だけ、騎士の権限で借りられていたものです」


 リアは申し訳なさそうに目を伏せた。


「私が村を離れる以上、このまま使い続けていただくことはできません」

「……そうか」


 仕方がない。

 それは分かる。

 むしろ、ここまで気を回してもらっただけでも十分すぎた。


「いろいろ気を遣わせたな」

「いえ」


 リアは静かに首を振る。


「むしろ、ここからが本題です」


 その言い方に、クランはわずかに眉を上げた。


「これからどうされますか?」


 真っ直ぐに見つめてくる碧い瞳。

 責めるでも、試すでもない。


 ただ、本当に気にかけている目だった。

 クランはすぐには答えられなかった。


 これから。

 その言葉が、思ったより重かった。


 ルクレールへは戻れない。

 騎士としての道も閉ざされた。

 エラール村は焼けた。

 アリシアは何者か分からない。

 自分自身が、何者なのかも分からない。


「……分からない」


 短く答える。

 リアは頷いた。

 それを弱さとは受け取らなかった。


「では、選択肢の一つとして聞いてください」


 彼女は静かに続ける。


「良ければ、一緒に領都マルムへ来ませんか」

「……俺が?」

「ええ。伯爵領で最も大きな街です。住む場所も、仕事も、この村にいるよりは探しやすいと思います」


 それは現実的な提案だった。

 兵として雇われるにしても。

 冒険者として食っていくにしても。


 今のまま名もない村に留まるより、領都へ出た方が道はある。

 それに――あの紋章のことも気になっていた。


 自分に手掛かりはない。

 だが、騎士であるリアが確認を取るというなら、何か見えてくるかもしれない。


「もちろん、無理にとは言いません」


 リアは続ける。


「貴方がこの村に残る道を選ぶなら、それも選択です。ただ、この村に長く留まるには仕事も少なく、アリシアの身の回りのものを揃えるのも難しいでしょう」


 アリシアの名が出た時、クランは再びベッドへ視線を向けた。

 眠っている少女の手は、いつの間にか毛布の端を握っている。


 小さな手だった。

 自分一人なら、どうにでもなる。

 そう言い切れたかもしれない。


 だが、今は違う。

 クランはすぐには答えなかった。


「……一晩、考えさせてくれ」

「もちろんです」


 リアはやわらかく頷いた。


「では、明日の朝、出発前にもう一度立ち寄りますね」


 そう言って立ち上がりかけたところで、リアはふと何かを思い出したようにクランを見た。


「そういえば」

「何だ」

「クランとアリシアは、ご兄妹ではありませんよね?」


 クランの目が、わずかに細くなる。


「……ああ。違う」

「差し支えなければ、どのようなご関係かお聞きしても?」


 責める口調ではなかった。

 それでも、その問いの意味は分かる。


 騎士である以上、幼い少女を連れた男を見れば確認は必要だ。

 分かってはいる。

 だが、それでもほんの少しだけ胸の奥がざらついた。


「いろいろ事情があって、ある村で俺が保護した」


 そこで言葉を切る。


「……信じてもらえないかもしれないが」

「そうですか」


 リアは静かに頷いた。

 疑いを深める様子はない。

 それがかえって意外で、クランの方が先に問い返していた。


「……奴隷として連れ回しているとは思わないのか」


 リアは少しだけ目を丸くした。

 それから、ベッドで眠るアリシアへ視線を移す。


 少女は眠っている。

 けれど、その小さな手は、いつの間にかクランの服の裾を握っていた。

 リアはその手を見てから、静かに答える。


「可能性としては、考えました」


 正直な返答だった。

 クランは黙る。


「ですが、今のアリシアは貴方を怖がっているようには見えません」


 リアは続ける。


「むしろ、離れたくないと思っているように見えます」


 そして今度は、クランを見た。


「それに、クランも――とても不器用ですが、ちゃんとこの子を気にかけているではありませんか」


 胸の奥に、少しだけ温かいものが落ちる。

 リアはそこで、少しだけ苦笑した。


「もっとも、初めて村の入口でお見かけした時は、お二人とも随分とお疲れのご様子でしたので……ほんの少しだけ、貴方の言った可能性も考えましたが」


 クランもさすがに否定はできなかった。


「……まあ、それはそうだろうな」

「違うようで安心しました」


 リアは小さく笑う。

 それから、表情を改めた。


「ただし、もし何か危険があると判断した時は止めます。そこは、覚えておいてください」

「ああ」


 クランは短く頷いた。

 甘いだけではない。


 見ている。


 疑うべきところは疑う。

 それでも、見捨てない。

 リア・グローリーという騎士は、そういう人間なのだろう。


「では、失礼します」


 リアは一礼すると、今度こそ静かに家を後にした。

 扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。


 クランはしばらく立ち尽くしていたが、やがて椅子へ腰を下ろした。

 手の中には、まだ報酬袋の重みが残っている。


 重い。

 金の重みではない。

 これからを考えろと突きつけられているような重さだった。


 ◇


 いつの間にか、少しだけうとうとしていたらしい。


「……くらん」


 袖を引かれ、クランは目を開ける。

 目の前では、アリシアが半分眠そうな顔で立っていた。


「おなかすいた」


 クランは数秒、黙ってから息を吐いた。

 袋の重みを思い出す。

 今夜くらいは、まともなものを食べてもいいはずだ。


「何か食いに行くか?」

「くいにいく」


 さっきまで眠そうだったくせに、声だけは妙に元気だった。


 村の小さな食堂には、夜でも灯りが輝いていた。

 席に着くと、クランはアリシアへ訊いた。


「何食べたいんだ?」

「ぱん」

「……本当に好きだな」


 結局、パンとシチューを頼む。

 運ばれてきた料理に、アリシアは目を輝かせた。


 両手でパンを持ち、少しずつちぎって、シチューに浸して食べる。

 その様子だけなら、ごく普通の子どもだった。


 だが、クランは知っている。

 この少女が、普通ではないことを。


 倉庫で起きたこと。

 黒い剣。

 結界を消したあの力。

 分からないことだらけだ。


「なあ、アリシア」

「なーに?」


 口の端にシチューをつけたまま、アリシアが見上げる。


「お前は……何者なんだ?」


 アリシアはきょとんとした。

 それから、少しだけ考えるように首を傾げる。


「わたしは、わたしだよ」


 それは、はぐらかしには聞こえなかった。

 本当に、そうとしか思っていない声だった。


 クランが黙っていると、アリシアは逆に不思議そうな顔になる。


「くらんは、ちがうの?」


 その問いに、今度はクランが言葉を失った。


 自分は何者なのか。

 ルクレールの騎士ではない。

 故郷を守れた男でもない。


 命令に従えなかった者。

 逃げた者。

 それでも、目の前の少女の手だけは離せなかった者。


 答えは出ない。

 アリシアはそれ以上気にした様子もなく、またパンをちぎって食べ始める。


 クランは小さく息を吐いた。

 求めていた答えではない。


 だが、嘘でもないのだろう。

 そして、妙に胸に残った。


 ◇


 食堂を出た夜道は静かだった。


 冷たい風が、昼間の森の匂いをどこか遠くへ押し流していく。

 クランは隣を歩く小さな白い頭を見下ろした。


 行くあては、まだない。

 だが、何もしないままこの村に留まる気もなかった。


 リアの言う通り、領都へ行くべきなのだろう。

 仕事のためでもある。

 アリシアのためでもある。


 そして、今日見たあの紋様を見過ごさないためにも。

 空を見上げる。


 雲の切れ間に、細い月が浮かんでいた。

 それは道を照らすほど明るくはない。

 けれど、完全な闇でもなかった。


「……明日、マルムへ行くか」


 隣でアリシアが見上げてくる。


「まるむ?」

「ああ。次の行き先だ」


 アリシアはよく分からないまま頷いた。


「じゃあ、いく」


 その返事が、妙に自然で。

 クランはわずかに口元を緩めた。


 何者なのかは、まだ分からない。

 どこへ行けばいいのかも、まだ分からない。


 それでも。

 次の行き先だけは決まった。


 まずは一歩、前へ進む。

 そう思えた夜だった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや応援をいただけると励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。

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