第15話 正しさの代償
夜の静けさが、ルクレール城を包んでいた。
騎士長室の窓から差し込む月明かりが、机上に積まれた書類の端を淡く照らしている。
紙束は整然と揃えられていた。
印章。
報告書。
地図。
伝令の覚書。
すべてが乱れなく並べられている。
その中央で、シャルロット・ロア・エクスレイは一枚の報告書へ目を落としていた。
控えめなノックが響く。
「どうぞ。お入りください」
柔らかな声だった。
それだけで、部屋の空気がわずかに和らぐ。
扉が開き、副騎士長フェルナンドが姿を現した。
「夜分に失礼いたします、騎士長」
無駄のない所作で一礼する。
「ええ。お疲れのところありがとうございます」
シャルロットは穏やかに微笑んだ。
「報告を伺ってもよろしいですか?」
フェルナンドは机の前へ進み、感情のない声で告げる。
「エラール村の件は完了しました。抵抗は軽微。作戦はおおむね計画通りに終了しております」
報告書を読み上げるような口調だった。
「村内に残っていた住民については、生存者を確認しておりません」
短い沈黙が落ちた。
シャルロットは報告書へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
その沈黙が、悼みなのか。
確認なのか。
フェルナンドには判別できなかった。
やがて、彼女は静かに目を伏せる。
「……分かりました。おおむね、意図した形にはなったのですね」
責める声ではない。
労う声でもない。
ただ、次へ進むための言葉だった。
「ベルダイル側の襲撃と見せかける工作も進行中です。領内への通達準備も、明朝までには整います」
「ありがとうございます。手際の良い対応に感謝します」
シャルロットは机上の書類を揃え、視線を上げた。
「では、次に移りましょう」
「はい」
即答だった。
だが、フェルナンドはすぐに次の報告へ移る。
「ただ、一点、想定外がありました」
シャルロットの指先が止まる。
「騎士クランの件です」
その名にも、彼女の表情は崩れない。
「彼は命令違反のうえ、騎士ラッセルを負傷させました。その後、村内倉庫へ隔離し、魔術結界を施していたのですが……脱走しています」
そこで初めて、シャルロットの睫毛がわずかに揺れた。
「……魔術結界を、ですか?」
「はい。破壊した痕跡は確認できませんでした」
フェルナンドは声を低くする。
「まるで、最初からそこに存在していなかったかのように消えております」
沈黙。
シャルロットは視線を落とし、静かに思考を巡らせた。
クランが命令に従わなかったこと自体には、驚かない。
彼にはまだ、守るべきものへ縛られる甘さが残っていた。
だからこそ同行させた。
だが、結界を抜けた理由だけは別だ。
彼自身の力ではない。
そこに何かがある。
まだ見えていない何かが。
やがて、シャルロットは顔を上げた。
「大規模な追跡は不要です」
落ち着いた声だった。
「騎士クラン一人のために、今、兵を大きく割くべきではありません」
「口外された場合は」
フェルナンドが確認する。
シャルロットは小さく微笑んだ。
「多少、面倒ではありますね」
だが、その声音に焦りはない。
「ですが、彼が何を語ろうと、それだけで民は動きません。証拠もなく、後ろ盾もない。命令違反者となった平民騎士の訴えだけで、情勢が変わることはないでしょう」
不思議と、人を納得させる声だった。
そこで、シャルロットは一度だけ言葉を切る。
「ですが、結界を消した理由は別です」
紫の瞳が、静かに細まる。
「政治ではなく、力の問題ですから」
「所在の確認は続けますか」
「ええ。追跡は最小限で構いません。ただし、彼の行き先と、結界を抜けた理由は確認してください」
「承知しました」
「副騎士長」
「はい」
「領内全体の戦支度を進めてください。兵站、徴発、避難路――すべて今一度ご確認を」
「承知しました」
フェルナンドは一礼し、踵を返した。
扉へ向かう途中、わずかに足を止める。
「……騎士長」
「何でしょうか」
「騎士クランを同行させたのは、やはり試したのですか」
問いというより、確認だった。
シャルロットは少しだけ首を傾げる。
「必要な人材かどうか、見極めることは上に立つ者の務めです」
微笑みは崩れない。
「それ以上でも、以下でもありません」
フェルナンドは数秒だけ沈黙し、やがて一礼した。
「失礼しました」
扉が閉じる。
廊下には、プレデリカが立っていた。
壁際に姿勢よく立ち、感情を押し殺すように前を見据えている。
手袋の内側で、掌の傷がわずかに疼いた。
あの夜、自分で槍の刃へ押し当てた傷だ。
何も選ばなかった顔では戻れない。
そう思って刻んだはずの痛みが、今は別の形で胸の奥に残っている。
フェルナンドはその横を通り過ぎながら、一瞥した。
「……次は君か」
返事はない。
「相変わらず律儀だな、プレデリカ隊長」
なおも反応はなかった。
フェルナンドは小さく息を吐く。
「融通が利かぬのも、考えものだ」
それだけ残し、廊下の奥へ去っていった。
プレデリカは、彼の背を見なかった。
掌の傷が、また疼く。
痛みは小さい。
だが、消えない。
やがて室内から声が届いた。
「プレデリカ隊長。どうぞ、お入りください」
扉を開け、プレデリカは一礼する。
「失礼します」
「お待たせしてしまいましたね」
シャルロットは柔らかく微笑んだ。
「どうぞ、お掛けください」
「いえ。このままで結構です」
「そうですか」
責めることなく頷く。
「では、ご用件を伺っても?」
プレデリカは真っ直ぐにシャルロットを見据えた。
手袋の内側で、掌の傷がまた熱を持つ。
問いに来た自分も、結局はこの城へ戻っている。
命令系統から外れたわけではない。
その事実が、怒りより先に喉を塞いだ。
それでも、口を開く。
「今回のエラール村の件です」
息を整える。
「騎士長は、本当にご存知だったのですか」
即答だった。
「ええ。把握しておりました」
シャルロットは、浮かべた微笑みを崩すことすらしなかった。
胸の内で、信じていたものが軋む。
それでも、プレデリカは続けた。
「もう一点あります」
声が硬い。
「なぜ騎士クランを同行させたのですか」
言葉が、わずかに重くなる。
「処分すると決まっている故郷へ」
シャルロットは机上で指を組んだ。
「順にお答えしますね」
その口調は、あくまで穏やかだった。
「ベルダイルとの戦いは避けられません。そうなれば、ルクレールには結束と大義が必要になります」
プレデリカの眉が寄る。
「そのために、村を犠牲にしたと?」
シャルロットは否定しなかった。
「結果としては、そうなります」
声に熱はなかった。
だが、誇りもなかった。
「望ましい判断ではありません。ですが、必要な判断です」
「必要なら、領民を殺してもいいと?」
「いいえ」
静かな否定だった。
「許されることではありません」
プレデリカの目が揺れる。
シャルロットは続けた。
「許されないことを、必要だから選ぶ。それが、上に立つ者の責任です」
「それでは……騎士ではなく、処刑人です」
プレデリカの声は静かだった。
だが、そこには明確な拒絶があった。
シャルロットは、少しも揺れない。
「そう見えるのであれば、否定はしません」
「騎士長」
「ですが、プレデリカ隊長」
「はい」
シャルロットは、穏やかな声のまま問いかけた。
「十人なら、貴女は良かったのですか?」
プレデリカの呼吸が止まる。
シャルロットの声は少しも荒れなかった。
「百人なら。千人なら。あるいは、ルクレール領全体が戦に呑まれるまで、誰も選ばずにいるべきだったのでしょうか」
「……人数の問題ではありません」
「ええ」
シャルロットは静かに頷いた。
「私も、そう思います」
その返答に、プレデリカは言葉を失った。
「人の命は数で測れるものではありません。ですが、上に立つ者は、数を見ないわけにはいきません」
穏やかな微笑は、崩れない。
だが、その声には、ほんのわずかな重さがあった。
「一人を切れば、一人分の罪です。村を切れば、村一つ分の罪です。領を失えば、領に住むすべての者の死を背負うことになります」
「だから、エラール村を選んだと?」
「その判断に至りました」
シャルロットは、また否定しなかった。
「小さな村一つを守った結果、領全体が乱れるのであれば、上に立つ者はより多くを守る判断を選ばねばなりません」
「その村にも、人がいました」
「ええ」
「意思がありました」
「ええ」
「守られるべき命だったはずです」
「その通りです」
シャルロットは、一つも否定しなかった。
だからこそ、プレデリカは歯を食いしばる。
否定してくれた方が、まだ反論できた。
間違いだと言い切ってくれた方が、まだ楽だった。
だがシャルロットは、すべて認めたうえで、その判断を変えない。
「誰かが選ばなければなりません」
静かな声だった。
「そして、選んだ者は、その結果から目を逸らしてはならない」
「……それが、騎士長の正しさですか」
「私の役目です」
短い答えだった。
プレデリカの拳に力がこもる。
手袋の内側で傷口が引きつり、微かな痛みが走った。
問いに来た。
抗議するために。
それなのに、自分はまだこの部屋で、上官の言葉を聞いている。
その事実が、腹の奥を冷たくした。
「騎士クランの同行理由ですが」
シャルロットは話を戻す。
「地理把握のためでもありました」
「それだけではないでしょう」
「はい。それだけではありません」
紫の瞳が静かに細まる。
「彼が、騎士として何を選ぶ人間か見たかったのです」
「故郷を焼かせてまで?」
「故郷だったからこそ、です」
プレデリカの喉が詰まる。
「人は、自身と関係のない場所では、いくらでも自分を偽れます」
シャルロットは、淡々と続けた。
「ですが、大切なものの前では誤魔化せません」
「それでも従うなら、組織の騎士になれた。従えないなら、いずれ綻びます」
そして微笑んだ。
「なら、早い方がよろしいでしょう?」
穏やかな声だった。
それが、なおさら恐ろしい。
「……あまりにも勝手です」
プレデリカの声に、怒りが滲む。
「彼にも、村にも意思があります」
「ええ。ありました」
シャルロットは否定しない。
「ですが、戦は個人の意思だけで避けられるものではありません」
優しく問いかける。
「もし彼を抱えたまま出陣し、戦場で命令拒否が起き、多くが死んだなら」
静かな問いだった。
「その責任は、誰が負うべきでしょうか」
返す言葉が浮かばない。
心は拒絶している。
だが、理屈がそれを押し返してくる。
プレデリカは唇を結んだ。
息を吸う。
胸の奥で、何かが軋む。
「……それでも」
絞り出すように言う。
「守るために剣を取った者も、いるはずです」
シャルロットはほんのわずかに目を伏せた。
「ええ。そう願う方は尊いと思います」
再び顔を上げる。
「ですが――」
穏やかな微笑のまま。
「正しさだけで、人は守れません」
その一言が、深く刺さった。
「プレデリカ隊長。あなたは誠実です。だからこそ、迷われるのでしょう」
「……承服はできません」
震える声だった。
「この件について、私は納得していません」
「ええ」
「それでも今は、隊長として命令系統を乱すことはできません」
プレデリカは顔を上げる。
灰青の瞳に、迷いと怒りが沈んでいた。
「ですが、騎士長。私はこの命令を、正しいとは思いません」
室内が静まり返る。
シャルロットは、少しだけ目を細めた。
怒りではない。
失望でもない。
まるで、その答えを最初から知っていたような静けさだった。
「ありがとうございます」
勝ち誇る響きはなかった。
ただ、当然のように受け止める声だった。
「貴方がそう言ってくださることには、意味があります」
「……失礼します」
プレデリカは踵を返す。
「プレデリカ隊長」
足が止まる。
「迷えることは、弱さではありませんよ」
プレデリカは振り返らなかった。
掌の傷が、手袋の中で鈍く疼く。
「……私は、今は、そう思えません」
それだけ残し、部屋を出た。
廊下を歩きながら、プレデリカは唇を噛む。
納得していない。
許していない。
それでも従った。
騎士団の規律を乱さなかった。
部隊長としての責任を捨てなかった。
だが。
胸の奥では、何かが確かに折れかけている。
手袋の内側の傷が、歩くたびに痛んだ。
あの夜、自分は槍を汚した。
何も選ばなかった顔では戻れないと思った。
では、今はどうだ。
問いを投げて、答えを聞いて、それでも城の廊下を歩いている。
その自分は、何を選んだのか。
(私は……何を守っているの)
答えは出ない。
ただ一つ確かなのは。
彼女の中で、“騎士”という言葉の形が揺らぎ始めていたことだけだった。
◇
誰もいなくなった騎士長室。
シャルロットは静かに窓の外を見た。
月明かりだけが、城壁を白く照らしている。
机の上には、エラール村の名が記された報告書が残っていた。
彼女はそれを、指先で押さえる。
紙の端が、わずかにずれていた。
その乱れを、静かに整える。
倉庫。
魔術結界。
消えた平民騎士。
ほんのわずかな興味が、胸の奥に残る。
だが、それもすぐに次の判断の中へ沈んでいった。
「いずれにせよ」
独り言のように呟く。
「……整えなければ、なりませんね」
民の怒りも。
兵の迷いも。
そして、まだ見えていない綻びも。
その微笑みは、どこまでも穏やかだった。
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