第12話 リア・グローリー
肺が焼けるように痛み、呼吸のたびに胸の奥が軋んだ。
足は、とっくに限界を越えている。
それでも、クランは止まれなかった。
止まれば終わる。
その確信だけが、身体を前へ押していた。
どれだけ走ったのか、もう分からない。
背後にあった焦げた臭いはいつしか薄れ、湿った土と草の匂いが鼻を満たしていた。
それでも、胸の奥に焼きついた光景だけは消えない。
燃える家。
倒れた人影。
ラッセルの声。
プレデリカが空けた道。
そして、手の中に残る小さな体温。
隣では、アリシアが小さく肩で息をしている。
白い髪は乱れ、耳元を隠すように頬へ張りついていた。足取りも危うく、それでも遅れまいと懸命についてきている。
クランは横目で見て、短く言った。
「……無理なら言え」
「へいき」
即答だった。
声が震えている。
どう見ても、平気ではない。
だが、それ以上は言わなかった。
クランにも、立ち止まる余裕はなかった。
やがて木々の切れ間の先に、木柵と簡素な門が見えた。
煙の匂いがある。
人の声が聞こえた。
家畜の鳴き声も混じっている。
村だった。
足が、わずかに止まる。
ここに入れば、少なくとも今夜は雨風をしのげるかもしれない。
アリシアを休ませることもできる。
だが同時に、追手がここまで来れば、この村を巻き込むことになる。
今の自分は何者なのか。
ルクレール騎士団の命令に背いた者。
焼かれた村から逃げ出した者。
そして、正体を隠さなければならない少女を連れている男。
「……どうするの?」
アリシアが不安げに見上げる。
名を告げれば、追手に届くかもしれない。
黙れば、目の前の門は開かない。
隣では、アリシアが袖を握っている。
クランは、どちらにも進めないまま一瞬だけ黙った。
「……行くしかないだろ」
吐き出すように答え、門へ向かう。
槍を持った兵士が二人、警戒の目で立っていた。
「止まれ」
短い声だった。
「ここから先はワトル伯爵領だ。最近、流れ者が増えている。名と用件を言え」
クランは少しだけ沈黙した。
名を隠すべきか。
偽るべきか。
だが、嘘を重ねる余力もない。
「……クランだ」
それだけ答える。
「用件は」
「休む場所を探している」
兵士の目が細くなる。
当然の反応だった。
泥と煤にまみれた男。
古い剣を持ち、子どもを連れ、名以外の事情を話そうとしない。
怪しまれない方がおかしい。
「素性も目的も曖昧なまま、武器を持った男を村へ入れるわけにはいかない」
兵士が一歩前へ出る。
「その剣は預かる。子どもも確認する」
アリシアが、ぎゅっとクランの袖を掴んだ。
乱れた白い髪が耳元を隠している。
それでも、赤い瞳だけは隠しきれない。
クランの身体が、わずかに前へ出た。
剣には手をかけない。
ただ、アリシアと兵士の間に立つ。
「……その子には触るな」
低い声だった。
兵士の表情が険しくなる。
「怪しいな。なおさら確認が必要だ」
空気が張り詰めた。
クランは動かない。
兵士も槍を下ろさない。
ほんの少しでも間違えれば、刃が交わる。
その時だった。
「――確認は必要です」
静かな声が、張り詰めた空気に入った。
振り向く。
そこに立っていたのは、一人の騎士だった。
白と紺青を基調とした軽装。手入れの行き届いた銀の部分鎧。柔らかな金の髪を後ろでまとめ、澄んだ碧い瞳でこちらを見ている。
煙と疲労で曇っていた視界の中で、その金の髪だけが、朝の光を拾ったように淡く輝いて見えた。
威圧しているわけではない。
声を荒げてもいない。
それでも、その場にいた者たちは自然と姿勢を正していた。
「グローリー卿……!」
兵士たちが慌てて背筋を伸ばす。
女騎士は、彼らを責めなかった。
「警戒は正しい判断です」
穏やかな声だった。
「ですが、怯えた子どもを無理に引き離す必要はありません」
兵士たちは言葉を失う。
「武器の確認も必要です。ただし、相手を追い詰める形で行えば、余計な衝突を招きます」
叱責ではない。
けれど、逃げ道のない訂正だった。
クランは黙って、その女騎士を見ていた。
兵士を責めているわけではない。
かと言って、自分たちを無条件に庇っているわけでもない。
ただ、場を正しい形へ戻している。
そんな印象だった。
女騎士は、クランへ向き直る。
「私はリア・グローリー。この地の領主、イグレート・ワトル伯爵に仕える騎士です」
丁寧に一礼する。
「貴方と、その子の身柄は、私が一時的に預かります」
助かった。
そう思うより先に、警戒が立った。
クランは目を細める。
「……なぜ、助ける」
リアは少しだけ瞬きをした。
その問いを、不快とは受け取らなかったようだった。
「助けると決めたわけではありません」
柔らかく、けれどはっきりと答える。
「確認するべきことはあります。貴方は武器を持っていますし、事情も話していない。警戒される理由は十分にあります」
クランは黙る。
「ですが」
リアの視線が、クランの袖を掴むアリシアへ向いた。
「今、その子は貴方の後ろに隠れています」
アリシアが、さらに袖を握る。
「そして貴方は、剣を抜かずに、その子の前に立った」
リアはもう一度、クランを見る。
「危険かどうかは、まだ分かりません。ですが、今この場で放り出すべき相手には見えませんでした」
それは、信用ではなかった。
盲目的な善意でもなかった。
ただ、目の前のものを見たうえでの判断だった。
クランは言葉を返せない。
こういう相手を、知らなかった。
命令で動かす者ではない。
怒鳴って従わせる者でもない。
ただ問い、見て、線を引く。
そういう騎士だった。
「ただし、条件があります」
リアの声が少しだけ引き締まる。
「この村にいる間、村内で剣を抜かないこと。守れますか?」
命令ではない。
問いだった。
だが、軽い言葉ではなかった。
クランは、しばらくリアを見ていた。
穏やかな顔。
だが、甘いだけではない。
線を引く者の目だった。
「……分かった」
「ありがとうございます」
リアは小さく頷く。
「では、休める場所を手配します。詳しい事情は、今すぐでなくて構いません」
そこで、少しだけ声をやわらげる。
「まずは、その子を休ませてあげてください」
アリシアが、クランの袖を握ったままリアを見る。
リアはしゃがみ込み、目線を合わせた。
「あなたも、よく頑張りましたね」
アリシアは答えない。
ただ、クランの陰に半分隠れたまま、じっとリアを見ている。
リアは無理に近づかなかった。
手も伸ばさない。
ただ、穏やかに微笑んだ。
「怖くはありませんでしたか?」
アリシアは一瞬だけクランを見て、それから小さく首を振った。
「……へいき」
強がりだった。
リアはそれを見抜いたように、やわらかく微笑む。
「では、今日はもう、頑張らなくて大丈夫です」
その声に、アリシアの指先がわずかに緩む。
「お腹は空いていませんか?」
アリシアは少し迷ってから、小さく頷いた。
「……すこし」
「では、後で食料をお持ちしましょう」
アリシアの頬が、ほんの少しだけ緩んだ。
クランはその光景を黙って見ていた。
胸の奥に張りついていた重さが、わずかに緩む。
こんな感覚は、いつ以来だろうと思う。
リアは立ち上がり、兵士たちへ向き直る。
「この方たちの滞在は、私の責任でワトル伯爵へ報告します。門の記録にも残してください」
「は、はい!」
「それと、今夜は外周の見回りを増やしてください。追われている可能性もあります」
兵士たちの顔が引き締まる。
「承知しました、グローリー卿」
リアは頷き、改めてクランを見る。
「こちらへ。門番詰所からも見える場所に、旅人用の空き家があります」
案内された家は小さかったが、丁寧に手入れされていた。
粗末ではある。
だが、屋根があり、壁があり、眠れる場所がある。
それだけで十分だった。
「こちらをお使いください」
リアは扉の前で足を止める。
「事情は明日、改めて伺います。こちらからの話も、その時に」
「……そこまでして、何をさせるつもりだ」
クランの声は低い。
警戒は消えていなかった。
リアは、誤魔化さなかった。
「この周辺では最近、魔物の出現が報告されています」
穏やかな声音のまま、必要なことを告げる。
「私は明日、その討伐と周辺警戒に向かう予定です。もしご協力いただけるのであれば、ささやかではありますが、報酬をご用意できます」
クランは黙った。
金がない。
行く当てもない。
そして、何もしなければ余計なことを考えてしまう。
「……俺が怪しいとは思わないのか」
「思います」
即答だった。
クランが少しだけ目を見開く。
リアは困ったように、けれど正直に微笑んだ。
「思います。ですから、見える場所にいていただきたいのです」
柔らかな声。
だが、内容は甘くない。
「休む場所は用意します。食事も用意します。ですが、貴方が何者なのかを確認しないまま、完全に自由にすることはできません」
そこで、少しだけ目を伏せる。
「それでも、今夜この村の外へ追い返すことは、私には正しいと思えませんでした」
クランは何も言えなかった。
不思議な人物だった。
優しい。
だが、無防備ではない。
疑っている。
それでも、見捨てない。
「……分かった」
短く答える。
「明日、手伝う」
「ありがとうございます」
リアは静かに頷いた。
「今日は、どうかお休みください」
その言葉は、命令ではなかった。
だが、クランの身体から力を抜くには十分だった。
「怪我を負い、荷もなく、子どもを連れている。そういう方ほど、まず休むべきです」
クランの目が、一瞬だけ揺れる。
見抜かれている、気がした。
だが、不思議と嫌ではなかった。
リアは一礼し、家を後にする。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
その背を見送りながら、クランは小さく呟いた。
「……ただの騎士、なわけがない」
アリシアが首を傾げる。
「りあ?」
「ああ」
クランは短く答えた。
「あの女騎士だ」
「こわくない」
アリシアがぽつりと言った。
クランは少しだけ目を伏せる。
「……そうだな」
怖くはない。
だが、分からない。
分からないのに。
少なくとも今だけは、息をしてもいい気がした。
同じ頃。
村の外れの森、その奥深く。
闇の中に、赤い目がいくつも灯っていた。
獣のものにしては、動きが揃いすぎている。
魔物のものにしては、息遣いが重すぎる。
低く唸る声。
何かを引きずるような音。
そして――鉄の鎖が鳴った。




