第13話 夜の静けさ
椅子に腰を下ろした瞬間、身体の奥に残っていた力が抜けた。
脚は重い。
感覚も鈍い。
肺の奥には、まだ焼けるような違和感が残っている。
一体、どれだけ走ったのか。
思い出す気にもならなかった。
部屋は静かだった。
広くはない。
上等でもない。
だが、最低限の手入れは行き届いている。
雨風をしのぎ、身体を休めるには十分な場所だった。
だからこそ、静けさが耳についた。
燃える音がない。
怒声もない。
剣の音もない。
なのに、目を閉じると、焼けた村の匂いだけが戻ってくる。
クランは手のひらを見た。
血と煤で汚れた手。
誰かを救った手ではない。
命令を拒み、同僚に剣を向け、逃げるために少女の手を握った手だった。
視線を横へ向ける。
ベッドの上で、アリシアが小さく身体を揺らしていた。
こくり、こくりと頭が落ちかけ、そのたびに薄く目を開けて持ち直している。
無理もない。
クランは一瞬だけその様子を見て、視線を落とした。
救えなかった記憶だけが、また一つ増えた。
──また、何もできなかった。
声にはならない。
だが、その言葉だけは、はっきりと胸の内に残る。
かつて、手を伸ばしても届かなかった少女がいた。
あの後悔を振り払うために、剣を取ったはずだった。
守るために。
同じことを繰り返さないために。
それでも、現実は何一つ変わっていなかった。
騎士としての道は、もうない。
ルクレールへ戻ることもないだろう。
そのはずだった。
それでも、胸の奥にはまだ、消えないものがある。
白銀の光。
死を覚悟した戦場で、自分を救った背中。
聖剣を掲げ、人界と魔界を繋ぐ絶望を封じた聖騎士。
シャルロット・ロア・エクスレイ。
あの人の光を見たから、クランは騎士を目指した。
あの人の下なら、今度こそ誰かを守れるかもしれないと信じた。
平民出身でも、騎士でいていいのだと。
守ろうとする意思は、無意味ではないのだと。
そう思えた。
だからこそ、分からない。
フェルナンドは言った。
騎士団上層の判断だ、と。
誰の名も出さなかった。
シャルロットの名も、アランス侯爵の名も。
それでも、その言葉だけで十分だった。
副騎士長が、あれほど迷いなく村を焼く命令を口にした。
領民を処分すると言った。
ベルダイル軍による虐殺として扱うと、淡々と告げた。
独断だと切り捨てるには、あまりにも整いすぎていた。
そう考える自分がいる。
そんなはずはないと、否定する自分もいる。
あの人が。
あのシャルロットが。
エラール村を切り捨てると、本当に判断したのか。
分からない。
信じたい。
だが、もう信じきれない。
そのどちらもが、胸の中で絡み合っていた。
──正しい者だけを救えるほど、組織は単純ではない。
いつか聞いた言葉が、耳の奥で鈍く響く。
あの時は、ただ厳しい現実を知る騎士長の言葉だと思った。
今は違う。
正しさのために呑み込めと言われたものが、いつの間にか人の命に変わっていた。
貧しい村。
税を払いたくても払えなかった人々。
見て見ぬふりをした大人たち。
それでも、そこに生きていた人間たち。
そのすべてを、戦のためという言葉で処分していいのなら。
騎士とは、何を守るものなのか。
分からない。
何もかもが、分からなくなっていた。
これからどうするのか。
その問いだけが、静かに残る。
ワトル領に残るのか。
兵として雇われるのか。
あるいは冒険者として日銭を稼ぐのか。
いずれにせよ。
もはや“騎士”として生きる道は――。
その時だった。
ぐう、と。
小さく、間の抜けた音が部屋に響いた。
クランは顔を上げる。
ベッドの上で、アリシアが自分の腹を押さえていた。
「……くらん、おなかすいた」
か細い声だった。
あまりにも場違いで。
あまりにも、生きている音だった。
クランはしばらく黙っていた。
そして、短く息を吐く。
「……そうか」
そういえば、まともな食事などしばらく取っていない。
逃げることだけで精一杯だった。
金はない。
食料もない。
どうする。
アリシアが不安げにこちらを見ている。
その時。
扉を叩く、控えめな音が響いた。
クランはゆっくりと立ち上がる。
「……誰だ」
「リア・グローリーです。少し、よろしいでしょうか」
澄んだ声だった。
クランは扉を開ける。
そこに立っていたのは、昼間と変わらぬ落ち着いた佇まいの騎士だった。
手には小さな包みを抱えている。
「夜分遅くに申し訳ありません」
柔らかな声音だった。
「簡単なものですが、よろしければお召し上がりください」
差し出された包みの中には、パンとチーズ、それに牛乳が入っていた。
帰り際、食料を持ってくると、彼女は確かにアリシアへそう言っていた。
「……いいのか」
「ええ。困った時はお互い様です」
自然な返答だった。
気負いも、押しつけもない。
それが、かえって分からなかった。
なぜ、ここまでしてくれるのか。
何の命令でもなく。
何の得にもならないはずなのに。
「それと――」
リアの視線が、部屋の奥にいるアリシアへ向く。
「女の子には、きれいな服を着せてあげてください」
そう言って差し出されたのは、淡い色の子ども用の替え衣だった。
控えめな作りだが、生地は柔らかく、仕立ても良い。
ただ着るためだけの服ではないと、一目で分かる。
アリシアはそれを受け取り、不思議そうに見つめた。
服と食べ物。
それから、リアの顔。
順番に見て、やがて小さく口を開く。
「……りあ、ありがとう」
少しだけ嬉しそうな声だった。
リアはやわらかく微笑んだ。
「どういたしまして」
それから、リアはアリシアの目を見て、静かに尋ねた。
「頭に触れても、いいですか?」
アリシアは少しだけ迷った。
クランを見る。
クランは何も言わなかった。
決めるのは、アリシアだ。
やがて、アリシアは小さく頷いた。
「……いい」
「ありがとうございます」
リアはそれを確かめてから、そっとアリシアの頭を撫でた。
アリシアの表情が、わずかに緩む。
替え衣は胸の前に抱えたままだった。
パンを見る。
それから、また替え衣を見る。
突然、渡されたものをどうすればいいのか、困っている顔だった。
クランは、その光景を黙って見ていた。
命令ではない。
役割でもない。
価値があるから残すのでもない。
ただ、目の前にいる少女を、少女として扱っている。
それだけのことが、今のクランにはひどく遠いものに思えた。
リアは一歩下がる。
「それでは、明日はよろしくお願いいたします」
小さく会釈し、静かに背を向ける。
「……待て」
クランの声が、その背中を止めた。
リアは足を止め、振り返る。
クランは少しだけ視線を逸らし、それでも言うことにした。
「……いろいろ、助かった」
短い言葉だった。
不器用で、素っ気ない。
それでも今のクランには、精一杯の礼だった。
リアは数秒だけ彼を見つめ、それからほんの少し首を傾げた。
「助かった、でも十分に貴方の気持ちは伝わります」
責める響きではなかった。
ただ、少しだけ笑うような声音だった。
「けれど、私は“ありがとう”の方が好きです」
クランは言葉に詰まる。
リアは、クランを急かせなかった。
ただ、やわらかな表情でクランを見つめる。
やがてクランは、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
ぎこちない声だった。
だが今度は、確かに言葉になっていた。
リアは満足そうに微笑んだ。
「どういたしまして」
それだけ言うと、今度こそ静かに去っていった。
扉が閉まる。
部屋に、再び静寂が戻った。
だが、先ほどまでとはどこか違っていた。
クランはしばらくその場に立ち尽くし、やがて手にした包みへと視線を落とす。
まだ温もりが残っている。
それが妙に現実的で。
そして、わずかに軽かった。
椅子に腰を下ろす。
アリシアはすでにパンへ手を伸ばしていた。
だが片手には、もらった替え衣をしっかり抱えている。
パンを見て、服を見る。
どちらに先に手を付ければいいのか、まだ決められないようだ。
クランはその様子を見て、静かに息を吐いた。
何も解決していない。
村は戻らない。
騎士としての道も閉ざされたままだ。
シャルロットのことも、フェルナンドの命令も、何一つ答えは出ていない。
明日どうなるのかも分からない。
それでも。
完全に行き止まりというわけでもない。
そう思えたことだけが、今夜はかすかな救いだった。
夜は、静かに更けていく。
その静けさの外側で。
村のどこかから、犬が一度だけ吠えた。
すぐに、鳴き止んだ。
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