第12章 空っぽの自分
人というものは、他人の眼、他人の評価が気になってしまうものだ。
おそらく、それは本能的な欲求なのだろう。
例えば、校庭で球技遊びをしていても、クラスメイトに、「カッコいい」と思われたくなってしまう。
また、ゲーム内で戦っていても、仲間に、「スゲー」と言ってもらいたくなる。
他人に認められたいのか?
それとも、他人より上でいたいのか?
しかし、そんな気持ちは捨てられるのだ。
単に、捨てようと決意すればよいだけのことである。
問題は、捨てた後にある。
誰にどう思われても関係ないと、心底、思った時、本当の自分の欲求が見えるはずである。
しかし・・・。
「あれっ、自分のやりたいことって、何なのだろう?」
高いモチベーションを有し、先頭を突っ走る輩には無縁であろうが、ダラダラと適当に生きている人間が陥りやすい罠である。
さてさて、自分のために、何をやったら良いのだろうか?
好きな遊びをしても、傍観者がいなければ、すぐに飽きてしまう。
達成感を味わおうとしても、そこに行くまでの道のりで挫折してしまう。
誰かの賞賛や応援がないと進めない。
そんな無理をしてまでやりたいことなど見当たらない。
そこに見えるのは、空っぽの自分である。
「思えば、自分は何をやりたいのであろうか?」
行けと言われるから、学校に通った。
働かなければ、食えないから働いた。
眺めてみれば、自分の中には何もないように見えてしまう。
でも、よくよく見てみれば、何もないなんてことは、絶対にないはずだ。
殺漠とした世界の中で、諦めてしまった物、洗脳と命令により忘れてしまった物が埋もれているはずである。社会という化物が作り出した線路の上を歩くのではなく、本来の自分が行きたい方向へ進めばよいだけである。
仮想世界に思いを馳せるのも良かろう。
宇宙の果て、未知の世界を想像するのも良かろう。
偶像なるものを追いかけるのも良かろう。
全ての人間は自由なのだから、やりたいことをやればいい。
ただ、他人に認められない自由を貫いてしまうと、時に軋轢を生じることもあるから、そこだけは考慮した方が良いだけだ。
極端な話、殺したいから、人を殺すなどということをしてしまえば、破滅する。周りの反対を押し切って進んだ先で孤立するなんてこともあるかもしれない。
自由を貫いたことにより、自分の大切なものや生きる環境が壊れてしまっては割に合わないということだ。
そこさえ注意すれば、何をやっても問題ない。
生まれた直後、自分は何を求めて動き出したのであろうか?
まるで、ダムが決壊したかのように、空っぽの脳には、無数の情報が流れ込み、その心地良さが、活動の源であったのではないだろうか?
強力な原動力である。
しかし、時がたてば、見慣れた風景ばかりになっていく。
目新しいものも見えなくなっていくのだ。
そして、生まれし頃に持っていた希望は色あせていく。
生まれたての自分が感じたものを思い出したい。
原点に立った頃の自分を思い出したい。
時間はある。急ぐことはない。
無理して、走れば、失速する。
考えもなしに進めば挫折する。
天に向かって手を伸ばすが如く、人というのは、何かを求めて進まなくてはならないものだ。
だから、ダラダラと生きながらも、少しは新たな何かを探し求めた方が良い。
もう、これ以上はいらないという至高の境地に達するまでは、ずっと、何かを探し求めて、ゆっくりと一歩を踏み出し続けるのが良いだろう。




