(7)
結局、わたしが水島さんを突き落としたか否かという問題はウヤムヤのまま終わった。
目撃者がなく、わたしは突き落としていないと主張し、水島さんはその逆だと言い張り、平行線をたどったからだ。
最終的に水島さんは大した怪我をしていなかったので、なあなあに収められた話と言える。
ワタルは「大変だったね」とこちらを労わってくれたが、水島さんについてはなにも語らなかった。
ここのところのワタルはいつもそうだったので、わたしからそういうことを聞くこともないまま。
わたしはワタルに「わたしのことを信じてる?」などと聞きそうになった。いや、聞きたかった。
心を通じ合わせているという自信も、自覚もあったけれど、たしかなものは言葉で欲しい。
そう思ってしまうのは決しておかしいことではないはずだ。
けれどもわたしは聞けなかった。
「俺に任せて。サヨリはただ、俺を信じているだけでいいから」
ワタルはそう言ったから。
たぶん、そういうことなんだろうとわたしはわたしを無理矢理に納得させる。
けれども周囲がわたしたちのことを心配しているのがわかると、その決意も流れて行ってしまいそうになる。
ワタルは相変わらず忙しい毎日のなかで、どうにかこうにか水島さんと会う時間を捻出しているようだった。
やっぱり、ワタルと水島さんがなにを話しているのかはわからない。
ただ、ここのところワタルとの面会を終えた水島さんは、機嫌がいい。
恨み骨髄とまではいかないにしても、殺人未遂犯に仕立て上げられそうになった先日の出来事がある以上、わたしは彼女のことを腐したくなってしまう。
わたしは心の綺麗な人間ではないし、当然人格者でもないし、ひどく寛大な人間でもなかった。
だから水島さんがワタルと会って機嫌を良さそうにしていると、どうしても「嫉妬」みたいな感情に苛まれてしまう。
しかしそれはだれにも漏らせなかった。
周囲の神官さんたちはわたしを同情的に見ていて、わたしのことを被害者扱いしてくれる。
だけどそこに甘えて愚痴なんて吐いたら引かれるんじゃないかとも思ってしまう。
ワタルにだったら、こんなことは考えないのだけれども、他人が相手ではそうもいかない。
だから結局、この感情はひたすら抑えて、フタをするしかないものだった。
同時期にあるウワサが流れ始めたことも、わたしの心を乱してくる。
わたしとワタルが実はひとには言えない関係だというウワサだ。
「ひとには言えない関係」の内実は様々だった。わたしがワタルを略奪しただとか、あるいはその逆だとか――わたしたちはキョウダイであるだとか。
飛び交う数多のウワサのうち、ひとつだけは真実だったが、それは他の正確ではないウワサの中に沈んでいるようなものだった。
だからわたしが毅然としていれば、「ああただのウワサなのね」という感じで他人は解釈しているようだ。
でもそれはそれ、これはこれ、というのがひとの心理らしい。
きっとわたしがことさら否定してもしなくても、このウワサが収束するにはある程度時間がかかる。
「わたしとワタルがキョウダイだなんて。全然似てないのに」
神官さんたちにそう笑うと、彼女らは「そうですよね」と言う。
どこまで信じているのかはわからない。
そういう疑心暗鬼の心も、わたしの中に生まれ始めていた。
だれかを羨んだり、嫉妬したり、怒ったり、憎んだり、疑ったり。
そういうことと人生は切り離せないものだと、わたしは思っている。
わかってはいるけれど、やはり疲れてしまうのが現実だ。
菩薩のような心持ちになれればいいのになーなどと、どうしても栓無いことを考えてしまう。
「疲れてる?」
「……うん。まあね」
「ここでの生活にも慣れてきたから、今までの疲れが出たのかもね」
そういえば、ここのところワタルにキスされていない。
そのことに気づくと、じわじわと不安がさざ波のように押し寄せて来る。
――わたしから、してみようか?
びっくりするかな? と思う。
でも、結局わたしはなんの行動にも移せなかった。
今はまだ、そのときじゃないんじゃないか、という直感があったから。
「俺に任せて。サヨリはただ、俺を信じているだけでいいから」
信じているだけでいいから。
言うのは簡単だけれども、「信じる」という行為は難しいのだとわたしは痛感する。
「信じるだけ」……その「だけ」が難しい。
でも、今のわたしはただワタルの言葉を忠実に守る以外に、することがないのも事実だった。
それからもワタルと水島さんの頻繁な面会は続いたが、わたしたちに関する悪いウワサは徐々に収束に向かっていた。
燃料がないのだから燃えようがない、というのが実態なんだろう。
ひとまずわたしを悩ませる出来事がひとつ終わりそうな気配に、ほっとする。
けれども水島さんの存在は、やはりわたしの頭を、心を悩ませた。
今度の「聖洞穴」での祈りの儀についていきたいとワガママを言い出したのだ。
「聖洞穴」での祈りの儀は、平素の祈りの時間と同様に、神子がひとりで行うもの。
縦にも横にも深い鍾乳洞の最奥に入り、神に祈りを捧げるという儀式だ。
当然、神官さんたちは水島さんのワガママを跳ねのけた。
その日の面会室は外からでも様子がわかるくらいひどいものだった。
ヒステリックな声に、物がぶつかる音。
心配になって面会室に立ち入ろうとしたところで、急に静かになったから、結局わたしは大人しくしているよりほか、なかった。
そして不思議なことに、出てきた水島さんは上機嫌で、扉のそばに控えていたわたしを見て、フフンと鼻で笑った。
わたしはいつものようにそんな挑戦的な水島さんを見て見ぬフリをする。
そして水島さんはいつもだったらそこでちょっとムッとするのだが、その日は機嫌の良いまま、ステップでも踏み出しそうな様子で去って行く。
大神殿の正門の外では豪奢な馬車が待機しており、いつものように水島さんはそこで綺麗な男のひとの手を借りて、車の中に乗りこんだ。
わたしはいつものように、あの男のひとはワタルと頻繁に会っている水島さんをどう思っているんだろう……と不思議に思う。
それから馬車が蹄と車輪の音を立てて街の中へと消えて行く……。いつも通り、幾度となく繰り返された光景だった。
しかし言ってしまうと、これがわたしが見た、水島さんの最後の姿だった。
聖洞穴の儀式の日。
はじめに、洞穴の奥からか細い悲鳴が聞こえた。いや、聞こえるか聞こえないかくらいの悲鳴だった。
なので、洞穴の外に控えていた神官やら騎士やらといった人間たちは、さわさわと控え目に言葉を交わす。
「悲鳴?」「聞こえなかったぞ」「いや、たしかに悲鳴だった」――。
それからかなり経って、みんなが悲鳴は気のせいだったと思い始めたところで、息を切らせ、しかし青い顔をしたワタルが洞穴から飛び出して来たのだ。
当然、その場にいた人々は仰天して、神官さんたちは走り出て倒れ込んだワタルに向かう。
「神子様、どうされました?」
「ひとが……ひとが突然現れて……落ちて……」
ひどくうろたえるワタルから出てきた言葉に、わたしは息を飲んだ。
しかし周囲のひとたちはまだ、なにが起こったのかじゅうぶんには理解できていないようだった。
「ひと? 聖洞穴にひとが?」
「ええ。突然、上の横穴から姿が見えたと思ったら、洞穴の縦穴に落ちて……。とにかく、だれかいっしょに来てください。今ならまだ息はあるかも……」
「失礼ながら、見間違えでは?」
「いや、絶対にひとです。わたしが先導しますから、だれか他にひとを……」
そうして体力自慢で恐れを知らない騎士を三人引きつれて、ワタルはあわてた様子でまた洞穴へと引き返して行った。
今では洞穴の外は騒然としていた。
「こんなことは、初めてだ」。そんな声があちらこちらから飛んで、みなアレコレと勝手な憶測を並べ立てている。
わたしはただ、神子の侍者としてじっと待つよりほか、なかった。
しかしかなりの時間があったあと、戻ってきた騎士たちは三人とも首を横に振った。
隣に立つワタルはショックを受けたようにうつむいて、口元に手をやって震えていた。
そんなワタルを気づかって、神官さんたちはあれやこれやと言葉をかけているが、彼はしばらくその場から動けなかった。
はっきり言って、スキャンダルだった。
聖なる儀式の場で死人が出たなんて、どうあがいてもスキャンダル以外のなにものでもない。
たとえそれが完全な事故だったとしても、だ。
だからその場にいた人間には箝口令が敷かれ、この事実は闇へと葬られた。
横穴から落ちて、深い縦穴の底に叩きつけられて死んだのは、水島さんだった。
でもこれは言うまでもないと思う。
だって、わたしはわかっていたから。
「俺に任せて。サヨリはただ、俺を信じているだけでいいから」
そう言われたときから、わたしはなんとなくわかっていた。こういう結末になるってことを。
洞穴の外で白い顔をしたワタルと目が合ったとき、わたしは彼がなにを考えているかわかった。
わたしたちは、双子である以前に、深く愛し合っていたから。
水島さんにあの横穴の場所を教えたのは、ワタルなんだろう。
恐らく、密会したいとか、神前で愛を誓いたいとか、テキトーなことを言って呼び寄せたんだろう。
だからあれは事故だけれど、そこに故意はあったということになる。
けれどもだれもそんなことは知らない。
仮にワタルにあの横穴の存在を教えたひとがいたとしても、それは証拠にはならない。
教えたひとも、わざわざ告発なんてしない。
ワタルはそういうことを全部わかった上で、決行したんだろう。
ワタルは悪いことをしたんだと思う。
けれどもわたしの心は痛まないどころか、スキップでもしたい気分だった。
そこで初めて、わたしは思ったよりも水島さんのことを嫌っていた自分に気づいた。
「信じてくれて、ありがとう」
すべてが終わったあと、ベッドの中でワタルはそう言った。
わたしは返す言葉の代わりに、自分からワタルにキスを送った。
ワタルはくすぐったそうに笑って、それを見てわたしも笑った。
こうして夜が更けて行って、朝になって、そしてまた日常が始まる。
そこにはもう水島さんはいないけれど、それはわたしたちにとっては、どうでもいいことだった。