ep11 優しい子
「……て、天使……」
アベルの前に現れたハニエルは、彼に視線を向けたまま、静かに歩み寄った。
「き、君たちは一体……」
突然の出来事に、老人は動揺していた。
「……ご主人。この子供は、人間の姿をしていますが――悪魔です」
ハニエルは淡々と、しかしはっきりと告げた。
老人は息を呑む。
「……!」
その背後で、ルイスもアベルを見つめていた。
(これが……悪魔……? どう見ても、普通の子供なのに……)
「くっ……!」
アベルは歯を食いしばり、テーブルの上にあったマグカップを掴むと、ハニエルめがけて投げつけ、窓の方へ走った。
ハニエルは即座にそれをかわし、翼から光の矢を生み出す。
逃げようとするアベルの背へ、一直線に放った。
「うっ……!!」
矢はアベルの左肩を貫き、彼は床へと転がり落ちる。
「アベル!!」
老人が駆け寄ろうとした、その腕を――ハニエルが制した。
「待って。今から、彼の本性がわかる」
老人が震える目でアベルを見ると、彼の背中から、黒い翼のようなものがゆっくりと生え始めていた。
傷ついた左肩から、肉体は歪み、人ならざる怪物の姿へと変貌していく。
「ヴッ……ヴヴァ……」
「……ア、アベル……」
老人は言葉を失った。
「化けの皮が剥がれたね」
ハニエルが静かに言った、その瞬間――
アベルは凄まじい勢いでハニエルに飛びかかった。
ハニエルは即座に剣を出して攻撃を受け止める。
だが次の瞬間、アベルは隙を突き、玄関から外へと逃げた。
「ルイスはご主人の側に!
レオ、行くよ!」
ハニエルはそう叫び、アベルを追う。
家の外で待っていたレオは、まだ青い顔をしていた。
「えぇ……マジかよ……。まだ具合悪ぃのに……」
渋々そう言いながらも、レオはハニエルの後を追った。
ハニエルとレオが去ったのを確認し、ルイスは床に座り込んだ老人の元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか……?」
「あ、あぁ……」
老人の視線の先には、床に散らばった割れたマグカップがあった。
それをそっと拾い上げながら、老人は呟く。
「これは……あの子が、ずっと使っていたものだ……」
切なげな表情だった。
「思えば、あの子がここに来て、もう五年になる。
五年も経つのに、姿はまったく変わらなかった。
おかしいとは……思っていたんだ。思っていたはずなのに……」
「……お爺さん……」
ルイスの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
この人が、どれほどアベルを大切に思っていたのか――痛いほど伝わってくる。
———-
ハニエルは翼を広げ、一瞬でアベルに追いついた。
「私からは逃げられないよ」
先回りするように着地し、アベルの進路を塞ぐ。
「くそっ……! 」
アベルはさらに身体を悪魔化させ、鋭い爪を振り上げてハニエルへ襲いかかる。
ハニエルは剣でそれを受け止めた。
そこへ、遅れてレオも追いつく。
「あー……こんな時に限って……。
ハニエル! 俺、今、剣持ってねぇんだけど!」
ハニエルは一瞬レオを見て、翼から光の剣を生み出し、地面へ突き立てた。
「それ使って」
「サンキュー。んじゃ、一丁やりますかぁ……」
レオは剣を掴み、アベルへ斬り込む。
「ぐあっ!!」
ハニエルとレオ、二人の攻撃に、アベルは押されていた。
(爺さん……ごめん……
でも、爺さんにだけは……バレたくなかった……
こんな姿、見せたくなかった……)
家の中で、自分の変貌を目撃した老人の顔が脳裏に浮かぶ。
(でも……最後に……爺さんに……伝えたかったな……)
ハニエルが、とどめの一撃を放とうとした、その時――
「アベル!」
叫び声が響いた。
振り向くと、そこには老人とルイスの姿があった。
ルイスは老人を背負ってここまで運び、そっと地面に下ろす。
「……爺さん……」
アベルは目を見開いた。
「アベル……。私は……ずっと寂しかったんだ」
老人は、静かに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「戦争で家族を亡くして……それからずっと、あの家で一人で暮らしていた。
そんな時に、お前が現れたんだ……」
「アベルと暮らすようになってから、私は……毎日が楽しくて、幸せだった……」
老人は震える声で続けた。
「歳を取らないお前が悪魔だということ……
気づかないふりをしていたのかもしれない……。
でも……それでもよかったんだ……」
「……悪魔でも、天使でも……お前が側にいてくれるなら……それでよかった。
形なんて、どうでもよかった……。
アベル……お前は、私の大切な子だ……」
涙を浮かべながら、老人は言った。
「……じ、爺さん……」
アベルの目から、涙が溢れ出す。
「爺さん……ごめん……っ……騙してて、ごめん……っ……!
俺……悪魔なんだ……! 人も、たくさん殺してる……!
最初は……爺さんのことも、殺そうとしてた……! でも……でも……!」
「爺さんは……俺を……ずっと優しい目で見てくれてた……。
何かするたびに『ありがとう』って……
俺……そんなこと……生まれて初めてで……」
「……いいんだよ、アベル……」
老人はゆっくりと近づく。
「気づかないふりをしていた私も……悪かったんだ……」
「俺……爺さんと出会って……変わったんだ……!
悪魔としてじゃなくて……人間として……生きたいって……!」
「……うん……」
老人は微笑んだ。
「ちゃんと見ていたよ……アベル……。
お前は……本当に……優しい子だ……」
そう言って、悪魔の姿をしたアベルの頭を、そっと撫でる。
「うっ……ううああぁぁっ……!!」
アベルは、まるで本当の人間の子供のように、声を上げて泣いた。
その光景を見て、ルイスの目にも涙が滲む。
「ハニエル……どうするの……?
この子……悪魔だけど……でも……」
「……この悪魔は、過去に多くの人間を殺している。
さっきの人間の姿が、その証拠だ」
ハニエルは冷静に言う。
「今はまだ力が弱いかもしれない。
でも……この先、どうなるかはわからない」
「所詮、悪魔だ。
今見逃したら、きっと後悔することになる」
レオも低くそう言った。
「…………」
ルイスは、何も言えなかった。
「……そうだ……」
アベルが、ゆっくりと口を開く。
「そいつらの言うとおりだ……。
俺のしたことは……もう取り返しがつかない……」
「……天使……もういい……
俺を……消滅させてくれ……」
「……っ……!」
ルイスは息を呑む。
「……わかった」
ハニエルは静かに答え、アベルへと歩み寄った。
「……何か、言い残すことは?」
「…………」
アベルは、老人を見て、無邪気な笑顔を浮かべる。
「……爺さん……ありがとな……」
次の瞬間――
ハニエルの剣が、アベルを貫いた。
アベルの頬を、一筋の雫が伝う。
「……ア……ベル……」
黒い塵となって消えていくその姿を、老人はただ、見つめることしかできなかった。
「……終わったね……」
ハニエルはそう言って、剣を消した。
「……うん……」
悪魔とは、いったい何なのか――
その時のルイスには、もう分からなくなっていた。
———
それからルイスたちは、老人を家まで見届けた。
「……お爺さん、どうかお身体にお気をつけて……」
ルイスは老人の手をそっと握って言った。
「……ありがとう。色々と、すまなかった……」
そう言って老人はハニエルを見つめる。
「お嬢さんも……すまなかった……」
「いいえ……私こそ……」
ハニエルは静かに頭を下げた。
「私達にとっては敵の悪魔でも、ご主人にとっては大事な子だったはずです…。それを私は奪いました…」
「ハニエルっ……」
ルイスは、その姿に目を見開く。
「頭を上げてください、お嬢さん」
老人は寂しげに微笑んだ。
「見て見ぬふりをしていた私にも責任があります。
あなたは……天から与えられた使命を果たしただけ。
悪いのは……私なのです……」
ハニエルはゆっくりと顔を上げる。
その時のハニエルの表情は、辛さを我慢してるように見えた。
ルイスは、その顔を見てようやく気づいた。
あの場でハニエルは、天使としての使命を優先し、心を切り離して剣を振るっていたのだ。
(……僕は……何も気づけなかった……
全部、君に背負わせてしまった……ごめん……ハニエル……)
三人は、老人に別れを告げ、その場を後にした。
———-
宿に戻り荷物を整え、次の街へ向かう途中。
「……ハニエル……ごめん……」
ルイスは立ち止まって言った。
「今回……僕、何もできなかった……」
「……そんなことないよ」
ハニエルは静かに微笑んだ。
「今回の悪魔は、まだルイスには早かっただけ」
「それだけじゃない!」
ルイスは顔を伏せた。
「……全部……ハニエルに背負わせてしまった……ごめん……」
「ルイス」
ハニエルは歩み寄り、ルイスの頬にそっと手を添えた。
「私は、ルイスが側にいてくれるから、安心して戦える。
どんな時も……私の味方でいてくれるからだよ」
ルイスは、その手に自分の手を重ねる。
「……ハニエル……ありがとう……
次は……僕も一緒に戦う」
「うん……!」
ハニエルは、柔らかく微笑んだ。
「お前ら、行くぞ」
レオの声が二人を現実に引き戻す。
「うん!!」
立ち止まることもあるだろう。
それでも、どんな時でもハニエルを守りたい――
ルイスは、そう強く胸に誓った。
———-
街を出て、しばらく歩いた頃。
「ねぇ、ハニエル……悪魔にも魂はあるんだよね?」
ルイスの問いに、ハニエルは頷く。
「うん。あるよ。
悪魔っていうのは、前世で重い罪や悪行を重ねた人の魂が転生したもの。
それを私たち天使が、悪魔討伐という形で処刑しているの」
「……そういうことだったのか……」
ルイスは考え込む。
「じゃあ……僕たちが倒した悪魔は……
今の姿を失っただけで、また転生するんだよね?」
「そうだね。
次にまた悪魔として生まれるか、人間として生まれるかは……神が決めることだから、私にもわからない」
「……アベルは……次……人間になれるのかな……」
「……どうだろうね……」
ハニエルは空を見上げた。
「でも……彼が変わろうとしていたのは……確かだよ」
「……うん……」
ルイスは、かすかに微笑んだ。
「他人の転生なんか心配してる場合か?」
レオが口を挟む。
「お前が転生したら、そこらへんのアリだな」
「はぁ?言っときますけど、アリは働き者なんですよ。レオと違って。」
「へぇ〜。じゃあ来世は、一生アリとして虚しく働け」
「っ…レオこそ猿にでもなって、一生発情してろ!!」
「誰が猿だ!」
「酒場で女にホイホイついてったのはどこの誰ですか〜?」
「俺が魅力的すぎんだよ。童貞のお前には分からねぇだろ」
「なっ!! ハニエルの前で何言ってるんですかああぁ!!!」
「……二人とも……うるさい……」
ハニエルの冷ややかな視線に、二人はぴたりと黙った。
———
日が沈み、辺りが暗くなり始めた頃。
「……疲れた……眠い……」
ルイスは限界だった。
「もう少しだ。耐えろ」
レオは言いながらハニエルを見る。
彼女もまた、うつらうつらしていた。
「おい……大丈夫か?」
「だ……だいじょ……ぶ……」
その姿に、レオは小さく舌打ちする。
「もう歩けないよ〜」
ルイスが情けなく言う。
「ったく……」
レオは二人を右肩と左肩に担ぎ上げた。
「レオ……!?」
ルイスが驚く。
「ちゃんと捕まってろ」
「レオ……優しいとこあるんだね」
「うっせー。落とすぞ」
「……すー……すー……」
ハニエルはすでに眠っていた。
「もう寝てんのかよ……」
こうして三人は、次なる目的地へと歩みを進めていった―――




