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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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第6話 霧の記憶

 花祭りを楽しんでいた昨夜。

 サンザシ飴の屋台で待っている安茶アンチャたちの元に戻る途中、芳寧ファンニンは酔っ払いに襲われ、路地に引き込まれてしまった。


 なんとか男を振り払い、暗闇を抜け出そうとしていた芳寧ファンニンは、何か柔らかいものを踏んで足をとられ、手をつくと、そこに人が倒れていた。


 血の匂いがした。

 呼吸音が聞こえない。

 ……死んでいた。


 芳寧ファンニンの心臓が跳ね上がった時、

「静かに」

 すぐ背後から低い声が響いた。


 服従などするものか。

 大声をはりあげ、思い切り咬みついてやると誓ったばかりだ。


 芳寧ファンニンは、喉いっぱいに空気を吸い込み、笛や太鼓の鳴り物に負けない甲高い声で叫んだ。


「おい!」


 男の手が、芳寧ファンニンの口をふさいだ。

 驚いて芳寧ファンニンは手足をばたつかせたが、たくましい腕に動きを封じられてしまう。


「通りまで連れていく。手荒な真似はしない」


 聞こえてきたのは、意外にも穏やかな声だった。


『誰が信用するもんですか! こんな状況で静かにしろなんて、ろくな人間じゃないわ! 放しなさい! 咬みつくわよ!』


 そう叫んでいる芳寧ファンニンだが、男の手に口をふさがれ、声はくぐもった唸りにしかならない。それでも必死にあがいていると、首筋に衝撃が走った。

 笛の音が遠くに沈んでいく。芳寧ファンニンは気を失った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 娘は、井戸の反対側から陸峰ルフォンを睨みつけている。

 愛らしい娘だった。


 なめらかに弧を描いた眉の下に、大きな瞳が揺れている。その瞳孔は、霧のように白い。鼻筋は通っているが、さほど高くもなく、ぷくりと膨らんだ小鼻が幼さを感じさせた。病み上がりのように血の気のない唇は、決意に固く結ばれている。


 束に巻きあげた黒髪が、日差しに映えていた。


 昨夜の彼女は、雄鶏のとさかのように大きな帽子をかぶっていた。

 その特徴的な民族衣装で、茶発チャファ馬店の馬房に向かう途中、裏戸で見かけたあの娘だと気づいたのだ。

 今、目の前で仁王立ちしている娘は、その帽子をかぶっていない。


 まさか彼女だったとは。

 それにしても…と、陸峰ルフォンは思った。

 あの路地にいたのが、なぜ自分だとわかったのだろう?


 陸峰ルフォンは何も言わず、桶の水を足元のたらいにあけた。


「それ、私の水だわ」

「俺が手を貸した」

「泥棒じゃないの」

「何とでも言え。必要なら汲んでやる」

「あの路地で、何してたの」

「……」

「あれは、死体だった」


 やはり。

 倒れていたのが人だと、彼女は気づいていたらしい。

 たらいが水でいっぱいになったが、湿った縄を握りなおし、陸峰ルフォンはまた桶を井戸の底に下ろしはじめた。


「血の臭いがした。息もしてなかった」

「……」

「私の目がこんなだから、甘く見てるんでしょうけど──」

 深く息を吸って、彼女は続けた。

「あきらめなさい。証拠ならあるんだから」


 縄を下ろす陸峰ルフォンの手が止まった。


「証拠?」

「そうよ」


 言い捨てるように答えた芳寧ファンニンは、くるりと踵を返し、馬店の方へと歩いていく。迷いのない足取りだった。

 彼女の目は見えている。では、あの時……?!


「待て」

 陸峰ルフォンは、縄から手を離した。井戸の石壁を伝って、がらがらと落ちていく水桶が、ぼちゃんと水面に落ちる。


「待て!」


 陸峰ルフォンは、芳寧ファンニンの肩をつかんだ。

 小さな叫び声をあげ、振り向いた芳寧ファンニンは、再び平手打ちをと腕を振り上げる。その細い手首を、陸峰ルフォンのしなやかな指がとらえた。


「何するのよ!」

「証拠とは、なんだ?」

「放して!」


 白い瞳が、まっすぐに陸峰ルフォンの瞳を刺す。


「昨夜の路地とは違うのよ。ここで叫べば人が来る」

「証拠のことは──」


 陸峰ルフォンが、芳寧ファンニンの手首をぐいと引き寄せた。まるで、迷いを断ち切るかのように。よろけた芳寧ファンニンの頬が、彼の黒衣の胸にぶつかった。


「誰にも言うな」


 陸峰ルフォンの声が、耳元でささやく。


「誰にも言うな」


 その言葉を耳にした途端、芳寧ファンニンは激しいめまいに襲われた。身体中の力が抜けていく。まぶたの裏の白い霧が濃くなり、一瞬の閃光が見えた。

 霧の向こうに、何かがうごめいている。

 何かが……追ってくる。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


薄暗い山道。白い霧。


ガタゴトと揺れる荷車。頬を撫でる冷気。


風を切る鞭の音。誰かのむせび泣き。


強く抱きしめてくる温かい腕。


衝撃。枝の折れる音。


泣き叫ぶ自分の声。女の悲鳴。男の怒声。


「誰にも言うんじゃないよ」


……闇。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


芳寧ファンニン、しっかりして」

 阿依アイ姐さんの声がする。


 目を開けると、客房の一室にいた。寝床に横たわっている。阿依アイ桐儿トンアが、心配そうに芳寧ファンニンを見下ろしていた。


「大丈夫? 気分はどう? 吐き気は?」


 芳寧ファンニンは首をふり、ゆっくりと身体を起こした。桐儿トンアが、すぐに支えてくれる。


「まだ顔が青いわ。水でも飲む?」


 芳寧ファンニンがうなずくと、白湯の入った茶杯が口元に運ばれてきた。


「いったい、どうしたの? また陸峰ルフォンさんに抱えられて来るなんて」


 芳寧ファンニンは、茶杯から顔をあげた。


陸峰ルフォン? また抱えられて……?」


 阿依アイ桐儿トンアは、顔を見合わせた。戸惑いながらも話してくれたのは、昨夜の花祭りの出来事である。


「あなたが、なかなかサンザシ飴の屋台まで来ないから、安茶アンチャ桐儿トンアも心配してたのよ。私と合流した後も、桐儿トンアは責任を感じて大泣きして大変だった。


 三人で桟橋まで戻ってみたけど、あなたはどこにもいやしない。いよいよこれは大変なことになった。衛門に届けようかと思った矢先、あの陸峰ルフォンさんが、あなたを抱えて通りを歩いてきたの。


 ……あ、陸峰ルフォンさんというのは、一昨日からうちに泊まってる青年。すらりと長身で、切れ長の瞳がすごく素敵な人よ。明らかに私より年下だけど、ときめいちゃうわ。


 それはさておき、あまりにびっくりして、いったい何があったのよと彼に怒鳴っちゃったの。そしたら、あなたが気絶する直前にこう言ったんですって。『酔っ払いに襲われて、逃げる途中で転んだ』と。覚えてない?


 最初は、彼が襲ったんじゃないかと勘ぐっちゃったわ。でも、安茶アンチャの話を聞いてみると、とても感じのいい人らしいし」


 阿依アイは、ひと息ついてから続けた。


ドウお婆さんが、あなたを診てくれたわよ。かすり傷だから大丈夫って。

イエン掌事から『今回のことで動揺しているはずだから、意識が戻っても話を切り出すんじゃないよ』って忠告されたわ。……話しちゃったけど。


 あなたのお父さんも、すごく心配してた。茶坊に連れて帰ると言ってたんだけど、イエン掌事が『今夜は女三人で看病するから、馬店に泊めた方がいい』って説得したの」


 そして、心配そうに芳寧ファンニンの額に手を当てた。


「なのに、いつの間に起きて井戸へ行ったの? 水汲みの途中で気絶したなんて……。陸峰ルフォンさんも動揺してたみたい。本当に大丈夫?」


「うん、平気よ」


 芳寧ファンニンは、笑顔をつくった。


 井戸端で、陸峰ルフォンとかわした会話が蘇る。

 動揺していたらしいが、その理由はわかっている。


 きっと、彼が殺したのだ。

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