第17話 公子の想い人
翌日、芳寧は茶発馬店を休んだ。
週に一度の決まった休日だが、今日はその休みが救いに思えた。昨日の出来事が胸の奥で、まだ渦を巻いていたからだ。
揚易棠に合わせる顔がなかったし、克己の辞退についての謝罪も言い訳も浮かばない。
陸峰の前で、可愛げのない捨て台詞を吐いた自分にも腹が立つ。きっとまた「口の減らない小娘だ」と思われたに違いない。反抗期の子どものように見られた気がして、恥ずかしさがこみ上げた。
一日、茶坊で克己の手伝いをしたが、父の口からは揚易棠の話も巍山行きの話も出てこなかった。
今年の新茶は味がいいとか、向かいの王おばさんに孫が生まれたとか、昼飯はどっちが作ろうとか、そんな他愛のない話ばかり。
それでも、ふとした時に揚易棠と陸峰の面影が浮かんで、芳寧は戸惑った。身分も物腰もまったく対照的な二人の若者。ほんの数日、わずかな会話で、彼女の日常に入り込まれてしまった。
翌朝、重い足取りで茶発馬店へ向かった芳寧は、お使いに出て行くところだった安茶から、揚易棠の出発が明朝に決まったと告げられた。背中に刀傷を受けていなければ、二日前に発つ予定だったらしい。
肩から力が抜けるような感覚は、安心感か落胆かわからない。
侍女をつれていない揚易棠の代わりに、阿依と桐儿が荷造りを手伝っているようで、芳寧は一人で土間にいた。茶発馬店の店小娘でもない日雇いの芳寧が、宿泊客の世話をすることはない。
後庭の先にある馬房からラバの鳴き声がする。すっかり元気になったようだ。
きっと陸峰は、その辺りにいるはず。できるだけ顔を合わせずに済むよう、今日は後庭には近づくまいと思った。
今日の昼餉の茶は、何にしよう。
考えがまとまらないまま、棚の奥を探っていると鉄観音の包みを見つけた。高級茶であるために、それほど提供することの少ない茶葉だ。名家が扱うこの上質茶は「いざという時のために」と茶師である父がもたせてくれた。
鉄観音の品質は、茶師の腕で決まる。
茶葉を揉んで、香りを引き出す揉捻。
香りと手触りが肝心な発酵。
鉄観音の香ばしさを決める焙煎。
香りを深く、甘く、長く残すために必要な再焙煎。
(これにしよう)
鉄観音の香りが、明朝には乃柯里村を発つ茶隊── 揚易棠──の門出を祝う茶にふさわしい気がした。
まずは急須に熱湯を回しかけ、温める。
温めた器は香りを引き出すために重要だ。
茶葉は、しっかり多めに。
香りが命の鉄観音は、熱い湯で一気に淹れる。
最初の湯をすぐに捨てるのは、茶葉を開くためと香りを立たせるためだ。提供するのは、二煎目から。
二煎目は、香りがもっとも強い。
三煎目は、甘みが引き立つ。
四煎目は、落ちついた香り。
五煎目は、やわらかい余韻が楽しめる。
揚易棠に提供するのは──三煎目にしよう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
茶器を整えていると、桐儿が厨房に戻ってきた。
「芳寧姐さん、いい香りですね」
丸い瞳をくるくるさせて、まるで栗鼠のようだ。
「お茶を届けてくれる?」
芳寧が、盆を指さした。
「ちょっと買い出しに行きたいの。茶葉が切れてしまったから」
嘘ではない。
「私が行きましょうか?」
「いいのよ。ちょっと外の空気を吸いたいから」
じゃあねと手を振って、表へと出た。
春の木漏れ日が、肌に温かい。
茶発馬店の脇には、小川が流れている。
屋根付き橋を渡らずに、芳寧は小川へ続く石敷きの道を下りた。
お気に入りの場所がある。
陽光にきらめく穏やかな水の流れが、苔むした岩場に静かにぶつかる。そのそばに、十本を優に超える桂花が並んでいる。春である今は、濃い緑の葉が水面に影を落としているが、秋になれば甘く優しく、どこか懐かしさを感じさせる香りが一面に広がる空間だ。
石敷きの道は、すべりやすい。足元ばかり見て歩いていた芳寧は、水辺に先客がいることに気づかなかった。
揚易棠だった。
足音に気づいていたのだろう、芳寧が顔を上げると、水辺にしゃがみこんでいた彼は、すでに笑顔を浮かべていた。
「休憩するには、実にいい場所だ」
明るい声だった。
木漏れ日が、揚易棠の額に揺れている。
「……お部屋に、お茶をお届けしました」
また失言。まるで部屋に戻れと言っているみたいではないか。
「ありがとう。では、いただくよ」
去ろうとした長身の背中に、慌てて声をかけた。
「父の件は申し訳ありません! せっかくのお話をお断りするなんて」
ふり向いた揚易棠は、わずかに腰をかがめて、芳寧の顔をのぞき込むようにした。
「それを気にして、昨日は休みを?」
「い、いいえ。昨日はもとからお休みの日だったので」
「そうと聞いて安心した。避けられているのかと思った」
──避けるべきなのかもしれない。
「明日、お発ちになるそうですね」
「そうなんだ。予定より遅れてしまったが、朝一番で巍山に向かう」
巍山。姜家の婿選抜会に。
「良いご縁に恵まれますように」
芳寧は、そう言って頭を下げた。
「良い縁などあろうはずがない」
返ってきた声には、棘があった。
驚いて顔を上げると、(芳寧のように火傷もない)きれいな手のひらを見せて、揚易棠は笑った。
「すまない。きみに八つ当たりしたところで仕方がないのに」
揚易棠は、足元の石ころを蹴った。
せせらぎに落ちる音。
もしかして、彼は意に添わぬ結婚を強いられているのだろうか。
婿選抜会に招かれた茶商の公子たちは、みんな期待と希望を胸に抱いているものとばかり思っていた。確かに、彼らは選ばれる側だ。自分たちが縁を決めるわけではない。意中の相手であろうとなかろうと、選ばれてしまえば婿入りするしかない。
八つ当たりしたくなるほどの葛藤を、彼が秘めていたとは。
「きみに想い人は?」
急に聞かれた。どきりとした。
揚易棠の声は、ふざけてはいなかった。
あなたですとは、とても言えない。
かと言って嘘も言いたくない。
芳寧が言い淀んでいると、揚易棠が続けて言った。
「もう三年になる。手を伸ばせば届くところにいるが、彼女がそれを望まない」
その目は、芳寧を越えてはるか遠くに向けられていた。その言葉は、知らない「彼女」へと向けられていた。
揚易棠は、また足元の石ころを蹴った。
まるで子どものように。
「流れに身を投じても、私はこの石と同じだ。落ちたその場所で沈むだけ」
ため息とともに首を振り、そのまま揚易棠は石敷きの道を上っていく。芳寧の目に映るその後ろ姿は、白い木漏れ日の中へ、ふっと溶けていくようだった。
背中を見送った芳寧は、小川をふり返った。
白い視界に差し込む眩しい光。
木漏れ日が揺れる水面。
さやさやと風が鳴り、ちゃぷちゃぷと水が流れ、ぴちゅぴちゅと鳥がさえずる。
彼がさっきまで立っていた岸辺へと歩く。
覚えのある香りが、ほのかに漂った。




