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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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17/22

第17話 公子の想い人

 翌日、芳寧ファンニン茶発チャファ馬店を休んだ。

 週に一度の決まった休日だが、今日はその休みが救いに思えた。昨日の出来事が胸の奥で、まだ渦を巻いていたからだ。


 揚易棠ヤン・イタンに合わせる顔がなかったし、克己クジの辞退についての謝罪も言い訳も浮かばない。


 陸峰ルフォンの前で、可愛げのない捨て台詞を吐いた自分にも腹が立つ。きっとまた「口の減らない小娘だ」と思われたに違いない。反抗期の子どものように見られた気がして、恥ずかしさがこみ上げた。


 一日、茶坊で克己クジの手伝いをしたが、父の口からは揚易棠ヤン・イタンの話も巍山ウェイシャン行きの話も出てこなかった。


 今年の新茶は味がいいとか、向かいのワンおばさんに孫が生まれたとか、昼飯はどっちが作ろうとか、そんな他愛のない話ばかり。


 それでも、ふとした時に揚易棠ヤン・イタン陸峰ルフォンの面影が浮かんで、芳寧ファンニンは戸惑った。身分も物腰もまったく対照的な二人の若者。ほんの数日、わずかな会話で、彼女の日常に入り込まれてしまった。


 翌朝、重い足取りで茶発チャファ馬店へ向かった芳寧ファンニンは、お使いに出て行くところだった安茶アンチャから、揚易棠ヤン・イタンの出発が明朝に決まったと告げられた。背中に刀傷を受けていなければ、二日前に発つ予定だったらしい。


 肩から力が抜けるような感覚は、安心感か落胆かわからない。


 侍女をつれていない揚易棠ヤン・イタンの代わりに、阿依アイ桐儿トンアが荷造りを手伝っているようで、芳寧ファンニンは一人で土間にいた。茶発チャファ馬店の店小娘でもない日雇いの芳寧ファンニンが、宿泊客の世話をすることはない。


 後庭の先にある馬房からラバの鳴き声がする。すっかり元気になったようだ。

 きっと陸峰ルフォンは、その辺りにいるはず。できるだけ顔を合わせずに済むよう、今日は後庭には近づくまいと思った。


 今日の昼餉の茶は、何にしよう。


 考えがまとまらないまま、棚の奥を探っていると鉄観音の包みを見つけた。高級茶であるために、それほど提供することの少ない茶葉だ。名家が扱うこの上質茶は「いざという時のために」と茶師である父がもたせてくれた。


 鉄観音の品質は、茶師の腕で決まる。


 茶葉を揉んで、香りを引き出す揉捻じゅうねん

 香りと手触りが肝心な発酵。

 鉄観音の香ばしさを決める焙煎ほうじ

 香りを深く、甘く、長く残すために必要な再焙煎。


(これにしよう)


 鉄観音の香りが、明朝には乃柯里ノカリ村を発つ茶隊── 揚易棠ヤン・イタン──の門出を祝う茶にふさわしい気がした。


 まずは急須に熱湯を回しかけ、温める。

 温めた器は香りを引き出すために重要だ。


 茶葉は、しっかり多めに。

 香りが命の鉄観音は、熱い湯で一気に淹れる。

 

 最初の湯をすぐに捨てるのは、茶葉を開くためと香りを立たせるためだ。提供するのは、二煎目から。


 二煎目は、香りがもっとも強い。

 三煎目は、甘みが引き立つ。

 四煎目は、落ちついた香り。

 五煎目は、やわらかい余韻が楽しめる。


 揚易棠ヤン・イタンに提供するのは──三煎目にしよう。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 茶器を整えていると、桐儿トンアが厨房に戻ってきた。

 

芳寧ファンニン姐さん、いい香りですね」

 丸い瞳をくるくるさせて、まるで栗鼠リスのようだ。


「お茶を届けてくれる?」


 芳寧ファンニンが、盆を指さした。


「ちょっと買い出しに行きたいの。茶葉が切れてしまったから」


 嘘ではない。


「私が行きましょうか?」

「いいのよ。ちょっと外の空気を吸いたいから」


 じゃあねと手を振って、表へと出た。

 春の木漏れ日が、肌に温かい。


 茶発チャファ馬店の脇には、小川が流れている。

 屋根付き橋を渡らずに、芳寧ファンニンは小川へ続く石敷きの道を下りた。


 お気に入りの場所がある。


 陽光にきらめく穏やかな水の流れが、苔むした岩場に静かにぶつかる。そのそばに、十本を優に超える桂花きんもくせいが並んでいる。春である今は、濃い緑の葉が水面に影を落としているが、秋になれば甘く優しく、どこか懐かしさを感じさせる香りが一面に広がる空間だ。


 石敷きの道は、すべりやすい。足元ばかり見て歩いていた芳寧ファンニンは、水辺に先客がいることに気づかなかった。


 揚易棠ヤン・イタンだった。


 足音に気づいていたのだろう、芳寧ファンニンが顔を上げると、水辺にしゃがみこんでいた彼は、すでに笑顔を浮かべていた。


「休憩するには、実にいい場所だ」


 明るい声だった。

 木漏れ日が、揚易棠ヤン・イタンの額に揺れている。


「……お部屋に、お茶をお届けしました」


 また失言。まるで部屋に戻れと言っているみたいではないか。


「ありがとう。では、いただくよ」


 去ろうとした長身の背中に、慌てて声をかけた。


「父の件は申し訳ありません! せっかくのお話をお断りするなんて」


 ふり向いた揚易棠ヤン・イタンは、わずかに腰をかがめて、芳寧ファンニンの顔をのぞき込むようにした。


「それを気にして、昨日は休みを?」

「い、いいえ。昨日はもとからお休みの日だったので」

「そうと聞いて安心した。避けられているのかと思った」


 ──避けるべきなのかもしれない。


「明日、お発ちになるそうですね」

「そうなんだ。予定より遅れてしまったが、朝一番で巍山に向かう」


 巍山ウェイシャンジャ家の婿選抜会に。


「良いご縁に恵まれますように」

 芳寧ファンニンは、そう言って頭を下げた。


「良い縁などあろうはずがない」

 返ってきた声には、棘があった。


 驚いて顔を上げると、(芳寧ファンニンのように火傷もない)きれいな手のひらを見せて、揚易棠ヤン・イタンは笑った。


「すまない。きみに八つ当たりしたところで仕方がないのに」


 揚易棠ヤン・イタンは、足元の石ころを蹴った。

 せせらぎに落ちる音。

 もしかして、彼は意に添わぬ結婚を強いられているのだろうか。

 

 婿選抜会に招かれた茶商の公子たちは、みんな期待と希望を胸に抱いているものとばかり思っていた。確かに、彼らは選ばれる側だ。自分たちが縁を決めるわけではない。意中の相手であろうとなかろうと、選ばれてしまえば婿入りするしかない。

 八つ当たりしたくなるほどの葛藤を、彼が秘めていたとは。


「きみに想い人は?」


 急に聞かれた。どきりとした。

 揚易棠ヤン・イタンの声は、ふざけてはいなかった。

 

 あなたですとは、とても言えない。

 かと言って嘘も言いたくない。

 芳寧ファンニンが言い淀んでいると、揚易棠ヤン・イタンが続けて言った。


「もう三年になる。手を伸ばせば届くところにいるが、彼女がそれを望まない」


 その目は、芳寧ファンニンを越えてはるか遠くに向けられていた。その言葉は、知らない「彼女」へと向けられていた。


 揚易棠ヤン・イタンは、また足元の石ころを蹴った。

 まるで子どものように。

 

「流れに身を投じても、私はこの石と同じだ。落ちたその場所で沈むだけ」


 ため息とともに首を振り、そのまま揚易棠ヤン・イタンは石敷きの道を上っていく。芳寧ファンニンの目に映るその後ろ姿は、白い木漏れ日の中へ、ふっと溶けていくようだった。


 背中を見送った芳寧ファンニンは、小川をふり返った。

 白い視界に差し込む眩しい光。

 木漏れ日が揺れる水面。

 さやさやと風が鳴り、ちゃぷちゃぷと水が流れ、ぴちゅぴちゅと鳥がさえずる。

 彼がさっきまで立っていた岸辺へと歩く。

 覚えのある香りが、ほのかに漂った。


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