第15話 静かな拒絶
開いたままの木戸から、橙色の灯りが石畳に漏れている。
看板には「名もない茶坊」とある。
茶葉を焙じる香り、湯気の湿り気が流れてくる。
芳寧が戸口に立った途端、明るい声が飛んできた。
「おう、おかえり!」
「芳寧、おかえり。今日も働き者だな」
「厳さんと会ったよ。お前さんの茶をほめてたぞ」
戸口をくぐると丸卓が二つ、土間に並んでいる。
壁際の長椅子には、常連のおじさん達が腰を下ろしていた。
「芳寧ちゃんは、物覚えがいいからな」
「克己さん、うかうかしてると追い越されちまうぞ」
その声に客座の先から、父の笑い声が飛んできた。
客座の先は、竈や小さな炉台がある火の場──茶を淹れる作業場──である。竈の前で大きな体躯を縮こませ、湯を扱っていた克己の笑顔がこちらに向いた。
「おかえり、芳寧」
克己が営む小さな茶坊は、茶葉を選り分け、焙じるだけでなく、客が語らう場所でもある。芳寧にとっては、ほっとひと息つける空間だ。
物心ついた頃から、すでに父は茶師としてこの「名もない茶坊」を一人で切り盛りしていた。芳寧の記憶に、母はいない。
「ただいま。周さん、腰はよくなった?」
芳寧が声をかけると、常連客の一人が腰をぽんぽんと叩いた。
「芳寧ちゃんの温茶湿布が効いたよ。飲み終わった後の茶葉が、あんな風に使えるとは、目から鱗だ」
「すぐ用意できるから、待ってくださいね」
芳寧は父のいる火の場へと入った。わずかな段差も身体が覚えているので、つまずくことはない。
克己は、使い終えた茶葉も決して粗末にはしない。ほのかな香りをたたえた茶殻は、今日も炉台の脇の竹籠に入っている。芳寧は、まだ温かな茶殻をひとつかみ手に取ると、丁寧に乾いた布で包み始めた。
布に包んだ茶殻を竈の縁に置けば、じんわり温かくなる。古来から腰に効くと言われてきた素朴な民間療法だ。
手早く茶殻の包みを三つ作り、客座で待っていた周さん、依さん、盾さんに渡すと、三人はサンザシ飴をもらった桐儿のように目を輝かせた。
「ありがとよ、芳寧」
「これで、今夜はぐっすりだ」
「茶を飲んだ後の茶碗で温めて、首に当てりゃ極楽だよ」
「そろそろ失礼しようか。夕餉の時間だからな」
常連客たちが、そろって席を立つ。
「またな、克己さん。今度は杜仲茶を頼むよ」
腎の臓を補い、腰を強くすると信じられている樹皮の茶だ。苦味が少なく、焙じると実に香ばしい。
常連客は、よっこいしょと立ち上がり、茶器をかちゃかちゃと鳴らしながら、勝手知ったる流しにまで運んでくれた。芳寧に手を振りながら、連れだって戸口を出て行く。
小さな茶坊は、急に静かになった。
「父さん、着替えてくるね」
声をかけて奥に入る。火の場の先は、親子の生活空間だ。
一番奥に、芳寧の小さな部屋がある。小窓から風が通り、いつもの涼しさが頬に触れた。衣類や髪紐などが収めてある竹籠、その横には薄い布団と藁の敷き布が、きれいに畳んである。克己が作ってくれた小さな鏡台の上には、大切な物をしまっておく小さな木箱が乗っていた。
着替えを済ませ、克己の寝所でもある部屋に入ると、すでに夕餉の支度は整っていた。芳寧が茶発馬店で仕事を始めてからというもの、茶坊の仕事の合間に料理を作ってくれる優しい父だ。
芳寧は、くんくんと空気を嗅いだ。
今夜は、竹の子の煮ものと鯵の干物だ。汁物の具は葱らしい。刻んだ葱の甘い匂いが立ち上っている。質素ではあれ、芳寧にとってはこの上なく落ち着く香りだ。
「芳寧、飯にしよう」
土間の片づけを済ませた克己が、部屋に入ってきた。
黒焼きの土鍋を抱え、土間から上がってくる。麦飯の湯気が立っている。
「また父さんたら、土鍋のまま抱えてきたわね」
芳寧が笑う。
洗い物を増やしたくないと言って、克己は木の飯椀を使おうとせず、熱々の土鍋をそのまま運んでくるのだ。
「この方が、炊き立て感があるからな」
豪快な父なのに、あれほど繊細な茶を淹れられるのが不思議だ。
二人はいつものように食卓を囲んだ。
いつもとは少し異なる会話を、今日はしなければならない。
「父さん、揚二公子からお話があったの」
「どんな話だ?」
「父さんに同行してもらいたいんだって」
芳寧は、揚易棠からの話をそのまま伝えた。彼が腕利きの茶師を探していること。克己の茶芸を百花茶館で見て感銘を受け、ぜひ茶の知識と技を指南する者として雇いたいと思っていること。雇用期間は一週間ほどの短期であること。
「そりゃ光栄な申し出だ」
克己は言った。
「虎街の揚家といえば、立派な家柄だ。そもそも、あの日は公子がお前を助けてくれたそうじゃないか。恩返しになるならば、ぜひお受けしたい」
「よかった」
心にもない言葉を口にするときは、目を合わせてはならない。
「だが、一週間の同行ともなれば、お前を置いていくわけにいかないな。茶発馬店の厳掌事に頼んで預けていくか、同行させてもらうことが条件になる」
「私なら平気よ」
芳寧は、慌てて言った。
婿選抜会に参加する揚易棠に同行するなど、針を飲み込むような思いで過ごす羽目になる。
「そういうわけにはいかん。お前には全幅の信頼を寄せているが、世の中には悲しいかな、つけこむ輩がいる。大事な娘を置いていけるものか。気が気じゃない。よい仕事などできん」
汁物の葱を噛みながら、克己は思い出したように言った。
「ところで、その同行先とは?」
「巍山よ」
克己の箸が止まった。
「どこだって?」
「巍山の姜家で、婿選抜会があるの。揚公子は候補者として、巍山に向かう途中、乃柯里村に寄られたのよ」
克己は何も言わなかった。
そのまま二人は黙って食事を続けた。
ぽりぽり竹の子をかじる音と、ずるずる汁物をすする音。
干物の骨をとり除くのに集中しているふりをして、芳寧もうつむいたまま食事を続けた。
「お断りしてくれ」
克己が言った。
「え?」
「いや、私が直接お断りしよう。明日は私も茶発馬店に行く」
「どうして? さっきは恩返しになるって──」
「お前を置いていくわけにいかん。同行させるのも心配だ。恩返しは、別の形で何とでもなる」
ほっとしたような気持ちの一方で、昨夜「わかりました。話してみます。任せてください!」と言ってしまった自分がいる。揚易棠の期待が重い。
「でも──」
「この話は、ここまでだ。洗い物を頼む。明日の仕込みをしてくる」
克己は、笑顔も見せずに火の場へと降りていった。
食事を終えた卓上には、空になった食器が静かに並んでいる。
まるで、芳寧の心にくすぶる空虚な言葉のように。




