表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/23

第15話 静かな拒絶

 開いたままの木戸から、橙色の灯りが石畳に漏れている。

 看板には「名もない茶坊」とある。

 茶葉を焙じる香り、湯気の湿り気が流れてくる。

 芳寧ファンニンが戸口に立った途端、明るい声が飛んできた。


「おう、おかえり!」

芳寧ファンニン、おかえり。今日も働き者だな」

イエンさんと会ったよ。お前さんの茶をほめてたぞ」


 戸口をくぐると丸卓が二つ、土間に並んでいる。

 壁際の長椅子には、常連のおじさん達が腰を下ろしていた。


芳寧ファンニンちゃんは、物覚えがいいからな」

克己クジさん、うかうかしてると追い越されちまうぞ」


 その声に客座の先から、父の笑い声が飛んできた。

 客座の先は、かまどや小さな炉台がある火の場──茶を淹れる作業場──である。かまどの前で大きな体躯を縮こませ、湯を扱っていた克己クジの笑顔がこちらに向いた。


「おかえり、芳寧ファンニン


 克己クジが営む小さな茶坊は、茶葉を選り分け、焙じるだけでなく、客が語らう場所でもある。芳寧ファンニンにとっては、ほっとひと息つける空間だ。


 物心ついた頃から、すでに父は茶師としてこの「名もない茶坊」を一人で切り盛りしていた。芳寧ファンニンの記憶に、母はいない。


「ただいま。ジョウさん、腰はよくなった?」

 芳寧ファンニンが声をかけると、常連客の一人が腰をぽんぽんと叩いた。


芳寧ファンニンちゃんの温茶湿布が効いたよ。飲み終わった後の茶葉が、あんな風に使えるとは、目から鱗だ」


「すぐ用意できるから、待ってくださいね」


 芳寧ファンニンは父のいる火の場へと入った。わずかな段差も身体が覚えているので、つまずくことはない。


 克己クジは、使い終えた茶葉も決して粗末にはしない。ほのかな香りをたたえた茶殻は、今日も炉台の脇の竹籠に入っている。芳寧ファンニンは、まだ温かな茶殻をひとつかみ手に取ると、丁寧に乾いた布で包み始めた。


 布に包んだ茶殻をかまの縁に置けば、じんわり温かくなる。古来から腰に効くと言われてきた素朴な民間療法だ。 


 手早く茶殻の包みを三つ作り、客座で待っていたジョウさん、さん、ドゥアンさんに渡すと、三人はサンザシ飴をもらった桐儿トンアのように目を輝かせた。


「ありがとよ、芳寧ファンニン

「これで、今夜はぐっすりだ」

「茶を飲んだ後の茶碗で温めて、首に当てりゃ極楽だよ」


「そろそろ失礼しようか。夕餉の時間だからな」

 常連客たちが、そろって席を立つ。


「またな、克己クジさん。今度は杜仲茶とちゅうちゃを頼むよ」

 腎の臓を補い、腰を強くすると信じられている樹皮の茶だ。苦味が少なく、焙じると実に香ばしい。


 常連客は、よっこいしょと立ち上がり、茶器をかちゃかちゃと鳴らしながら、勝手知ったる流しにまで運んでくれた。芳寧ファンニンに手を振りながら、連れだって戸口を出て行く。


 小さな茶坊は、急に静かになった。

 

「父さん、着替えてくるね」

 声をかけて奥に入る。火の場の先は、親子の生活空間だ。


 一番奥に、芳寧ファンニンの小さな部屋がある。小窓から風が通り、いつもの涼しさが頬に触れた。衣類や髪紐などが収めてある竹籠、その横には薄い布団と藁の敷き布が、きれいに畳んである。克己クジが作ってくれた小さな鏡台の上には、大切な物をしまっておく小さな木箱が乗っていた。


 着替えを済ませ、克己クジの寝所でもある部屋に入ると、すでに夕餉の支度は整っていた。芳寧ファンニン茶発チャファ馬店で仕事を始めてからというもの、茶坊の仕事の合間に料理を作ってくれる優しい父だ。


 芳寧ファンニンは、くんくんと空気を嗅いだ。


 今夜は、竹の子の煮ものと鯵の干物だ。汁物の具は葱らしい。刻んだ葱の甘い匂いが立ち上っている。質素ではあれ、芳寧ファンニンにとってはこの上なく落ち着く香りだ。


芳寧ファンニン、飯にしよう」


 土間の片づけを済ませた克己クジが、部屋に入ってきた。

 黒焼きの土鍋を抱え、土間から上がってくる。麦飯の湯気が立っている。


「また父さんたら、土鍋のまま抱えてきたわね」


 芳寧ファンニンが笑う。

 洗い物を増やしたくないと言って、克己クジは木の飯椀を使おうとせず、熱々の土鍋をそのまま運んでくるのだ。


「この方が、炊き立て感があるからな」


 豪快な父なのに、あれほど繊細な茶を淹れられるのが不思議だ。

 二人はいつものように食卓を囲んだ。

 いつもとは少し異なる会話を、今日はしなければならない。


「父さん、ヤン二公子からお話があったの」

「どんな話だ?」

「父さんに同行してもらいたいんだって」


 芳寧ファンニンは、揚易棠ヤン・イタンからの話をそのまま伝えた。彼が腕利きの茶師を探していること。克己クジの茶芸を百花バイファ茶館で見て感銘を受け、ぜひ茶の知識と技を指南する者として雇いたいと思っていること。雇用期間は一週間ほどの短期であること。


「そりゃ光栄な申し出だ」


 克己クジは言った。


「虎街のヤン家といえば、立派な家柄だ。そもそも、あの日は公子がお前を助けてくれたそうじゃないか。恩返しになるならば、ぜひお受けしたい」

「よかった」


 心にもない言葉を口にするときは、目を合わせてはならない。


「だが、一週間の同行ともなれば、お前を置いていくわけにいかないな。茶発チャファ馬店のイエン掌事に頼んで預けていくか、同行させてもらうことが条件になる」


「私なら平気よ」


 芳寧ファンニンは、慌てて言った。

 婿選抜会に参加する揚易棠ヤン・イタンに同行するなど、針を飲み込むような思いで過ごす羽目になる。


「そういうわけにはいかん。お前には全幅の信頼を寄せているが、世の中には悲しいかな、つけこむ輩がいる。大事な娘を置いていけるものか。気が気じゃない。よい仕事などできん」


 汁物の葱を噛みながら、克己クジは思い出したように言った。


「ところで、その同行先とは?」

巍山ウェイシャンよ」


 克己クジの箸が止まった。


「どこだって?」

巍山ウェイシャンジャン家で、婿選抜会があるの。ヤン公子は候補者として、巍山ウェイシャンに向かう途中、乃柯里ノカリ村に寄られたのよ」


 克己クジは何も言わなかった。

 そのまま二人は黙って食事を続けた。

 ぽりぽり竹の子をかじる音と、ずるずる汁物をすする音。

 干物の骨をとり除くのに集中しているふりをして、芳寧ファンニンもうつむいたまま食事を続けた。


「お断りしてくれ」


 克己クジが言った。


「え?」

「いや、私が直接お断りしよう。明日は私も茶発チャファ馬店に行く」

「どうして? さっきは恩返しになるって──」

「お前を置いていくわけにいかん。同行させるのも心配だ。恩返しは、別の形で何とでもなる」


 ほっとしたような気持ちの一方で、昨夜「わかりました。話してみます。任せてください!」と言ってしまった自分がいる。揚易棠ヤン・イタンの期待が重い。

 

「でも──」

「この話は、ここまでだ。洗い物を頼む。明日の仕込みをしてくる」


 克己クジは、笑顔も見せずに火の場へと降りていった。

 食事を終えた卓上には、空になった食器が静かに並んでいる。

 まるで、芳寧ファンニンの心にくすぶる空虚な言葉のように。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ