第11話 小さなつむじ風(1)
彼女は、小さなつむじ風だ。
どこからともなく現れ、足元の砂埃を巻き上げ、渦をまいて存在を主張し、やがて跡形もなく消える。
花祭りの夜、最初のつむじ風に遭遇した。
滝のような人混みの喧騒から離れた裏通りに、俺はいた。
そこに声もなく、二つの人影がもつれあうように入ってきた。
一人は、さほど若くもない中肉中背の男で、酔っぱらっているのか、身体を左右に大きく揺らしながら、小柄な娘の手を引っ張っていた。
祭りに浮かれて情を交わし合う男女かと、最初は思った。
だが、娘の足がもつれているにもかかわらず、男は彼女の手首をつかみ、乱暴に引きずりながら路地に入り込んでくる。
娘が被っている帽子に、見覚えがあった。
雄鶏のとさかのような大きな帽子。
茶発馬店の後庭で、杖を遠慮がちに使いながら、木戸を押して出て行ったあの少女だ。襟に施された色鮮やかな刺しゅうが、二人の背中を照らす提灯にちらちらと反射していた。
「離して!」
娘が叫んだ。
その瞬間、男が激しく娘の頬をひっぱたいた。よろけた娘は、山と積まれた水桶に勢いよくぶつかる。がらがらと音を立てて地面を転がっていく桶。祭りの喧騒で、その音はかき消された。
男は、体勢を崩した娘の身体をつかむと、土壁に激しく押しつけて顔を寄せた。娘は必死に押しのけようとしている。荒々しい呼吸音が、俺にも聞こえた。
(助けなければ)
だが、足元には死体がある。身動きが取れない。
頬をひっぱたく音が、また聞こえた。
娘の声にならない哀れな悲鳴が、ひぃひぃと薄闇に染み込んでいく。
(知ったことか!)
娘のもとに駆け寄ろうとした時、男がぐえっと呻いて脇腹を抑えた。
男を押しのけた娘は、跳ねるようにこちらに逃げてくる。
昼過ぎに降った雨で、地面はぬかるんでいた。ずるりと足を滑らせ、派手に土壁にぶつかる。それでも肩を押さえたのは一瞬のことで、片手で土壁をたどり、もう片方で障害物を探るようにしながら、俺の数歩手前で左へと折れた。
取り残された男が「可愛がってやろうと思ったのによ、このアマ!」と、ろれつの回らない舌で叫んだ。一気に酔いが冷めたようで、脇腹を押さえ、ひょこひょこと去っていく。
娘のすすり泣きが、すぐそばで聞こえた。こちらは、動くに動けない。
すすり泣きが収まると「咬みついてやる」とブツブツ唱える声が聞こえた。気力が戻ってきたらしい。
頼む。このまま立ち去ってくれ。
動く気配がし、右の角から娘が現れた。そろりそろりと表通りへ進んでいく。俺は彼に目配せし、手を出すなと合図した。
娘が数歩ほど進んだところで、不意に俺の背後から笛の音が響き始めた。太鼓の音と威勢のよいかけ声が、それに重なる。
(まずい)
まっすぐ進んでいた娘が立ち止まり、小首をかしげて耳をそばだて、突然こちらに向きを変えて歩いてきた。彼が “チッ” と舌打ちする。
その舌打ちに突き飛ばされたかのように、娘が脇へよけた。避けた先には「死体」があった。彼女はまともに顔を踏み、よろけて「死体」の頭に触れた。ひぃっと笛のような声を出す。俺は迷わず駆け寄った。
「静かに」
射ぬかれたような反応で、娘がこちらを仰ぎ見た。
大きな帽子が不格好にずれている。薄暗がりの中で、彼女の白い瞳が俺のやや右に向けられ、振り子のように揺れていた。
やはり、彼女は見えていない。
泣きだすかと思ったが、娘は大きく深呼吸した。そして、小さな身体に似つかわしくない銅鑼のような声量で、闇を震わす叫び声をあげた。
「おい!」
考える間もなかった。慌てて、娘の口をふさぐ。彼女は細い手足を四方八方にばたつかせ、小さな拳で俺の脇腹をしこたま殴りつけた。
「通りまで連れていく。手荒な真似はしない」
穏やかに言ったつもりだが、聞く耳をもたない。
それもそうだろう。つい今しがた、下品な酔っ払いに襲われたばかりだ。こんな怪しげな裏通りに君子が潜んでいるわけもない。
娘はなんとかして俺の手に咬みつこうとしていた。仕方ない。
白い首を軽く叩くと、娘はあっさり失神した。
ともかく、ここから彼女を遠ざけることが先決だ。
両腕に抱え、通りへと向かった。
意識のない彼女は、ふわりと俺の肩に頭をもたせかけてきた。艶やかな黒髪が、男に叩かれて赤く腫れあがった頬にくっついている。閉じた瞳から、ぽろりと滴がこぼれたのを見た瞬間、なぜか俺まで切ない気持ちになった。
提灯が煌々と石畳を照らす通りに出たものの、彼女を放置するわけにはいかない。信頼できそうな地元の店主に預けて去ろうと決めた時、バタバタと三人が駆け寄ってきた。
年長らしいそのうちの一人が「いったい何があったのよ?!」と、牙をむく狼のような剣幕で怒鳴りかかってきた。用意していた答えはない。俺は「酔っ払いに襲われて、逃げる途中で転んだと言っていた」と答えると、三人は案外あっさり納得した。
あの日、馬房まで案内してくれた安茶という少年が「うちのお客さんだ!」と身元を確認してくれたことも理由だろう。
ぐったりと脱力し、意識のない彼女を三人に預け、俺は死体のところへ戻った。
次に彼女と会ったのは、井戸端だった。




