第1話 茶馬道の先
うっそうと茂る樹木の中を、ラバの茶隊が行く。
三十頭のひづめが石畳を叩き、鈴の音がこだまする。
ここは茶馬道。
雲南から西の高地へと続く、長い長い街道だ。
人が並んで二人、ようやく歩けるほどの細道を、小柄ながら屈強なラバは、両脇にお宝をどっさり抱えて黙々と歩く。
お宝といっても金銀翡翠ではない。餅茶だ。
摘んだ茶葉を丹念にもみ、風に通し、蒸気にあて、布袋に詰めて重石で踏み、手間暇かけて固めることで、煎餅のような形と薄さになるのが、その名の由縁である。
日暮れが近い。どこかで山烏が鳴いている。
「この先が乃柯里村だ。みんな気を抜くなよ!」
茶隊の先頭で、武具に身を包んだ堂頭儿が怒鳴った。
「気を抜くな!」
「もう少しで休めるぞ!」
「遅れるな!」
日焼けした面々が、互いに励まし合う。
賊が出没する山道だ。宿場町に入るまで油断はできない。
茶隊の中ほどを歩いていた陸峰は、背中の長剣を確認し、切れ長の瞳をわずかに曇らせた。数日前に人を切った感触を思い出したのだ。
切らねば切られる。堂頭儿の言うとおりだ。南方から三か月かけて運んだ茶葉も命も、奪われるわけにはいかない。
十八歳になったばかりの彼は、茶商の過酷な旅を続けて五年になる。堂頭儿とは対照的に線の細い身体だが、鍛冶屋見習いをしていた頃と比べると、背も伸びたし肉もついた。
狼の群れに急襲されようと、賊に矢を放たれようと、「茶一斤、馬一斤」のお宝を守り抜くのが任務だ。今回の旅にはもうひとつ、大きな使命もある。
前方に空が見えてきた。一服の茶が恋しい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
帰り支度をしていた芳寧は、ふと耳に届いたざわめきに気づいて、動きを止めた。鈴の音がする。茶隊の先頭ラバが首から下げている鈴の音だ。
土間には、夕暮れが迫りつつあった。
芳寧の白く濁った世界から、輪郭までも消えていく時刻だ。帰りが遅くなれば、父さんが心配するけれど、最後にもうひと仕事くらいいいだろう。
近づいてくる鈴の音を確認し、芳寧は奥に声をかけた。
「姐さん、お客さまです!」
そうして再び、煉瓦造りの囲炉裏の前に座った。
姐さんと呼ばれて女性が出てきた。昼からずっと帳簿の管理をしていた厳掌事だ。
「遅いお着きだね。数は、わかるかい?」
芳寧は小首をかしげ、再び耳を澄ます。
家路に向かう村人たちや、豚やヤギの声が重なって、鈴の音がよくわからない。
冷たい土間にそっと触れた。わずかに石畳から伝わる独特の振動がある。
「三十頭は、いると思います」
「だとしたら、人間様は二十人くらいかね。よその馬店(宿)は一杯だっていうし、ここに何人か回ってきそうだ。大急ぎで寝床の用意をさせないと」
バタバタと足音をたてて、客堂へ消えた。
陽が沈むにつれ、急速に視界が奪われる。急がないと。
囲炉裏にかけた湯釜から、蒸気が立っている。
三脚炉の下では、炭の火が赤く揺れていた。
手袋をし、分厚い瓦を一枚、三脚炉に乗せる。
瓦が十分に熱くなったら、ひとつかみのもち米、生姜、茶葉を乗せ、菜箸で炒りながら水分を飛ばしていく。焦がさないように慎重に。
材料の火入れが終わったら、すべてを竹筒の中に入れて棒で突く。
夕暮れ迫る薄暗い土間では、音と感覚だけが頼りだ。
芳寧の視界は、どんな時も白い霧がかかっている。生まれた時から瞳孔が白く、物の輪郭がぼんやりとわかる程度の視力しかない。光が強くても見えないし、光がなければ杖なしでは怖くて歩けない。
亡くなった祖母もそうだったらしく、父さんは遺伝だと言っている。
幼い芳寧は転んでばかりいて、怖くて外では遊べなかった。
そんな彼女も十五歳になり、縁あって茶発馬店で働いている。乃柯里村にある宿のひとつだ。村のはずれに位置してはいるが、それなりに客は入る。規模はそれほど大きくはなく、収容人数も多くない。
小さな宿の小さな土間で、芳寧は茶を煎れる。
日中は、旅人ののどを潤すもてなしの茶を煎れ、陽が沈む前に父親の克己が営んでいる茶坊に帰る毎日だった。
指先の感覚と耳を頼りに、粉になるまで茶葉をすりつぶした。
初夏の野の香りがする。
粉末にした茶葉を、きれいに並べておいた茶杯に匙で入れる。
たぎった湯釜の湯を注ぐ頃には、屋根付き橋を渡るひづめの音と旅人たちの安堵の声が、門楼のすぐ外に聞こえていた。
「芳寧、お疲れさま。今日はもう上がっていいよ」
声をかけてくれる厳掌事の輪郭すら、もうすっかり土間の壁に溶けてしまってわからない。
「ありがとうございます。また明日来ます」
「気をつけて帰るんだよ」
すれ違いざま、芳寧の腕に触れる厳掌事のあたたかな手。 母を知らない芳寧にとって、彼女は母のような存在だ。
荷下ろし場の前庭から、厳掌事の声に交じって若い娘と少年の声がした。
「ようこそ!」
「いらっしゃいませ!」
二十五歳になる働き盛りの店小娘の阿依と、馬の世話から給仕までこなす十四歳の安茶だ。
芳寧は立ち上がると、まとめておいた荷物を小脇に抱え、裏戸からそっと外へ出た。
万一のために置いてある杖を、念のため持って帰ろう。杖をついて歩く姿は、あまり見られたくないけれど。
道が見えなくなる前に、父さんが待つ茶坊に帰らなければ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
陸峰は、馬店の店小二と連れだって馬房へ向かった。道中、狼に襲われてケガをしたラバの手当てをするためだ。
初対面にもかかわらず、人懐っこい安茶というその少年は、どんな狼だったのか、どんな風に戦ったのか、赤いほっぺたを上気させて、矢継ぎ早に聞いてくる。そばかす顔で、笑うと大きな白い前歯が目立った。
馬房は、物干し場のある後庭の先にあった。
安茶の質問を軽くかわしながら歩いていると、木戸を押して出て行く少女の後ろ姿が目に留まった。十四、五歳だろうか。大きなきんちゃく袋を背負い、片手に杖を持っている。
細い肩、伸びた背筋。黒髪を束に巻きあげ、雄鶏のとさかのような形をした大きな帽子をかぶっている。さまざまな色の刺しゅうを施した衿が、夕焼けに映えた。
陸峰 (ルフォン) が見つめていると、視線を感じたのか、少女は木戸の向こうで振り向きかけ、そのまま雑踏へと消えていった。




